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第3回 成長期に入っていた1987年の「パリ国際ランジェリー展」

パリがモードの中心地であるとことは昔も今も変わりません。つまり世界中からファッションのビジネス関係者が集まってくるセンター(プラットフォーム)であって、パリで開催されるといってもフランス企業やフランス人ばかりでないことはいうまでもありません。ただ、フランスは情報発信基地としてのディレクションやブランディングが実に巧みで、とにかくおしゃれ。まさにこの国の強みです。
どうしてそれほど集客力があるかというと、やはりパリの街の魅力が大きく、フランスおよびパリの文化が人々を引きつけるわけで、わざわざ労力をかけて足を運びたいという気にさせるのです。そういえば、当時、日本からは大概がアンカレッジ空港経由、さらにモスクワ空港経由も珍しくない長い空旅でした。

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ファッションショーのフィナーレは黒

国際化、グローバル化の前夜

2000年代以降は「グローバリゼーション」のもとに時代が突き進み、盛んにグローバル化が叫ばれましたが、その前の90年代はむしろ「国際化」という言葉が使われていました。
ただ、私が初めてパリに行った1987年は、まだドメスティックな雰囲気が色濃く、出展者も来場者もフランス国内からが主流を占めていました。「パリ国際ランジェリー展」も、もともとはフランス国内の業界団体による、寄り合いのような国内展からスタートしたと聞いています。

同年のカタログで確認すると、出展者は全部で210ブランド。近年の半分強というところですが、驚くべきはその規模よりも中身の違いです。今は完全にフランス以外の国からが主流になっていますが、1987年はフランス124、それ以外が86の割合。しかもほとんどが近隣のヨーロッパ諸国で、アメリカからは唯一「ナトリ」の名前がありました。フランス以外では、スイスの「ハンロ」(現在はオーストリア)、オーストリアの「ウォルフォード」、ギリシャの「ノタ」などの名前が見られます。
「パリ国際ランジェリー展」との併設が定着している素材展「アンテルフィリエール」も既にあり、夜には別会場でカレ産地のリバーレース協会による華やかなショー(ショー前後のカクテルパーティもフランスらしい)が別会場で開催されていました。

入場者数については、前年対比25%増の15627人と記録されています。そのうち日本からは108人とあって、意外に多いのに驚きます。当時は、まだ日本から同展に向けた視察ツアーもほとんどなく(まだドイツのIGEDOが中心)、一般的にはまだ知られていなかったので、インポーターなどの業者が中心であったと思われます。

いつも何かがおこるのがパリ

この1987年「パリ国際ランジェリー展」の様子を、当時勤めていた会社の『ボディファッション・アーティクルス』3月号に、私は以下のようなレポートを寄稿しています。

 爆弾テロ騒ぎ、公共ストライキに次ぐ、二十数年ぶりの大雪と、昨秋から不安定な情勢の続いていたパリもすっかり落ち着きを取りもどし、天候も一転して、記者の訪れた二月十日前後は暫し春のような暖かさとなった。しかし、商店街は軒並みソルドで秋冬物の売れ残りを引っぱっており、秋冬商戦がそれらの災いから受けた打撃の大きさを物語っていた。

時代は変わっても、いつも似たようなことがおこっているのですね。そういえば、「リセッション(景気後退、不景気)」という言葉もいつも人々の口にのぼっていたことを思い出します。
ちなみに私の寄稿は数号にわたっていて、いかに書きたいことが多かったかが伝わってきます。出張経費も出さずそのまま無償というわけにはいかないと思われたか、後に会社から、原稿料として10万円支払われたことも、会社の名誉として記しておきます。

展示会責任者は同年代の女性

その時の会場構成や商品動向については、また次やその次の回で改めてお伝えしますが、何より印象的だったのは、同展の責任者が私と同年代の若い女性であったことです。忘れもしない、名前はパスカルさん。
アンティモードというフランス輸出促進団体でランジェリーを担当するプロモーションディレクターで、「パリ国際ランジェリー展」の総合的な責任者でした。この規模の展示会の現場責任者に女性が就くということは、当時の日本では考えられないことでした。

彼女をインタビューした記事が残っていますが、当時はランジェリーを取り巻く状況が大きく変化していた時のようです。前年の1986年はランジェリー全体で前年対比16%増(これはもちろんフランス国内市場の数字)。80年代はファッションの中でもランジェリーが注目されはじめた時で、女性たちがそれまでの必需品から、楽しみのために買うようになった。しかも単価の高い、よいものを買うようになったというのです。確かに当時はランジェリーの個性的なデザイナーブランドもいくつか登場していました。
そういうふうに市況が変化している原因を彼女は、「女性が自立し、女性の社会的地位が向上したため」と語っています。80年代という時代の背景が伝わってくるコメントです。
ランジェリーの成長を支えていたのは、まさに女性の社会的な地位向上だったのです。

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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。ご興味ある方は以下もご覧ください。『もう一つの衣服、ホームウエア』(みすず書房)

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