清々しい夕陽1

ふとまにの里と国体

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺

ふとまにの里と命名された里山は、山梨県甲府市の街中(まちなか)にある。

畑、水田、ぶどう棚、三日月型の池がある。
里全体を東西に貫く小川があり、目高や鮒が泳いでいる。
小高い丘には若い木々が風にゆられている。

昔話にでてくるような藁葺き屋根の東屋があり、その脇には椎茸の榾木が井桁に組まれている。
池にはまこもが生い繁り、夜になると田螺が角を出しながら水底を歩いている。

国の始まりのような、命の静かなる勢いに満ちた里である。

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この時代、もし土地を購入した場合、商業利用することが一般的であろうか。しかし、ラボラトリオ(和名:文章工房)代表・七沢賢治は、ここ甲斐の地に里山を蘇らせた。

資本主義経済の視座に立てば、億単位のお金を純然たる自然に投入したことになり、いかにしてそのお金を回収するかと議論が始まるであろう。
一方、古よりある日本の自然を最優先に思う立場であれば、このふとまにの里を無条件に肯定してくれるであろう。

ただし、この一切の肯定は信仰的でないことを願う。
自然賛歌における感情のみでは、里の本質を理解できず、道を誤るおそれがあるからだ。
その本質とは国体ではないかと考えている。

国体とは何であるか。

確かな知識と経験に裏打ちされた三島由紀夫氏のいくつもの憂国論や文部省の「国体の本義」等の足元にも及ばないが、私なりの意見を述べたい。

私はこの物質的な豊かさの恩恵をうけて育ち、確かに幸福であったと実感しているから、資本主義経済に物申す資格はないかもしれない。
しかし、美しい自然が市場経済の跋扈により荒廃している可能性を問われている昨今、その陰の幸福を享受する一人として真摯に考えてみたい。

私個人の人生という短い歴史においてさえ、美しい自然と接することにより、国を大切に思う気持ちが生まれ、生き方が大きく変わったのである。

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美しい言葉、水のように澄んだ人格は、自然との対話により成る。
日本は伝統的に自然のなかに神を見出してきたため、神との対話と換言しても誤りではあるまい。

短歌の言葉、俳句の季語、小説における叙事、叙情、叙景は、この美しい自然なしに生まれ磨かれることはなかったのではないか。世界最短の詩型である短歌・俳句は人の心を自然に託して詠まれ、人の感性を神の領域にまで昇華させたのである。

数学や自然科学にある美しさでさえも、神という言葉なしに説明できた者はいないだろう。
また、川端康成氏の「雪国」がノーベル文学賞を受賞した理由は、翻訳の正確さのみならず、描写の美しさにあるはずである。

これらを総称して日本文化と呼ぶならば、それは、世に日本の美しさを伝えるのみならず、戦争という悲劇によって失ってほしくないという祈りを生むのである。

かくして、人と自然との対話は、一個人の意識のみならず、建築等の物質的な環境、果ては文学、芸術、思想をつくる。

それらは、社会や国民性の型であり、国体である。

戦争とその戦勝国の欲が、両国の国体に影響を与えたことは確かである。
しかし、それは日本の魂を失ったことを意味しない。

少なくとも、我々ラボラトリオは、ふとまにの里にみられるように全力で国体の維持に努めようと決意している。

今日も私は、ふとまにの里を貫く「哲学の道」を逍遥しながら、考えを巡らせる。

里の維持管理は弊社スタッフが自発的に行っている。
心より感謝申し上げるとともに、皆様の努力なくして今の里はないことを強調したい。

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【七沢 嶺 プロフィール】

祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。



  早春の光満ちたる七草の生ふる畑に鳥の声すも  嶺

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