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幻覚

げん‐かく【幻覚】:実際に感覚的刺激や対象がないのに、あるように知覚すること。幻視・幻聴など。(『デジタル大辞泉』より)

幻覚、というとかなり大層なものに思えますが、辞書上の意味は上記のようになるようです。つまり、見える筈のないものが見えたり、聴くことのできないものが聴こえたりというふうに、一般的に認識されていそうです。

一方で、感覚的刺激に対しては『閾値』という概念もよく知られています。

いき‐ち【閾値】:1.ある反応を起こさせる、最低の刺激量。しきいち。2.生体の感覚に興奮を生じさせるために必要な刺激の最小値。しきいち。(『デジタル大辞泉』より)

つまり、難しく考えなくても、小さすぎるものは見分けられないし、高すぎる音や低すぎる音は聴こえないということです。こういう『閾値に満たないもの』ものが『幻覚』により知覚される場合と、『本当に一切がこの世に存在しない』のに、脳や感覚器に入力が入る『幻覚』を、区別することは果たしてできるのでしょうか。まず、『一切がこの世に存在しない』ことを証明するのが非常に大変なことだと思われます。『幻肢(げんし、英: phantom limb)』について言えば、客観的に存在しない手足からの刺激が、別の部分から入力、あるいは神経回路自体の自発的な活動によって『幻覚』として知覚されます。このとき、手足はありませんが、『神経回路の活動』は存在しています。しかし生活の上で私たちが『この世に存在しない』と認識することは、『私の目に見えない、耳に聴こえない』と同義であり、それを補うのは想像力でしかありません。

熟練の寿司職人が『シャリを手に取っただけで米粒の数がわかる』と豪語するのは、一般人にとっては『幻覚』と呼んで差し支えないと思います。熟練した工場の職人が『0.1μmの厚さを触ってわかる』ことも、一般人にとっては『幻覚』です。寿司職人の指先に触れる米粒の数には限界があると考えられるので、主にシャリの重さを感じ取る能力に優れていると考えられます。300粒のシャリに一粒の米を加えた時の差が分かるということは、分解能1/300ということですし、重さで言えば、20mg/米一粒(よく使われていそうな値)がわかるということですね。

最近SNS等でよく目にする、ハイリー・センシティブ・パーソン(英: Highly sensitive person, HSP)というのも、一般人にとっての『幻覚』を感じてしまう人々とここでは呼ぶことができそうです。

組織人やサラリーマンあるあるかもしれないですが、『幻覚』でしかないものを後生有難がっている人々がいます。特に厄介だと思うのが、自分の立ち位置だけではなく、位(くらい)を『幻覚』を元に判断している人々です。これが厄介なのは、寿司職人の1/300のように、当人にとっては揺るぎない『リアル』であるが、周囲の人々にとっては『幻覚』であり、尊重できないため、トラブルの元になってしまうことです。

『幻覚』が『幻覚』であることを証明する根拠が、『幻肢』での例でいうと、『INPUTとOUTPUTの不一致』であれば、慮り(おもんぱかり)を本人が自覚的に強いている環境では、INPUTもOUTPUTも、『不一致』こそが『リアル』であるから、どうしようもありません。しかし、こういった人々を対外的に晒す際、どうしても『ハイリー・センシティブ』になり、所属する者として、身を切られる心地がするのです。

年配の方向けに言うと、『自己幻想』と『共同幻想』を混同するな、とかになるのでしょうかね。

しかし、育ちが悪いためだと思うんですけど、若い人の中にも『私はあの人ほど優れていないが、あの人よりはマシ』とか思い込んでいる人々が結構います。まあお金が絡んでくるからという理由もありますが、その思い込みはハッキリ言って『ダサい』と思います。それはひたすらに自分を定義しようとしているからだと私は考えますが、そういう観念的な表現を使わなくても、『お前、将来子供が生まれた時子供に同じこと言えんのかよ。「パパは○○さんよりは能力が劣るけど、△△さんよりは評価されているんだよ。◇◇さんは仕事はできるけどパパのことを馬鹿にしてくるから、パパは毎日言われたことをワードファイルに記録しているんだよ」とか、恥ずかしくないのかよ(恥ずかしいよ!!)。パパは常に子供の一番でいるようにしろよ。』などは如何でしょうか。でも、こういう考え方のせいで少子化が進んでいるのかもしれませんね……職場での自分の姿(生きている時間の大部分を占める『あなた』です)を見せたくないと。

でも半面、『職場での立場』と『家庭での立場』を混同しているのは、どっちだよということも言われそうです。こちらについてはまた書きたいですけど、もともと『混同しない』ことなど不可能で、そのために古くは『ボランティア』が、最近では『副業』がブームになっていると考えています。いろいろな集団に身を置くことで、自分のことを一意に定義しなくて済むことは、人々をストレスから解放する一助になります。その一方で、望んで自分を定義していく人がいることは大いなる不思議ですが、育ちの違いによるものなのでしょうか。そういった人たちは、本来『幻覚』に耐えることが出来ない筈ですが、熟練の寿司職人の『幻覚』を有難がり、そういう『幻覚』が自身にも備わっていると信じてやみません。「私は職場での地位も名誉も『幻覚』だと認識した上で、得られる給与や生活の『リアル』のために割り切ってやっているんだ」という主張には、「あなたが自分の家族や子供に職場で起こったことを話している姿こそが『リアル』なのだ」と返したいです。

あの顔のまま棺桶に収まっている姿が容易に想像できるのですから。

いつか彼らの棺桶の蓋の内側にみんなで寄せ書きをしましょう。

「「お前が何で偉いのかわからねーんだよ。そう思われたかったらわかるように必死に説明しろよ。必死に。」」


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