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exハニー


ヨーグルトを食べるのよ。

彼女は遠くを見ながら僕にそう言った。
月が明るい夜だった。月明かりは舞い散る桜を美しく強調していたが、四月の夜はまだ寒くて僕は雪が降ってるみたいだなんて思いながら彼女の隣をゆっくりと歩いていた。
そんな美しい景色を気にも止めない様子で、彼女は丁寧に彼のことを話した。

ヨーグルトを食べるの。彼の真似っこよ。
お風呂あがりに照明を落とした部屋で。
3個か4個で100円くらいのかわいいやつ。
それを毎日一つずつ食べるの。
片手にはハーブティーがいいわね。
そうして毎日をやりすごしていくの。
そうしていると彼に早く会える気がするから。


そんな話をする彼女はどこか寂しそうに見えた。
何か言わなくては、と思ってもう一度その横顔を見たが、その丸い瞳や穏やかな口元は愛しい人の甘い夢を見ているようにも見えて、僕は思わず口をつぐんだ。
その目に僕が写っていないことは明白だった。
いまさら何を言っても彼女には聞こえないだろう。
その瞬間、僕は世界で一番無力だった。


そういえば、以前も僕はその顔を見たことがある。

たしかあれは上野の美術館だった。
どこか海外の美術館から来た印象派の絵がいくつも並んでいて、僕も彼女も絵なんかまともにわからないのに、あーでもないこーでもないと言いながら歩いた。
特に当時の僕には、絵を鑑賞することより彼女といかに仲良くなるかの方が大切で、絵を眺めるより彼女を眺める時間の方が長かったかもしれない。
熱心に絵画を見つめる彼女は魅力的だった。
そんな彼女はぴたりと一枚の絵の前から動かなくなった。
エドガードガの窓辺の女だ。


この人はどんな表情をしているんだろうね。
彼女は僕に問いかけるでもなく言った。
題名の通り、窓辺に一人の女が腰掛けている絵だった。うす暗い部屋に窓から入る光が美しい。外を見ている女の顔は描かれていなかった。未完成の作品だったのだ。

僕は彼女の横顔と窓辺の女を見比べて、
きっと絵の女は今の君と同じ表情をしている、
と言おうと思ったがやめた。
なぜだかわからないけれど、口にすると彼女にもう会えなくなる気がした。
彼女を永久に絵の中に閉じ込めてしまう気がした。
僕は彼女を窓辺の女にはしたくはなかった。

絵を見つめる彼女の横顔はやはり少し寂しそうに見えた。
僕はそんな彼女をずっと見ていた。
寂しいだけではなく美しくて、この世に完成された表情があるならこれだろうと思った。
僕が入る余地なんかきっとどこにも無いのだろう。虚しくなったのを覚えている。
遠くの何かを想っているような、誰かを待っているようなそんな顔だった。

思えばあの時、既に彼女は待っていたのかもしれない。
僕の知らない男を待っていたのかもしれない。
彼に出会い、彼を愛し、彼ともう一度出会う人生を。
彼女はずっと昔から待っていたのかもしれない。

結局はじめから僕が彼女の人生に立ち入る余地はなかったということだろうか。
彼女はもともと魅力的だった。
僕の知らない男に出会ってさらに魅力的になった。
その美しさは僕には生み出せなかった。
彼女があんな顔で僕を想うことはきっとない。

しかしこの際もうそれでも良い。
彼女は僕の知らない男を想ってこんなに美しい顔をしている。
たしかに僕ではない男を想ってこんなに美しい姿をしている。
でもその彼だってこの横顔を眺めてはいないんだ。今は僕だけが彼女の表情を知っている。
今は僕だけが彼女の一番美しい姿を知っている。
僕だけが窓辺の女の顔を知っている。

僕はそれだけで幸運な男なのかもしれない。


隣の彼女はまだ彼のことを話していたけど
僕にはもう何も聞こえなかった。
ただ彼女と桜を見ていた。
月に照らされた彼女は一層綺麗だった。



あなえより、全国のカンタたちへ

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