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説教「僕らは何も知らずに」(ヨハネ1:35~51)

 ヨハネ福音書での最初の弟子との出会いは共観福音書とは異なり、最初にバプテスマのヨハネの二人の弟子がイエス様に従うのです。見よ、神の子羊だ」そのヨハネの言葉に促されるように、二人はイエス様に従ってゆきます。彼らが求めていたのは「ラビ」(ユダヤ教の師という意味)真の自分たちの導き手を求めていたのでしょう。一方でバプテスマのヨハネの心中は…どうだったのでしょう。ヨハネにとって自分の弟子を奪われて悔しい・寂しいという思いはまったく無かったのでしょうか。
 
 でも、ヨハネは自分の役割(キリストに弟子たちを繋げてゆくこと)をよくわかっていたのです。ここが牧師や聖職者と呼ばれる私などと違うところです。たとえばですが…遠くに引っ越したりした信徒の転出を認めようとしない牧師の話をよく聞きました。教会の隠語で「羊どろぼう」って…ありましたよね…もう死語ですけれど…こんな言葉ホントに使うヤツいるのかよ?と思ってましたけれど、私が以前いた教会の100年史だかにそこの歴代牧師がホントに「あの羊泥棒め!」って書いてたのを見て、心底嫌な気持ちになりました。「信徒はアンタのものじゃあないだろ?」って叫びたい。一人ひとりどこかの教会に籍はあっても、結局みんなキリストのものじゃないですか?これは信徒の側だって同様です。「私は◎◎教会の△△先生に洗礼を受けたんですよ」とか自慢げに語る方もいらっしゃいますね。だから何でしょうね?
 
洗礼者ヨハネは突然に自分のもとを離れ、イエスに従う弟子たちを黙って見送るのです。「キリストを差し示す。道備えをする」それが己の役割だとわかっていたからです。すべてのキリスト者がそのように徹しきれば、もっと宣教だって広がるのじゃないでしょうか?
 
「来なさい、そうすればわかる」先のこともよくわからず衝動的にイエス様に従いゆこうとした二人。考えてみれば、私たちが主イエスに出会うというのは、何か聖書の学びを積み重ね、キリスト教の何たるかも十分わかり…という道順を辿るものなのでしょうか。もちろん聖書の学びだって大切です。でもそれと主に出会う、主を信じようとするのとは違うのです。
 
 
「この道を行けば此の道を行けば、どうなるのかと危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。ふみ出せば、その一足が道となる。その一足が道である。わからなくても歩いて行け。行けばわかるよ」
(碧南市出身の哲学者・僧侶の清沢哲夫『道』より)
 この詩はプロレスラーのアントニオ猪木が引退試合の後に引用し、一般に知られるようになりました。猪木さんはこれを読んだ後に「1・2・3、ダー」となるわけですが(笑)
 
神戸女学院大学の内田 樹教授によれば「私たちが何かを学ぶうえで大切なことは、学んでいるものが何なのか、あるいはこれを学ぶことはどういう意味があるかを、知らないということなのだ」と言われます。
大人は何かを学ぶ時に“これによって自分にはどれだけの利益が出るのか”を計算します。けれどそれだと多分何も得ることは出来ないのです。たとえば私たちは小学校に入って“1たす1は…”とか“漢字の書き取り”やら“アサガオの観察”やらを教え込まれます。でもこれこれのことを学ぶのはこういう意味があるのだ、などと教えられたりしません。でもそうでなければ、教育って成立しないのです。学ぶ前に「これを知るとどうなるのですか」「どういう良いことがあるのですか」という損得勘定を前提にあれこれ知ろうとしすぎると教育が成り立たなくなる。
 
宣教を巡る議論の中で「教会のHPに“私はキリスト教を知って洗礼を受けてこのような恵みを受けました”“洗礼を受けてこう変わりました”ということを記してはどうか」そういう意見を聞いたことがあります。なるほどと思う反面、でもそれは難しいんじゃないかなあ、とも感じるのです。
それって「キリスト教を信じるということはどれだけ私の人生に有益なのか、どれだけコストパフォーマンスが良いのか、みたいな勘違いを起こさせやしないでしょうか…。逆ですよ。信仰ってハッキリいえば人生におけるコスパ悪いんです。そのコスパ悪い現実の中に生かされていく…そういうものじゃないんでしょうか。今日の聖書日課で出てくるサムエルにしてもパウロにしても、神様に招かれる。しかし何度も揺さぶられ、変革を求められる…。キリスト教信仰は「あなたは今は苦しくても、そのうちいいことがありますよ」みたいな薄っぺらい、安っぽいものではないんです。だから面白いんです。
 
 弟子たちはイエス様が泊まっている家にゆき、自分たちも一緒に泊まった。この泊まると訳されたメネイはギリシャ語で留まるが原語です。これはヨハネ福音書に多く見られる言葉なのです。主に従いゆくということは、この「とにかく踏み出し、行きさきはわからずともいってみる。そして主のもとに留まり続ける」ということに尽きるように思うのです。
後半ではナタナエルが「ナザレから何の良きものが出るものか」と今でいえば大炎上しかねない発言をしています。そんなナタナエルのことをイエス様は「まことのイスラエル人だ。偽りがない」と称します。一途であり正直であるという一方で、これは「お前さんは律法には詳しいけどな。でもそれだけで凝り固まっていちゃダメだ」という皮肉が込められています。「いちじくの木の下にいた」というのは難解な言葉なのですが、イスラエルではいちじくの木はかなり大木に成長し、その日陰でラビたちが弟子に教えていたことから、ナタナエルが熱心に律法を学んだ者であったことを示しています。でもキリストがその生涯をもって示された福音は、どんな律法を遵守し尽くしてもそれには及ばない、全く異なるものでした。
 
 フィリポは「ナザレなどから…」と発したナタナエルに対して「来て、見なさい」とイエス様を指し示しました。繰り返しますが、キリスト者の務めとはどのような状況であろうとイエス・キリストがそこにおられる、と指し示す働きに他なりません。
 
 能登半島で大震災が起きました。岸田総理が現地を訪れたのはようやく昨日?石川県知事が非常事態宣言をしたのは8日のことでした。初動が遅いというか…何なのですかね。このような災害下で「こうした地域はどのみち過疎化にあるのだから、住人たちを強制移住させてはどうか」みたいな声もあるんです(私は逆で東京一極集中を今こそ改めるべき時だと思うのですが…)。
 
 能登地域は私が以前いた愛知県の教会と同じ中部教区に属しています。私がいた時にも大きな地震があり、いくつかの教会が被災しました。過疎する場所に立ち続ける教会…そこにこそ、神のみ業が示されているのです。イエス・キリストは辺境のガリラヤ地方の名も無きガリラヤから来られた救い主です。「あんな田舎が」と切り捨てられるところにこそ、キリストはおられると思うのですよね。

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