かねごん牧師

日本基督教団 取手教会で副牧師をしています。礼拝学・典礼学と牧会学を学んでいます。ブル…

かねごん牧師

日本基督教団 取手教会で副牧師をしています。礼拝学・典礼学と牧会学を学んでいます。ブルースバンドのベーシスト。古いロックとか好き。ヤクルトスワローズ愛。専門里親をしています。里親・虐待問題に関心あり。

最近の記事

ネットと現実

今回の衆院補選でちょっとした話題になったのが、東京15区に候補者を立てた「日本保守党」選挙に関する考察が興味深かった。  確かに共産党の票も加わったとはいえ、当選した酒井さんは元江東区議の実績があった。2位の須藤元気さんは地元出身でドブ板選挙を展開。維新の女性候補者は前回の衆院より大幅に票を落とした。日本保守党は健闘したとはいえるかもしれないが、自民党の候補が出たらここまでの票は集まらなかっただろう。乙武洋匡氏は小池都知事の神通力も無く、インフルエンサーのひろゆき氏が応援に

    • なぜ響かないのか

      この世界には、それは立派な神学者や牧師や神父がいる。ただ彼らの言葉を引用しているだけでは説教にはならないのである。

      • 今の世界状況を巡って「これはエゼキエルの預言だ!」「携挙に備えよ!」などとはしゃいでいる牧師たちよ、そんな暇があったら平和のために祈るべきだろう!

        • 説教はみんなのためなのか?

          映画『時をかける少女』が無料公開されていたので、とても久しぶりに観ました。実は私、10代の頃は大の原田知世ファンでございました。写真集、レコード、ポスター、カレンダー、彼女の記事が載った雑誌…とにかく彼女に関するものなら片っ端から買いあさったものでした。まあ髪の毛伸ばしたメタル小僧が知世さんの写真集買ってんだから店員さんも啞然としたでしょうかねえ…。  しかし改めて観てみると不思議な映画です。普通新たにアイドルを売り出そうとするならば、もっとキラキラした魅力を打ち出すはず。

        ネットと現実

          牛久シャトーの桜

          シャトーの桜は今が見ごろです。平日の朝は誰もいません。この風景独り占めです。目黒川や上野公園よりも素晴らしい光景です。

          牛久シャトーの桜

          入学式

          うちの子の入学式でした。がんばれー。

          学歴

          「俺はこんな大学しかでられなかった!」 「俺はこんな一流大学を出た!」 そういうの20代で卒業しとこうな…しかもいい年齢した牧師がだよ…?

          依存症

           確かに彼のやったことは犯罪なのかもしれない。だがみんな多かれ少なかれ何らかの依存症なのかもしれない。私の前任地の教会はギャンブル依存の自助グループの会場になっていて、彼らの体験談を何度も聞いた。何がきっかけで深みにハマるのかは人それぞれ。彼の回復と社会復帰の道が開かれますように心より願う。

          修道場アシュラムのご案内

          近江八幡にあります、シメオン黙想の家でのプログラムです。信徒の方も牧師の方もぜひご参加ください。

          修道場アシュラムのご案内

          信仰とは不幸になること…?

          今朝のオンライン祈祷で学んだことをシェア。 「洗礼を受けるとこんないいことがある」 「クリスチャンになるとこんな恵みをいただいた」 そんなことを口にするキリスト者が多い。福音派なんかは特にそうだろう。 しかし一方でキリスト者になったことで失ったことだってあるだろう。いや、むしろその方が多いのかもしれない。 しかし信仰を生きるとは「信じた故に失ったことを恵みとして数えて生きることができるかどうか」にあるのではないだろうか。  たとえば使徒パウロはキリストに出会ってしまったがゆ

          信仰とは不幸になること…?

          音声をあげてみました

          音声をあげてみました

          礼拝説教「傷だらけの栄光」(ヨハネ12:20~26)

          「ギリシャ人たちがエルサレムへ礼拝しにきた」と書かれていますので、彼らはユダヤ教に改宗していたのでしょう。エルサレムに来て祭りに参加したけれど、それでも外国人だし、エルサレムじゃ冷たい目で見られたりもして、なんだか満たされない気持ちになっていたかもしれません。そんな時にイエス様のことが聞こえてきて「なんとか会いたいなあ」と思ったのでしょう。そこで彼らはフィリポに「なんとかイエスという人に会わせておくれよ」と頼み込みます。フィリポというのはどうもギリシャ的な名前らしくて、その名

          礼拝説教「傷だらけの栄光」(ヨハネ12:20~26)

          たしかにイエス・キリストは、自分を十字架につけた人間に対して何ひとつ恨みの言葉を吐いたりはしなかった。だからといって、それを牧師が信徒に押し付けるのはなにか違う気がする。

          たしかにイエス・キリストは、自分を十字架につけた人間に対して何ひとつ恨みの言葉を吐いたりはしなかった。だからといって、それを牧師が信徒に押し付けるのはなにか違う気がする。

          心の病は悪魔の所業なのか、神のみ業なのか

          「うつ病や心を病んだ人の中で、明らかに悪魔の仕業だと感じた事例はありますか?」 これはつい先日、某処で精神科医の方(キリスト教徒)の講演会の後で出た質問だ。講師の方は戸惑いながら答えていらしたが、一参加者である私は「うーん」と考え込んでしまった。 人の心が病んでしまうのには、おそらく何らかの悪しき力が働いているのだろう。子どもたちの間のイジメ、職場でのパワハラ、家庭におけるDV・虐待。貧困・格差・・・人が人を抑圧的に支配せんとするところには、悪魔的な力が動いていると言わざる

          心の病は悪魔の所業なのか、神のみ業なのか

          誰かの言葉を引用するのもいいけど、それだけじゃあ「生きた神の言葉」にはならないよなあ。悩んで、苦しんで、傷ついて、笑って、福音と格闘しないとね。

          誰かの言葉を引用するのもいいけど、それだけじゃあ「生きた神の言葉」にはならないよなあ。悩んで、苦しんで、傷ついて、笑って、福音と格闘しないとね。

          福音であると呼ぶためには

           以前ある旧約聖書の先生の講演を聴いたことがある。正直いうと講演そのものにはあまり「これ」というものを感じなかった。ただその話の中で「私は旧約が一応専門ですが、礼拝では旧約で説教をすることはしません。ユダヤ教ではありませんから」と語られていたことだけは印象に残っている。というのも私も同じスタンスだからだ。私にとってその日の礼拝は福音書が基本。使徒書や旧約はあくまでもその日の日課のひとつとして取り上げる、という立ち位置だ。旧約だけでは福音にならないではないか、というのが私の立場

          福音であると呼ぶためには