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説教はみんなのためなのか?

映画『時をかける少女』が無料公開されていたので、とても久しぶりに観ました。実は私、10代の頃は大の原田知世ファンでございました。写真集、レコード、ポスター、カレンダー、彼女の記事が載った雑誌…とにかく彼女に関するものなら片っ端から買いあさったものでした。まあ髪の毛伸ばしたメタル小僧が知世さんの写真集買ってんだから店員さんも啞然としたでしょうかねえ…。

 しかし改めて観てみると不思議な映画です。普通新たにアイドルを売り出そうとするならば、もっとキラキラした魅力を打ち出すはず。それがこの映画、全体的に暗いんです。晴れた日よりも曇りや雨、あるいは夜の場面が多い。そして主演の和子(原田知世)はあまり笑う場面がない。アイドル映画としては完全に外れなんです。ですがこの暗い、不思議な物語と原田知世というアイドルが段々と一体化して引き込まれていく。そしてラストの「別れの場面」で初恋が突如として終わりを告げられる和子に、誰もが切ない思いを抱く。そしてあの映画史に残るラストーそれまで笑う場面のほとんどなかった和子が、映画のシーンで主題歌を笑顔で歌う…まああの笑顔に14歳の私の心は完全に奪われてしまったわけですよ(笑)。

 実は原田知世という人はもともと女優志望だったわけではなく「憧れの真田広之さんに会いたい」というだけの理由で映画のオーディションに応募し、ヒロインには選ばれなかったものの、角川春樹社長の目に留まり、テレビドラマ主演(「セーラー服と機関銃」)の運びとなります。しかし会社が願ったようには売れず…。そこで角川春樹社長は「この子を引退させて長崎に帰そう。その代わりに引退記念に一本主演映画を撮ろう」と思い立ったのです。つまり『時かけ』は知世様の引退作品になるはずだったのです。

 そこで角川氏が白羽の矢を立てたのが、大林宣彦監督。しかも「貴方の故郷の尾道で撮ってくれ」というものでした。結果的にこれが「尾道三部作」の第二弾という連続性を生み、尾道というノスタルジックな街と、どこか垢ぬけない原田知世という少女がオーバーラップして、男の子ならだれもが恋してしまいそうな「芳山和子」という少女を創り出したわけです。大林監督もまた原田知世に恋した一人なのでした。

 売り出すためにではなく、大ヒットを狙うわけでもなく、たった一度の主演記念として、15歳の今の姿を残してあげようとして作った映画…評価も売り上げも気にすることなく(なにせ同時上映が人気絶頂の薬師丸ひろ子の『探偵物語』ですからね)作り上げた作品が、まさか映画史に残る作品になるとは…。いや、むしろ二人の映画人が一人の少女に向けた愛情と情熱が、多くのファンの心を打つことになるんですね。いやー映画って本当に…。

 さて、牧師ですので(笑)ここからは牧師らしい話をしてみます。礼拝で僕らは説教をするわけなのですが、それは「全方位な人々に向けたキリスト教講話」なのでしょうか。そうじゃなくて「具体的な誰かに向けて福音をぶつける」ものだと思うんです。別にそれ以外の人は無視するとかそういうのじゃなくて。
 よく「今日の説教は、まさに私に向けて語られたものだ」とキリスト者が語ることがあります。それはたぶん具体的な誰かに向けて、祈りをこめて語られた説教なんだと思うんです。
 私もそういう説教をしたいと思い、日々悩んでいます。大学の授業チックだったり、誰かの引用ばかりの説教では聞き手の心には届かないでしょう。


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