牧瀬里穂クリスマスエキスプレスの記事はいかにしてつくられたか

2024年3月28日にアスコムより「文章で伝えるとき、いちばん大切なものは感情である。」という本が出版されます。

これはわたくし、patoが22年間の執筆活動において試行錯誤しながら発見、実践してきた自分なりの文章作成技術を記した書籍になります。ただ、普通の文章術からは大きく逸脱しているものになっていると思いますのでご注意ください。

内容としは総論的な部分が多くあり、個別の記事についての解説が少なめになっているところがあります。

そこで、今回はこの出版を記念して、これまでに僕が執筆して大きな話題を読ぶことになった記事について、書いた当時、どのようなことを考えて作ったのかをシリーズで伝えていこうと思います。

まずは、2019年に発表された「’89 牧瀬里穂のJR東海クリスマスエクスプレスのCMが良すぎて書き殴ってしまった」です。

この記事は、現在ではさくらインターネットさんのサイト「さくマガ」に移籍しておりますが、発表時はここnoteに掲載されておりました。以下が掲載サイトになります。

こちらの記事は、100万PVを大きく超え、はてなブックマークも3000を超えました。Twitter(現X)でもたくさんの言及をいただき、牧瀬里穂がトレンド入り、それどころか各地のラジオ番組などで一斉に取り上げられることとなりました。アベマプライムでも取り上げられるとのことで心臓を叩いて視聴していたのですが、その日の別件ニュースの議論が盛り上がり、放送されることはありませんでした。

さて、公開した日にたくさん読まれて、あとはまあボチボチアクセスされるというのがWeb記事の宿命みたいなところがあるのですが、この記事に関してはその宿命が当てはまりませんでした。

毎年、クリスマスが近づくたびに注目されて読まれるという、永久機関みたいなモンスター記事になったのです。季節性の記事はこれがあるから侮れません。

そんなこの記事は、いったいぜんたいどんな考えのもとで作られていったのか、それを詳しく見ていきたいところですが、まずは、この記事が大きく拡散されるに至った流れを見てみましょう。

記事が拡散された流れ

12月17日の正午(記録によると11:59)に記事を公開しています。記憶をたどると、書き上げた記事を投稿ボタンを押すだけの状態にしておき、バス停でバスを待っているときに投稿しました。

バスが来るまでの短い間にいくつかコメントが付き、バスに乗り込む頃には「これpatoさんの最高傑作だと思う」というコメントがありました。嬉しい反応です。ただ、バズと呼べるほどではなかったように思います。バスだけに。

この日はヨッピー氏主催のWebメディア忘年会があり、記事のことなど忘れて酒を飲んでいたように思います。スマホを使ってちょくちょくは反応を見てはいました。

相変わらず記事への反応は上々でしたが、それでも200リツイートくらいで、いつもの記事よりちょっと反応が良い、くらいの感じでした。

Webメディア忘年会から二次会の席に移動し、スマホを見ると急激に通知が増えていました。

「あっ、バズったな」

そう直感しました。バズとは水物で、手応えがある記事でもバズらないことがあり、その逆も多分にあるのですが、この記事に関しては時間の問題でバズると思っていました。

バズの震源を探ると、おそらくこのツイートからでした。

為末さんだ。

ここから爆発的に広がりを見せることとなりました。次の日の朝には「牧瀬里穂」がトレンド入りしてました。

さて、この記事はいったいどんな流れで執筆することとなったのでしょうか。

執筆に至った流れ

Twitter(現X)のタイムラインをザーッと眺めていたら、牧瀬里穂さんのクリスマスエクスプレスの動画が流れてきたからです。

たぶんクリスマスも近いということもあって、誰かが「むかしはこういう名作CMがあって」といったニュアンスで呟いていたような気がします。

そのツイートをみて、よし、書くかと決意した僕のツイートが残っていました。

10万文字とは穏やかではないですが、結局、どこか載せてくれといったけどなにも反応がなかったので自分のnoteに載せることにしました。

実はこのツイートをした瞬間には、もう書き上げる記事の方向性が決まっており、頭の中で記事が出来上がっていました。これは僕の特徴です。書く時にはもう記事があります。あとはそれをちょっとずつ装飾しながらパソコンに打ち込んでいく、執筆とはそのような作業です。

ちなみに、このツイートが12月15日に行われていて、記事の公開は牧瀬里穂さんの誕生日にすると決めていたので12月17日、およそ36時間で書き上げています。早く書くことが偉いわけではありません。これだけの文章を〇〇分で!なんてものは記事の面白さに関係ありません。ただ、それだけの勢いで書いたのだという指標になるかと思います。

では書く前に決めていた要素について解説していきましょう。

バズって発見なんだよね、そう、発見されなきゃバズらない

記事を書く際にただバズだけを追い求めることはあまり上品ではないのだけど、とにかくバズりたいと考えるのならば「発見」を意識して書くと良いかもしれません。

バズとは、多くの人が反応して拡散していく現象なのだけど、その根底にある感情を紐解いていくと「誰かに教えたい」というものがあります。その感情は拡散とダイレクトに直結します。

人は誰かに教えたいと思うから拡散するし、そう思わないものは拡散しない。その教えたいの根底にあるものが「発見」です。

「こんな面白いものがあるよ!」

あなたは何か面白い発見したら声を大にして誰かに教えたくなるはずです。美味しいお店を見つけたら誰かに教えたくなるはずです。

SNSではそれらの発見が空中戦のごとく飛び交っています。ただ、それが、こと記事や文章に関してだとちょっと異なった特徴があります。

「こんな面白い記事があるよ」

といった感じで記事単体が発見されるケースも多いけど、その一つ上のレイヤーで発見が起こることがあります。

「こんな面白いものを書く人がいるよ」

なぜか発見が人にフォーカスされるんですね。

何か面白いもの、なにかいい感じの絵、素敵な動画、素敵な歌、そういったものを作っている人を発見したよ、というバズの形がけっこうあります。

それは素晴らしいことなのだけど、逆の面から見てみると大変な一面もあります。「こんな面白い物を作る人だよ」とひと通り発見されると、もう発見が無くなるので、バズりにくくなっちゃうのです。早い話、まあ、これは面白いけどいつものことだよね、みたいな状態になるのです。じつはここからがクリエイターの正念場じゃないかと思っています。

何回もバズってると発見が無くなるのでバズらなくなります。例えば僕なんかは2018年から2019年にかけて、狂気的な旅記事、検証記事を数多くリリースし、「こんな狂った旅をしている人がいるよ」「こんな面白い人がいるよ」と発見され尽くしてしまいました。そこでだいたい世間の人から見て発見が無くなったので、バズらない感じになってきたのです。

何度も確認のように言わせてもらうけど、別に記事はバズらなくてもいいのです。でも、まあ、バズらせたいのも人情というものです。

だから、ひと通り発見されたあとにバズらせるにはもう一段、工夫が必要です。これは覚えておいてほしい。

この工夫には様々なものがあるけど、僕が選んだのは狂気だ。

ここで別次元に狂気をはらんだ記事を書いてもういっちょ発見されてやろう、そんな意図が確かにありました。

さて、上にも記述した記事が拡散された流れを見てみましょう。

記事公開直後、反応は上場ではありましたが、そこに発見はありません。「いつものpatoさんで狂気でした」「これはpatoさんの最高傑作では」みたいな反応がくるけどバズにはいたりません。そこに発見がないからです。

いつも見てくれる人はいてありがたいのだけど、その人にとって発見はないから、声を大にして誰かに教えようとは思わない。いつもこういうものを書いてるやつがまた書いたわ、という感じで拡がりを見せない。その周りの人も見慣れているので、そこから広がらない。

しかし、夜になって、僕を知らない為末さんに発見されることで、連鎖的に為末さんのフォロワーに発見され続けていく。それがバズに繋がったというわけです。

このように、もう発見されなくなった僕は、僕のことを知らない人に僕の狂気が伝わるような分かりやすい狂気を伝える工夫を施しています。それについては後段で語ることにしましょう。

とにかく、ひと通り発見されたら今度はさらにコンテンツを強化しなくてはなりません。そこで発見された状態に甘んじてしまうとちょっとしたエコーチャンバーみたいになる危険すらあります。べつにそれは悪いことではないけど、もっと挑戦し発見されると、発見されたなりの別の面白さがあるものです。

ちょっと読んでくれる人がいる。ちょっとファンみたいな人がいる。ぬるま湯のような現状に安心してないでしょうか。もっと発見されましょう。その方が面白いのは当たり前ですよ。


書いてる本人が面白がらなければ面白いわけがない

書いている本人が面白がっていないものが面白いはずがないでしょう。

これはけっこう当たり前のことで、取り立てて主張することではないのだけど、もう一歩先に進んで考えてみましょう。

確かに、書いていて楽しいもの面白いものを書くってのは良いことだと思いがちだけど、それってなにも成長しない可能性があるんですよ。

幼少期から好きなことだけして生きていた人がいたとしたらまあけっこうやばい人物に成長していることと思います。苦しいことも経験するから、人は人になっていくのです。

だから「面白いと思うものだけ書きましょう」は大いなる間違いなんです。正解は「なんでも面白いと思うよにしましょう」これが面白い記事を作る上での大正解なのです。

どんなん辛く苦しいものでも面白がってやりなさい、感謝してやりなさい、なんてブラック企業そのものなのだけど、そうではなく、なんというか自分を知ることがその面白がりに繋がるというところがポイントです。

例えば、僕は企業やメディアの依頼で文章を書くことが多いのだけど、めちゃくちゃ理不尽な修正が入ることがある。めちゃくちゃ理不尽な制限を課されることもある。ただ、それは企業側の立場から考えると仕方がないことだというのもまあまあ分かる。

そこで僕は「はあ、書きたいことも書けないわあ、つまんね」とはならない。その理不尽な要求を達成しつつ、それでも自分の書きたいことを書くゲームを始める。要求が理不尽であるほど難易度は上がるので「ナイトメアモードかよ」と考えながら書いたりする。その時がいちばん楽しそうだと同業者は言う。

とある企業から記事の依頼があったとしよう。ありえないことだけど、その企業は創業からの企業理念で、サイトに掲載する文章に「か」を使ってはいけないことになっている。過去に使った社員がクビになったほどだ。

平仮名の「か」だけでなく音としてもダメなので、「漢字」という表現すら使えない。もうこの段落で多数の「か」がでてきた。完全にこんなもの書けるわけがない。

ただ、そこで僕は難易度を上げて面白がるので、「かが使えないんすね、じゃあ、めちゃくちゃ蚊が出る場所に行く記事にしましょう!」と「か」が使えないのに「蚊」が大発生する記事を書こうとする。

これは、無茶なことをしなさいと言っているのではなく、自分を知りなさい、ということを言っている。

僕は人が無茶だと思うこと、無理だと思うこ狂ってると思われることをやっているときがいちばんワクワクして面白がっている。その時に多大な力を発揮することを知っているので、その状況に置いているだけだったりする。

さて、前置きが死ぬほど長くなってしまったけど、この牧瀬里穂のクリスマスエキスプレスの記事、どこに面白がりを見出したかと言うと、それは最初の「書くわ」のツイートに如実に表れている。

たった30秒のCMについて死ぬほど詳細に長い文章を書いたら面白いやろなあ(ニチャア)という思想、それによって自分で面白がる、この記事の根底にはそれしかない。

本人が面白がって書く、様々な事情で面白がれないなら面白がれるようにする。なにを面白がれるか自分を知りなさい、まずはそこからでしょう。

懐古という便利な共通認識

3月28日にアスコム社より「文章で伝えるとき、いちばん大切なものは感情である。」という本が出版されます。その中に「面白いに関しては書き手と読み手の信頼関係が必要」という説明がでてきます。

書き手と読み手は常に共通認識が必要です。それを作ってあげるのが文章ですが、そもそもそれ以前に持っている共通の情報が多いほど、面白さは伝わるのです。

そもそも、僕がいきなり「أشعر بحكة شديدة في قضيبي.」と書き出しても何も分からないでしょう。僕も分からないですもの。

いまこうして文章を読んで内容を理解してもらえているのはお互いに日本語を理解しているという共通認識があるからです。

それより先に進んで、僕という人間を知ってもらっている、同じ芸能人に関する共通の認識を持っている、などなど、それらの前提となる情報が共有されていると面白いが起こりやすくなります。

そういった意味で「懐古」はかなり便利です。読む人は同年代くらいであれば前提の知識を有しています。知らない世代の人も、なんとなく知っていたりします。

だから僕のエピソードには懐古が多く登場します。便利だからです。

ビックリマンチョコ、ドラクエ、、ファミコンあたりは当時は社会現象レベルで盛り上がったので懐古としてめちゃくちゃ強いです。

その中で「牧瀬里穂のクリスマスエキスプレス」これも懐古として完全に強いです。素晴らしいCMだったと毎年、Twitter(現X)でバズるので、すでに強固な共通認識ができているのです。だから面白いが起こりやすい。

ただそれに甘んじてはいけません。知らない人でもわかるように前提を丁寧すぎるほどにいれる手法をとります。


さくマガより


さくマガより


さくマガより


さくマガより
さくマガより

この記事の特徴なのですが、本題のクリスマスエキスプレスの話に入る前に、このCMの作られた時代背景など、異様とも呼べるレベルで前置きが入ります。WEB記事にこんなに前置き情報を書く奴なんていません。離脱が怖いから。

じつはこれ、文章記事におけるアドバンテージだと思うんですよね。こういう前提、べつにいいや、本題だけ見せろやって人は読み飛ばせるわけです。

これが動画だとなかなか難しいです。本題を見たいのに延々と「ゆっくりまりさだぜ」とかやってたら再生をやめかねません。

もちろん、動画も指定の場所まで飛ばせる機能はありますが、文章ほど簡単ではありません。だから文章はいくら前提を書いてもいい。読まない人は飛ばすから。

これは著書の中でも触れている「前提条件を詳しくやることで疎外感を感じさせない」という効果がありますが、読んだ人が昔を懐かしむ気持ちを引き出すという効果もあります。

あ、そういやこんな時代だったな、と前提が長いほどあの時に引き戻す効果があります。そうなったらもう、こっちのもんです。

そして、この記事はリアルタイムでクリスマスエクスプレスを知らない世代にも大きく広がりました。これは、この前提が詳細である故、知識を提供するというよりは、ここまで情報が羅列されるほど凄まじい事象だったんだよと、知らない世代に圧を与えるんです。

書いてある情報以上に「なんかすごいCMだった」と認識してもらう、これにはその効果があるわけです。


主題をどこにおくのか

これは著書にも記載しているのですが、記事全体でなにを主張するかという部分を意識する必要があります。それがない場合、そこに羅列された文字列に意味がないとまで僕は言い切ります。

牧瀬里穂かわいい、このCM最高、確かにそうなのですが、それだけが記載された文章にあまり意味はありません。かならず主題を意識しましょう。あなたはこの記事でなにを主張したいか。

これらの主題は、まあ主題なので、分かりやすい形で存在します。じゃなければ表現に失敗しています。読み返すとすぐに分かるはずです。

「便利な現代」
「不便な平成初期」

この2つの時代を対比させ、相手を想う気持ちの変化を主題にしています。それが最後の文章に繋がります。

「この30年で僕らは何を失い、何を手に入れたのだろうか。」

これが伝えたかっただけです。記事ですとこの一文だけ書いてもいいのですが、それだと何も伝わらないので色々と書いているだけです。

便利さと相手を想う気持ち、この対比が出来上がると、どのように文章を構築していくのかが決まります。昔は確かに不便だったけど、その不便さゆえに相手を思いやらなければならないところがあったよね。

僕は非常に短気な人間でして、時間に間に合わないとなるとめちゃくちゃイライラするんですね。そんなイライラしている自分があまり好きではないので、時間に間に合わない、という状況に自分を追い込まないよう、待ち合わせにおいては2時間前に到着するように行動しています。

そんな中で、2時間ほど相手を待ちながら色々と考えるわけです。いまやスマホですぐに連絡が取れるから、別に遅れてもいいわけです。なのになんで僕は2時間前に来ているんだろうと。

携帯電話やスマホがなかった時代は、遅れてしますと連絡が取れません。大変な時代だったけど、そのぶん、相手のことを思いやっていたのかも。

そんなことを普段からぼんやり考えているのですぐに「便利さと相手を思いやる気持ち」という対比に行き着きます。

さあ、これが記事の主題に決まりました。

そうなると、CM内における牧瀬里穂さんの健気な姿勢をクローズアップする形で考察が展開していきます。

これは考察を重ねていたらそういう結論になった、ではありません。結論や主張があって、それに沿った考察を重ねているだけです。

強いフレーズがどこにあるか

これも著書内で「伏線をどうやって置くか」という項目で登場してきます。伏線とは、ほとんどの場合において「これを伏線にしたら面白いやろなあ(ニチャア)」とやるものではありません。

後から振り返って、ここを伏線にしてこう書いたろ、となるものです。あらかじめ設置しておくブービートラップみたいなものではなく、あとからそれを伏線に変身させるほうが圧倒的に楽なのです。

ただし、その伏線に選ぶポイントは読んだ人の心に残っているものを選ぶ必要があります。

それが強いフレーズです。

強くもなんともないフレーズを伏線に選ぶと、読んだ人もキョトンとなるだけなので、的確に選ばなければなりません。ただ、普通に読んでいて心に残るフレーズなので、それをピックアップするのに特殊な技能はいりません。本当に普通に読んでいれば心に残るものを普通に選ぶだけですので。

では、実際にこの文章を頭から読んでみましょう。そして印象に残ったフレーズを抜き出してみましょう。

・とにかく最高なので10回くらい見て欲しい。
・新幹線を人と人との物語
・遠距離恋愛のシンデレラ
・新幹線はコミュニケーションメディアである
・距離に負けるな好奇心
・会うのが一番
・ジングルベルをならすのは帰ってくるあなたです
・現代人は待ち合わせで焦らない
・牧瀬里穂の笑顔に見る、僕たちが失ったもっと大切なもの
・人が喜んでるところって、こんなにもいいものなんだ
・ば、バンダナ……! 
・1988年の12月24日、その日は土曜日だった。
・これがなかったら国会図書館まで行くところだった。
・牧瀬里穂の動線

まだまだあるかもしれないけど、ざっとこんなものじゃないでしょうか。特に前半は、CMの説明が続くので、CMとはもともと強いフレーズを使うものなので、それらが並ぶことなります。まあ強いフレーズの宝庫です。

この中から伏線に使うものを選べばいいだけです。

さあ、この記事のオチとなる結びの部分はどんなフレーズを伏線として使っているでしょうか。是非とも記事を確認してほしいです。

1行目でハートを射貫く

この記事においては、識者の多くがいちばん最初の文章に着目する。すでにこの1文でゲームセット、完全に記事の勝利が確約されていたと評する人もいたほどだ。


さくマガより

何も言わずに、まずはこのCMを見て欲しい。本当に、何も言わずに見て欲しい。とにかく見て欲しい。とにかく最高なので10回くらい見て欲しい。

とにかくこのCMが最高なんだという連呼、これだけで初めて読む人は「こりゃただごとじゃないぞ」と予感する。それでいて10回も見せようという暴挙。さすがにいくら最高なCMでも10回は見ない。

これは前述した「発見されるための分かりやすい狂気」これをギュッと濃縮して最初の段落にもってきている。

それでいて「10回見るが」強いフレーズであるので、「これで13回見たはずだ」などと後にも活用されている。伏線としても活きているわけだ。

さらにこれは、10回見るやつなんているはずないのに、その後、見た前提でカウントが進んでいくことで「見た前提かよ」とつっこませる作用がある。

しかしながら一番大切なのは、この動画の視聴回数において「〇〇回見たはずだ」がどこまで進んだかのカウントになっている点だ。

長丁場の記事においては、記事内で共通した表現があると言い。例えば、長く歩く記事などは、要所で「現在地 広島県三次市 歩いた距離 〇〇km」と現状確認を入れる。読む側も、これがあると今どのあたりの位置にいるのか現状を把握しやすい。

ただ、別に歩くわけではない文章でこの現状確認は難しい。そこで「動画を〇〇回見たはずだ」でここまで進みましたよと読者が現状確認しやすいようにしている。そのときにハッと全体を意識するので、そのほかの伏線が効きやすくなる。

つまり、この最初の段落は、全体を把握しやすくする現状確認、それを始めるために動画を10回見させている。でも10回も見るやつはいない。


本当は謎でもなんでもない

長い文章を読ませることは本当に難しい。なぜなら別に読ませなくても誰も困らないし、読まなくても誰も困らないからだ。

ただ、そこで長い文章を読ませたとしたらワクワクしない?(ニチャア) 僕はいつだってそうだ。

人は謎が好きだ。そしてその謎が解き明かされたときに極上のカタルシスを得る。だから、長い文章を読んでもらうには適度に謎を配置すればよい。

記事中では、「このCMが持つ最大の謎」と称して、牧瀬里穂さんが大切そうに抱えるプレゼントの中身がなんであるかを取り上げている。

けれども、よくよく考えてみてほしい。そんなもの謎でもなんでもない。冷静に考えて、プレゼントがなんであろうとべつに構わないのだ。

ただ、それを謎に仕立て上げているだけで、勝手に仕立て上げた謎を勝手に解き明かしていくという、一歩間違えば自作自演みたいなことをしているに過ぎない。

ここでの狡猾な手法を挙げるときりがないのだけど、いちばんは「最大の謎であることに疑問を感じさせない言い切り」だろう。

「じつはこのCM、プレゼントがなんなのかってけこう謎でして」

とは言わない。

「プレゼントの中身についてマニアの間でも意見が分かれる謎でして」

とも言わない。

「良く考えたらプレゼントの中身、謎ですよね」

とも共感を得たりもしない。

「最大の謎に迫る」

だ。このぶんが最大の謎なのは説明するまでもなく当たり前だろうという態度で検証を始める。え、そうなの?とすら感じさせない当たり前っぷり、本当に狡猾だと思う。

誰かに語りたくなる余地を残す

この記事については、後半にさしかかるほど妄想度が強くなっていく。そうであるはず、牧瀬里穂はそんな女じゃない、飛影はそんなこと言わない、と理論的な検証から感情が入り込んでくる。

理論的な考察から、徐々に徐々に願望めいた感情的な考察が侵食してくる。

その展開こそが面白いのだけど、ここでは「いやいやそうじゃないでしょ、俺はこう思う」と言いたくなる余地を残している。

これはべつに特段に効果はなく、僕自身の好みに拠るところがあるのだけど、僕はあらゆる記事で完璧に作り上げないし、完璧に達成しない。それを美徳としている。

例えば、なにかを制覇する系の旅記事でも、ちょっといかんともしない何かに巻き込まれ、一部分だけちょっと手を抜いている事象が発生する。

例えば、縄文から令和までの駅を巡る記事では、室町時代と平安時代で明確な手落ちをしている。ほぼ完ぺきは目指さない。

僕自身は日光東照宮が好きだ。あそこに置かれたものはほぼ全てが未完成で、意図的に手を加えない場所を残して未完成にしている。完成してしまうとあとは朽ちていくだけという考えがあるからだ。その考えに憧れてあえて未完成にした記事を作っていると言いたいけど、普通にそういうことはなく、単に記事のカロリーが高すぎるから手落ちの部分が出てきてしまうだけだ。

それでも情熱を忘れない

実は、記事を書く際には「何か書きたいのに書けない」「書いたけど読んでもらえない」「読んでもらったけど伝わらない」という3つの事象が書き手を苦しめる。

ここで書いたエッセンスの多くは「何か書きたいのに書けない」「書いたけど読んでもらえない」をいかに解決するかという部分だけど解説させてもらった。

ここで記したものは端的に言うとほぼ小手先のテクニックだ。ただ、そのような小手先は小手先であってそれ以上にはならない。

それらは、なんとか書く気になって書こう、書いたものをなるべく見てもらう、という補助的な部分にすぎない。

面白がって書くことができた、読んでもらえるよういろいろなテクニックを弄した、でもその先に何もないのなら、それは詐欺的な手法でしかない。

このCMが好きである

どんなに策を弄しても、根底に情熱がないのなら意味がない。だからこの文章では色々な策を弄しながらも、情熱を忘れないよう、その気持ちをタイトルに込めている。

’89 牧瀬里穂のJR東海クリスマスエクスプレスのCMが良すぎて書き殴ってしまった

書き殴ったの部分は僕の決意の表れであり、情熱である。策を弄しすぎてそれを忘れてしまうほど事バカらしいことはない。


「文章で伝えるとき、いちばん大切なものは感情である。」(pato著、アスコム、3月28日発売)


次回は、圧倒的な情報量と異次元の展開が大きな話題を読んだ、グルなび掲載の
タコの刺身が好きすぎるので最高に合うしょうゆを100本の中から探してみた」(pato,2018)を徹底解剖します。