見出し画像

世界史漫才12:煬帝編

 苦:今回は隋帝国の第2代皇帝煬帝(ようだい)です。
 微:いつも謁見の時に「『今日は何の用だい?」という寒いギャグを言い続けてた奴だな。
 苦:キミのギャグの寒さというか容態は安定していますが、聞いているこっちの容態は悪化したようです。
 微:寒いギャグに寒い返しとは、練習積んだな、オマエ。
 苦:キミのギャグは氷点下なのでいつも凍死しそうです。煬帝は謚号で、本名は楊広、隋を建国した文帝楊堅の次子です。
 微:父ちゃんはシウマイ弁当売りながらこいつを育てたんだよな。
 苦:それは横浜の崎陽軒!! 弁当売って回る皇帝がどこにいるんだよ!!煬帝は唐王朝による追謚で、隋帝国が天命を失い、唐王朝に移ったことが必然だと証明するために付けられた謚号です。唐王朝の都合により、中国史を代表する暴君とされてしまいました。
 微:外務省が自分の不祥事が発覚した時、責任を鈴木宗男の犬小屋と「ラスプーチン」佐藤優に押しつけたようなものだな。
 苦:後ろの方は、確かに”ムネオハウス”ですが、サハリンの友好の家の「愛称」です。
 微:そうだったのか。しかし、鈴木宗男が出所した時、「あなたは疑惑の総合商社です」と追及した蓮舫が「同志」と叫んでいたのを見ると、一体あの騒ぎは何だったんだ?と思ったな。
 苦:鳩山由紀夫首相が普天間基地代替地を「最低でも県外」と言った瞬間、外務省が文書を偽造してまで諦めさせましたが、アメリカを天子と仰ぐ中国的感性は外務省が一番強いですね。
 微:あそこの職員は全員宦官だろ? 切除したから外から見て突起物がないから「外無省」って。
 苦:世界中でオマエだけだよ、無意味な誤字と解説は! さて、隋の文帝まで遡って確認します。煬帝の父楊堅は現在の陝西省渭南市の出身で、その父は鮮卑系というか拓跋国家北周王朝の大将軍でした。
 微:大が付くと、北の将軍様よりも滑稽に聞こえるな。ほんで「今日の用件は何だ?」って横柄に。
 苦:そのネタ使い過ぎだろ。楊堅自身は後漢の名族であった楊震の末裔だと言い張りますが、実際は武川鎮を拠点とした鮮卑系貴族の普六茹部の末裔です。鮮卑族はモンゴル系ではなくトルコ系だとする説が有力で、そう考えると581年の隋建国の際に同じトルコ系の突厥が協力したことも説明できます。
 微:今のNHKは『ファミリーヒストリー』で有名人のために家系を偽造してるが、よれよりマシ。
 苦:楊堅は長女を北周の第4代皇帝の宣帝の后とし差し出し、外戚として権力を振るいます。580年に宣帝が死んで継外孫に当たる静帝が即位すると、その摂政となって北周の実権を掌握します。翌581年、静帝から禅譲させて皇帝に即位し、隋王朝を開きました。
 微:「お前、静かにしてろよな」って、脅したな。間違いない。
 苦:まあ、そうでしょう。楊堅はかつて秦の咸陽、前漢の長安の地に大興城を都に定めます。
 微:「まあ、今日はパアーッと行きましょう!」という植木等というかアゲポヨというか。
 苦:まあ、そうでしょう(苦笑)。589年には陳を滅ぼして約300年ぶりに中国統一に成功しました。楊堅は内政にも力を注ぎ、中央官制を三省六部に整え、地方行政では郡を廃して州・県を設置します。また、官僚の登用では九品中正法を廃止し、科挙制度を設けたのです。
 微:この時、「なんで急にAO入試(総合型選抜)を無くすんだ!」って暴動が起きたそうです。
 苦:確かに、よく似た制度ですがね。ただ、科挙導入によって地方の実情が中央に伝わらなくなり、人材も中央に登用されなくなって非正規無給の「吏」にした就けなくなります。
 微:パソナでも手取り4万円弱渡しているのにな。
 苦:それは淡路島の新卒奴隷ね。皇帝と官僚・将軍、高官と部下が顔を合わせ人格的というか任俠的絆で結ばれた従来の統治というか、地方と中央のつながりは断たれてしまいました。皇帝と官、実務役人、社会が分断された清代まで続く中国社会の原型ができたんです。
 微:20世紀末から日本政府は、それを科挙なしでやってないか?
 苦:新自由主義の名の下に社会的インフラを解体・売却すればそうなります。話を戻すと、江南に対しては征服王朝ですから、大運河を強制労働で建設し、江南の富・物資を黄河流域に輸送するしくみの構築に着手しました。政治的重心の華北、経済的重心の江南。この構造は変わりません。
 微:うーん、北部資本による中西部収奪という「帝国としてのアメリカ」に近い。
 苦:なお、府兵制や均田制などは中国全土ではなく、土地が草原化し、遊牧民が暮らす華北の話で、江南は貴族の支配と荘園が唐末期まで続きます。
 微:これが一国二制度の原点だな。
 苦:それは香港返還時の空手形だよ!! 仏教の興隆にも北方遊牧民だからとも言えます。だから5世紀末に南朝に朝貢して冊封を受けていた倭国というかヤマト政権は隋の南朝征服にパニックに陥ったわけです。パニックに対処するためには、イタダキするしかありません。文明度が違いすぎますから。飛鳥時代の日本の国家構想は、仏教保護を含めて、もう隋の引き写しに過ぎません。
 微:今は中国が無許可コピー天国なんだけどな。
 苦:ところで、唐が編纂した正史『隋書』の「東夷傳俀國(倭国)条」には、『日本書紀』が抹殺した600年(隋暦の開皇20年、日本では推古天皇8年)の遣隋使の記事が記載されています。

「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

開皇二十年、俀王、姓は阿毎(アメ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)、阿輩雞弥(オホキミ)と号す。使いを遣わして闕(文帝の宮殿)に詣る。上(=文帝)、所司をしてその風俗を問わしむ。使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天いまだ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴き、跏趺(=あぐらをかいて)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停めて云ふ、我が弟に委ぬと。高祖(=文帝)曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

 苦:隋は5世紀の「倭の五王」以来、倭国情報を知らなかったため、当時の天皇号「アメタリシヒコ」「オホキミ」の前者を姓名と誤解し、「オホキミ」を王号と理解しています。
 微:なんか、夜露死苦(ヨロシク)と同じレベルの当て字だな。科挙官僚のレベルはヤンキー並みか?
 苦:日本がヤンキー以下と思われたからです。「天から降臨して地上を支配する王」という日本の宇宙観は荒唐無稽だであり、「天を以て兄となし」「日を以て弟となす」という部分が中国側からは理解不能だったのです。なので隋と国交を続けたいなら、まず国書を持参し、中国の宮廷儀礼・外交儀礼で恥をかかない程度まで、国の仕組みを改め、文化水準を上げるよう「命令」しているのです。
 微:日中外交版の吉幾三『おら東京さ出るだ』だな、田舎者丸出し。
 苦:これは倭国支配層からすれば赤っ恥もいいところです。ショックを受けた厩戸皇子は必死で隋と新羅の制度をパクって、603年、604年と冠位十二階、憲法十七条を大急ぎで作り、漢文を勉強し、中国系渡来人小野妹子を遣隋使に抜擢して607年の遣使を第1回遣隋使としたのです。
 微:600年の遣隋使はなかったことに、って厚生労働省や財務省のことを言えないな。こりゃ国技だ。
 苦:さて、本当は長男楊勇が皇太子でしたが、独孤皇后や楊素らの画策で廃嫡され、次男の楊広が代わって立太子されました。604年、楊堅は病の床で、楊勇を廃嫡したことを悔やみながら亡くなります。
 微:オレも何度悔やみながら仁川の駅で電車に乗ったことか・・・。
 苦:それはヘタの競馬横好きです。楊広は隋が建国されると晋王となり北方の守りに就きました。南朝の陳討伐が行われた際には、討伐軍総帥として活躍しています。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようです。
 微:スピリチュアル・カウンセリングにはまった息子のことを父文帝は心配していました。
 苦:ウソはいいよ! 591年には、天台智顗より菩薩戒と「總持」の法名を授かっており、小野妹子が持参した国書の「西の菩薩天子」という呼びかけの背後には相当な隋に関する情報があったはずです。
 微:ホーリーネームまで用意していたら、きっと尊師様だな。
 苦:オマエは信者か? 煬帝の事績としては、洛陽を東都に定め、文帝が着手していた大興城建設の推進があります。また100万人の民衆を動員し大運河を完成させ、以後、江南の富が遊牧民との国境である北方を守る軍隊で消費されるという中国歴代王朝の国家的物流ができあがったのです。このことの重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。
 微:その人海戦術を毛沢東は第二次五カ年計画で真似したわけだな、失敗まで含めて。
 苦:対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、林邑、流求(現在の台湾)などに出兵しました。そして隋を滅ぼす遠因となる高句麗遠征に612年から着手します。
 微:でもこれが失敗の原因なんだろ。を目の敵にして
 苦:ですが、夷狄にまで天子の徳が及び、朝貢にやってくることは中華思想の「華夷秩序」であり、それが積み重なってできる国家間関係が冊封体制でした。それを歴代王朝は目指したのであって、煬帝が暴君であったわけではないのです。
 微:まあ、王朝創始者とか帝位簒奪者って、所詮は「失敗しなかった煬帝」だもんな。
 苦:高句麗遠征は失敗に終わりますが、隋の攻撃を受けた朝鮮半島諸国は、生き残りをかけて倭国に接近し、百済のように同盟にまで発展していきます。614年に隋に渡り、翌年百済使を従えて帰国した第5回遣隋使の大使犬上御田鍬は高句麗遠征が生んだ東アジアの緊張感を生々しく伝えたでしょう。
 微:607年の第2回遣隋使で「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「今日我了是」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)(今日はこれくらいにしといたるわ)と小野妹子に一発かまさせた後だしな。
 苦:勝手に『隋書』に書き加えるな! なお、煬帝が立腹したのは倭王が「天子」を名乗ったことについてであり、「日出處」「日沒處」という表現にではありません。なお、小野妹子は、煬帝からの返書を持たされて帰国しますが、「返書を百済に盗まれて無くしてしまった」と言い訳しています。返書が倭国を臣下扱いする物だったので、妹子が破棄してしまったと推測されています。
 微:キミも昔、不都合な答案用紙を駅のゴミ箱に捨てていたよな。
 苦:請求書の束を普通ゴミに出して、近所にバレたキミよりましだよ!! (ペシッ!)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?