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世界史漫才49:ナポレオン3世編

 苦:今回はナポレオン3世です。シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、第二共和政の大統領を務めた(1848~52年)後、クーデタで第二帝政の皇帝ナポレオン3世(位1852~70年)となりました。
 微:要するに、フランスの石原伸晃だな。叔父裕次郎の人気と名声を利用して出世するけど、最後はしくじる。
 苦:身も蓋もないことをいきなり言わないように。ルイ=ナポレオンは、ボナパルト家の息子として裕福に過ごしていましたが、叔父が1815年にワーテルローで敗れると、父母は別居し、母に引き取られてドイツ、イタリアを転々とした後、スイスのドイツ語圏のチューリヒで育ちます。
 微:保険金支払いを拒否するあくどい商法で暮らしていたそうです。
 苦:それはチューリヒ生命で、関係ないよ! ドイツ語が第一言語となってしまい、彼のフランス語からはドイツ語訛りが抜けず、そのため一部の保守派や反ドイツ主義者からは「フランス皇帝でありながらドイツ人のようなフランス語しか喋れない」と不評を買うこともありました。
 微:まあ、東京に進出した吉本の若手が受ける最初の試練です。逆に開き直って栃木弁丸出しのU字工事という手もありますが、ライヴァルの茨城県に当たる地域がないと苦しいでしょうね。
 苦:オマエは審査員のオール巨人か! 1830年から1831年にかけてイタリアに滞在していましたが、その間に兄とともに武装闘争路線のカルボナリ党に参加し、オーストリア官憲から追われます。
 微:追っ手を欺くために、ずっとペスカトーレを注文しつづけたそうです。
 苦:食いものじゃねえよ! 武装組織のカルボナリ党だよ! 逃亡のさなか、兄ナポレオン=ルイは1831年に病死し、翌1832年には従弟ナポレオン2世も病死しました。
 微:行く先々に岐阜県から送られた養豚場があったそうです。
 苦:それは豚コレラじゃねえよ!! 新型コロナで誰も地元か滋賀県民しか覚えちゃねえし。
 微:実はルイ=ナポレオンがロシアから放射性物質を密かに入手していたそうです。
 苦:それは21世紀の話!! ルイ=ナポレオンは伯父ナポレオン1世の後継者たらんと決意を強め、フランスへ戻ると、七月王政打倒を訴えて2度反乱を起こしますが失敗し、1840年に終身刑となりハム牢獄に入れられました。
 微:これがまた、滑舌が悪い奴が集められた牢獄なんですよ。
 苦:それは消えた漫才コンビの左側の奴だろが! 話を戻すと、1846年に脱獄してイギリスへ亡命し、2年後の二月革命勃発後は補欠選挙で当選、議員としてフランスに復帰しました。
 微:これを河合夫妻は参考にというか希望の星にしているそうです。
 苦:ただの金バラマキ夫婦だよ!! そして第二共和政下の1848年12月のフランス初の大統領選挙では圧勝で当選し、大統領時代は「皇子大統領」(Prince-President)と呼ばれました。
 微:滋賀県の皇子山陸上競技場で就任演説をしたからだろ?
 苦:滋賀県民しかわからないボケはいいです、もう。それは血統の良さと、実際の政治経験がほとんどないことを揶揄する意味もありました。当時の政界に人脈が乏しく、ルイ=ナポレオンはいわば周囲の政敵と互いに牽制し合いながらも大統領として権力を蓄えていきました。
 微:余った分は電力会社が買い取る制度のおかげだね。
 苦:それは太陽熱発電だろ! そして1851年12月2日にクーデタを起こし、翌1852年にはナポレオン1世と同様、国民投票を経て皇帝ナポレオン3世となり、第二帝政を開始しました。この一連の流れはボナパルティズムの力によるところが大きいです。
 微:大久保利通、近衛文麿、岸信介の血を引く者が首相にふさわしいようなもんだな、日本だと。
 苦:ボナパルティズムは、ボナパルト家を再びフランスの支配者に据えようとする政治運動ですが、マルクス以来、革命運動を強権でもって弾圧しようとする「民主的な外観を持った権威主義的・反動的な運動一般」のことを指します。
 微:要するにガースーだな、得票率28%くらいで議席の6割以上を占めて「民意の代表」ツラして。
 苦:マルクスから引用すると、「歴史的な大事件や重要人物はすべて、いうならば二度繰り返される。一度目は悲劇だが、二度目は茶番劇だ」と『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』の第1部冒頭に書くなど、マルクスのナポレオン3世への評価は激辛です。
 微:その意味でも暴君ハバネロだな。
 苦:余計な話はいいよ! 第二帝政は1852年から1860年までを「権威帝政」、1860年から1869年までを「自由帝政」、1869年から1870年までのエミール・オリヴィエ内閣を「議会帝政」と区分します。「権威帝政」では産業資本の利益援護政策を推進し、また当時のセーヌ県知事オスマンと共に「パリ改造」を1853年から始め、大成果を上げました。
 微:サンコンもたまには役に立つじゃねえか。
 苦:全くの別人だろ! 19世紀半ば頃までのヨーロッパの都市はどこでも不衛生で、パリも例外ではありませんでした。豚が放し飼いにされるわ、住民は日々に出る生ゴミや汚物を通りに投げ捨てるわ、の状態で、道の窪みや溝にはそれらが溜まり、河川には、動物の糞・廃棄物・汚物などが流れ込み、水質は最悪でした。パリ市民はセーヌ川のその水を飲んだり、浴びるなど生活環境・都市衛生はきわめて劣悪でした。
 微:独身時代のキミのアパートと変わらないな。そのうち畳からキノコが生えるぞ。
 苦:畳ではなくてサルマタです。オスマンは大規模な都市改造を企て、パリに光と風を入れることを名目に、幅員の広い大通りを設置するとともに道路網を整備しました。
 微:××さんの頭もオスマンが改造したのか?
 苦:やめろ、オレは知らんぞ! また街区の内側に中庭を設けて緑化を行い、開放的で衛生的な街を整備し、それを実現するためにスクラップアンドビルドという手法が取り入れました。
 微:それでリーブ21は、破壊屋和田アキ子が情けない社長とCMに出てるんだな。
 苦:計画地にある建物を強制的に取り壊し、次に建設工事と都市整備により経済を活性化したわけです。これは産業革命後の経済界の要請にも沿うものでもありました。
 微:この時、政府と業者を仲介したのが阪上善秀前宝塚市長です。
 苦:いつの時代だよ! そしてうまく活用したのがパリの地下です。地下の下水道整備以外にも、建築石材を切り出し、それを活用させて町並みの色を統一しました。我々がイメージする「花の都パリ」はオスマンによって生み出されたのです。
 微:臭い「鼻の都」から「花の都」になったんだな。
 苦:まあ、そうです。さらにオスマンの改造により、パリ市内の物流は大きく改善され、さらにはしばしば騒乱のもととなっていたスラムを排除するという目的も達成されました。19世紀半ばまで貧民と病人が住み着いていたノートルダム大聖堂のあるシテ島は、パリの清潔な観光名所となったのです。
 微:中途半端にやると天王寺公園とフェスティバルゲートみたいに共倒れだもんな。
 苦:「王様は裸だ」を言ってはいけません。整備されたパリの街は「世界の首都」と呼ばれるようになり、フランス国内にとどまらず各国における都市建設の手本とされました。
 微:ってことは、改造前のパリは「世界の大阪」だったんだな。
 苦:首都の大規模な改造は、ナポレオン3世の威光を高め、第二帝政の寿命を延ばしたといえます。
 微:通天閣が一応、エッフェル塔をモデルにしているように、やっぱ大阪って売っている激安品もパチモンだけど、街そのものがパチモンだもんな。
 苦:さて、ナポレオン3世の対外政策ですが、1853年のクリミア戦争にイギリスとともにオスマン帝国側で参戦してロシアを破り、パリ条約で世界にフランスの力を見せつけます。
 微:陸軍は頑張ったけど、海軍はボコボコにやられたんだよな。
 苦:1856年にイギリスに便乗してアロー戦争に参戦して清朝を屈服させます。1858年にインドシナへ出兵してコーチシナ植民地を獲得するなど、叔父の軍事的栄光の記憶を最大限利用します。
 微:フランスとベトナムの関係って、ルイ16世に遡るんだよな。
 苦:はい、阮朝ができる時ですね。そして1859年のイタリア統一戦争ではイタリアを支援し、プロンビエールの密約に基づきサヴォイアとニースを獲得します。
 微:サビオとジュースしかくれないなんて、献血以下だな。
 苦:救急法の講習会レベルのボケを入れるな! さて、1861年にはメキシコ出兵を強行しますが、ファレス率いる共和軍やアメリカの抗議により1867年に撤兵しました。この時、ジャーナリズムを軽視したため、第二帝政とナポレオン3世はジャーナリズムの罵倒によって崩壊に向かったとも言えます。
 微:文春砲が炸裂したそうです。
 苦:ガースーの長男かよ!! しかし1867年に運良くパリ万国博覧会開催となり、支持率も回復しました。そして運命の普仏戦争です。まあ、これも元はといえばナポレオン3世がスペイン王位継承問題に要らぬちょっかいを出したことが原因なんですが。
 微:夫婦ケンカも姑の余計な一言から始まるもんだよ。
 苦:ビスマルクの計略=エムス電報事件で巻き込まれ、序盤から劣勢、セダンの戦いに自ら出陣したんですが、持病の腎臓結石のために動けず、プロイセン軍の捕虜になりました。
 微:そんなことなら、最初から「欠席」すれば良かったんだ。
 苦:文字化しないとわからないシャレはいりません。講和条約のエグさからパリ市民の反感を買って失脚し、第二帝政は幕を閉じます。1871年3月にドイツ経由でイギリスに亡命し、1873年1月にキャムデン・パレスで死去しました。ナポレオン4世こと息子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルトはイギリス軍に入り、1879年にアフリカ南部で戦死しています。
 微:皇太子として2日間だけ政務を執り、パリ=コミューンの前にイギリスに亡命したやつだな。
 苦:ナポレオン4世戦死後、ボナパルト家の財産と権利を継承したのがナポレオン1世の末弟ジェロームの孫ナポレオン5世ヴィクトルで、その次が5世の子ナポレオン6世ルイです。
 微:げげ、まだボナパルト家は存在していたのか。
 苦:ですが1997年以降、親子で権利が争われています。父が6世の子ナポレオン7世シャルル、そのシャルルの子がナポレオン7世ジャン=クリストフです。裁判でも決着は付かず、7世は自称です。
 微:三度目を見たら、マルクスはなんて表現するだろうな。
 苦:多分、「三度目はヤラセとして」だろうな。関係者全員カメラ目線で。(チャンチャン)

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