希望を持つことについて

こんにちは。

長澤です。

久々の出没です。

今回は、

希望を持つこと

について。

今回、999note目です。

次の1000note目で、何をすべきか、迷っています。

それは、さておき、希望を持つことについて。

最近、いろいろ、悩んでいます。

行動やら、思考やら。

そこで、「希望 持ち方」

検索してみたんですよ。

(相当、僕、病んでますね(笑))

そしたら、

希望とは、

論理性を排除したところにある。

と、出てきたんですよ。

かなり、痛いところを、突かれましたね。

僕の過去noteをご覧の方は、ご存知かと、拝しますが、かなり、ロジカルです。物理学や数学のnoteも、多々あります。

しかし、論理性を排除したところに、希望が、あるというなら、納得です。僕は、希望を持ちにくく、ニヒルな面が、あったわけですから。

いろいろと悩みました。

いのちの電話にも、掛けました。

30分くらい、話したでしょうか。

希死念慮が激しいなどと、悲しませるような事も、言いました。

母親が、亡くなったショックも、ありました。

おばあちゃんの前で、自殺についても、話しました。

親子とは、皮肉なもので、父親も、自殺について、一考を、必要とする事態が、若かりし頃、あったらしいです。

自分が、自宅の二階から、飛び降りたら、どうなるかなど考えてしまいました。二階だから、ケガで、終わると思われます。しかし、ケガで、入院など、する際は、精神科で、保護室行きでしょう。皆さんを、悲しませます。

ネットとはいえども、ご近所様。悲しませるかもしれません。

思考については、以上。

次。

行動

行動は、正直です。

行いが、そのまま、返ってくるのですから。

因果応報とでも、申しましょうか?

善因善果。

善いことをすれば、善いことが、返ってくる。

仏教的ですが、今は、それを、そのまま、信じるなり、行わなくては、いけません。

以上。

ここまで。

次の1000note目は、何をしよう。???

より善い記事を書きたいと思うので、サポートしていただけたら幸いですm(__)m