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神示が降りた神社に関する、あさってのほうへ向く考察

「富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる」

いきなり何事かとお思いでしょうが、
日月神示の冒頭部分です。
好事家の間では有名ですね、日月神示。
国常立尊による御信託です。

この神示が降ろされた神社は、僕が住んでいる千葉県にあります。
千葉県成田市台方にある麻賀多神社がその神がかりの舞台となりました。

1944年、画家である岡本天明は麻賀多神社の境内末社である天之日津久神社を参拝します。しかしその直後、右腕に激痛が走ります。直感的に何かを感じた天明は急いで筆と紙を取り出します。
ここから全38巻+補巻におよぶ壮大な自動書記が始まったのです。

日月神示の内容については他に研究されている方がたくさんおられますから、この記事では割愛します。
神示で告げられた三千世界の大洗濯と大峠。
いやはやなんともこのご時世、とても気になる案件ですが、その考察も後ろ髪を引かれる思いで他の方に託します。

僕が考察するのは麻賀多神社(まかたじんじゃ)という、変わった名前の神社のほうです。

麻賀多神社はこの成田市台方の社を含めて近辺に18社存在します。18社もあるくせに、印旛沼という沼の東側から南にかけて点在するのみで、全国はもちろん、千葉県内でもこの付近以外には見られない神社です。一風変わった名前といい、何か謎がありそうです。

まずは神社の様子から見てみましょう。
屋根に配される神紋は麻ですね。神社名にも麻をという字が使われます。
そしてここは阿波忌部が築いた総の国。つまり阿波忌部の神社です。

麻賀多神社 神紋 神兎研究会ホームページより引用

そもそも古代は麻賀多神社がある一帯を印波国(いんばのくに)と呼んでいました。印波とは、みなさんお察しの通り、忌部でしょう。麻賀多神社が印旛沼周辺にしか存在しないのも、印旛沼が忌部の沼であったことからくるものでしょう。

次に社伝を見てみましょう。今から千七百年余前、印波国造であった伊都許利(イツコリ)が、現在の地に麻賀多神社大神として崇めたとあります。伊都許利は神八井耳の子孫なので多氏の人間ですね。鹿島神宮も元は多氏が祀っていましたから、鹿嶋からほど近いこの地域にも多氏は影響力を持っていたのでしょう。もともと阿波忌部が祀っていた場所に、あとから多氏が入ってきた感じでしょうか?

では次に御祭神です。
主祭神はワクムスビ。養蚕と食物の神。トヨウケの父ですね。
代表的な御食津神です。
もともと阿波忌部の神社でのちに多氏が来て祭神がワクムスビという御食津神ですから、祭神は変えられている可能性がありますね。阿波忌部が御食津神を祀るとすれば、それはオオゲツヒメになるでしょうから。
東国は時代ごとにさまざまな氏族が西からやってきて神を上書きしていくので、その信仰体系の変化は複雑怪奇です。

とまあ、ここまでは一般的な麻賀多神社の考察です。
この神社に関わる忌部氏と多氏の存在は他のたくさんの方も言及されています。
しかし僕の記事では別の可能性について検証してみたいのです。

そもそも麻賀多神社(まかたじんじゃ)という、この変わった神社名はどこからきているのでしょう。

社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、
杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、
五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。
応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。
推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。

延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の1つと同名であるとして、
1字取って「真賀多神社」に改称した。
後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。

wikipediaより引用

伊都許利が杉の木の下から7つの玉を取り出し、ワクムスビと合わせ祀って、この2神を「真賀多真(勾玉)の大神」と呼んだそうです。

勾玉が由来になっているんですね。
勾玉とは縄文時代から古墳時代まで作られた装身具で、
由来は諸説ありますが、その中のひとつに縄文時代に作られた牙玉がルーツとなっている説があります。
牙玉とは動物の牙や骨を加工した装飾品です。

縄文人(見習い)の糸魚川発!ホームページより引用

この牙玉が時代を経るごとに翡翠や琥珀、碧玉といった石で作られるようになり、形も加工され、みなさんおなじみの勾玉となっていくようです。

広島県教育委員会ホームページより引用

勾玉制作は古墳時代に最盛期を迎えますが、飛鳥時代後半になるとだんだん作られなくなっていき、奈良時代になると完全に過去の遺物となります。
麻賀多神社はこの勾玉が由来となっていますから、少なくとも古墳時代以前から聖地とされていた場所のようですね。

千葉県という土地は縄文遺跡が密集していますから、おそらくここも縄文時代から信仰されてきた聖地なのでしょう。その場所に阿波忌部がやってきたり日本武尊がやってきたり多氏がやってきたりして、その信仰体系を変化させていったと思われます。

ここまでの考察も社伝に記される定説の範疇をまだ超えません。
僕が知りたいのは、もっと別の可能性です。今までにない角度からこの神社を眺めてみたいのです。
その手がかりとなる伝承が同じ千葉県の袖ケ浦市に残っています。

千葉県袖ケ浦市神納に率土神社(そっとじんじゃ)という神社があります。
主祭神は埴安姫です。他の詳細は省きますが、とにかくここの神社の縁起をみなさんに見ていただきたいのです。

率土神社縁起

祭神埴安姫は天竺(インド)摩伽陀(マガダ)国盤古帝の后であったが、盤古帝の悪政によって国が乱れ、人民に国を追われて七人の王子と家臣、大朝臣清麻呂と共に、養老二年(718)に日本に漂着した。時の元正天皇によって京に迎えられた后は、天皇の命によって東国の民を鎮めるために下向することになった。
天豊媛命の名を賜り、養老二年四月に京を発し、同年六月に上総国望陀郡飫富の里に着いた。
土地の人々に迎えられた后は、神納の地に社殿を建てて住みつき、天平二年(730)六十三歳で没した。聖武天皇は大明神埴安尊と尊号を下された。

率土神社縁起より

インドのマガダ国。この国から妃がやって来たとあります。
マガダ国とは古代インドに実在した王国です。

マガダ国は古代インド、ガンジス川の下流域に存在した国家です。王朝を変えながら紀元前682年頃〜紀元前23年頃まで実在した国です。この国は当時インドで主流だったバラモン教ではなく、成立したばかりの仏教とジャイナ教を保護し、都には世界最初の仏教寺院である竹林精舎がありました。そして近くには釈迦が過ごしたという霊鷲山(りょうじゅせん)があります。当時インド最大の鉄鉱石の産地であり、アショーカ王の時代(紀元前240年頃)に南端部分を除くインド亜大陸全域を統一しました。

率土神社の縁起では、この国の妃が千葉の地にやってきたと伝えています。
ただ縁起に書かれる718年にマガダ国は存在しておらず、その時代にインドからお姫様が亡命してきた歴史も正史には残っていないので、おそらく地元に残る古い言い伝えの年代を変えて、神社の縁起としたのでしょう。
僕はこのマガダ国のお姫様、実際に千葉に来ていると思います。

ここでもう一度麻賀多神社の社伝に戻っていただきたいのですが、
神社を造営した伊都許利は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それをご神体としてワクムスビと一緒に併せ祀りました。
マガダ国のお姫様は7人の王子と共に日本に漂着します。率土神社は彼女のことを埴安姫と伝えます。埴安姫は日本書紀で埴山姫と記され、カグツチと結婚します。そして二人の間に生まれた子供がワクムスビなのです。ワクムスビとは麻賀多神社の主祭神ですね。つまり率土神社の縁起は麻賀多神社の社伝のエピソードゼロとなる内容なのです。
おそらく千葉の袖ヶ浦にやって来たマガダ国の姫君が半島をのぼり、成田までやって来て印旛沼周辺に居を構えたのではないでしょうか。いつ頃の話なのかはわかりませんが、マガダ国の存在時期を考慮すると紀元前の話と推定されます。
そしてこのインドからやって来たマガダ国の一団が阿波忌部と交わり、
その地が麻賀多(まかた)神社として現在まで残っていると考察します。

さて、話は変わりますが千葉県は関東地方でも特に出羽三山信仰の厚い地域となっております。東北から遠く離れた地域でありながら、房総半島西部には今でも三山信仰にかかわる行事がさかんに行われている地域があります。
僕は千葉県北西部に住んでいますが、近所の神社では出羽三山を合祀しているところが非常に多く、こんな遠く離れた場所になぜ?と以前から不思議に思っていました。

出羽三山信仰とは崇峻天皇の息子、蜂子皇子が593年に出羽国で開山した3つの山「羽黒山・月山・湯殿山」を信仰する山岳信仰です。もともとあった日本古来の自然崇拝の山岳信仰に、仏教・道教・儒教などが習合し成立した修験道の聖地です。明治政府による神仏分離政策の影響を受けるまでは、非常に仏教色の強い場所であり、真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕されていました。
この出羽三山信仰が千葉の西部で厚く信仰され続けている謎を解いてくれたのは、今回の麻賀多神社の考察でした。

論より証拠ということで、出羽三山を開山した蜂子皇子の肖像をまず見てください。

蜂子皇子 出羽三山神社ホームページより引用 

浅黒い肌。どっしりと横に広がる鼻。ギロリとした大きな目。とても日本人とは思えませんよね。インド人ぽくないですか?

ターバンを巻いたインド人 インドなびより引用

僕はこの蜂子皇子の祖先は古代インドからやって来た人々であり、もっといえば彼は千葉の袖ヶ浦に漂着したマガダ国王妃とその一団の末裔であると踏んでいます。
だから東北から遠く離れた千葉の西部で、現在でもさかんに蜂子皇子が開山した出羽三山が厚く信仰されているのだと思います。

マガダ国は当時の新興宗教であった仏教とジャイナ教を保護した多神教の国でした。出羽三山も仏教・道教・儒教などが習合し成立した信仰です。

マガダ国の一団は千葉で阿波忌部と交わり、日本の朝廷にも深く入り込んでいたと思われます。蜂子皇子は32代崇峻天皇の皇子で、父親を殺した蘇我氏の手から逃れるために東北へ逃れ、出羽三山を開きます。崇峻も蘇我氏も仏教推進派で、ともに反対派の物部氏と闘った仲でしたが、物部氏を倒した後に二人は仲違いしてしまい、結局崇峻は蘇我氏に暗殺されてしまいます。
僕の考察では、紀元前にやって来たマガダ国一団の末裔が仏教伝来時における朝廷内の推進派の一部にいたのではないかと推測します。
そしてそれは、この崇峻天皇ー蜂子皇子の系譜ではなかったかと。

それでは今回の考察のおおまかな流れをおさらいしてみましょう。

紀元前、千葉西部にマガダ国王妃とその一団がやって来る。
          ↓
一団は千葉を北上し、成田に居を構え、
阿波忌部と交わる。麻賀多(まかた)神社建立
          ↓
マガダ国の末裔は皇族と血を交えるが蘇我氏により崇峻が暗殺される。
子である蜂子皇子は東北に逃れ出羽三山を開く
          ↓
千葉県西部では現在でもマガダ国の末裔が開山した出羽三山が厚く信仰され続けている

現代に至るまで千葉で厚く信仰され続けている出羽三山信仰の起源は、このような流れなのではないかと考えています。
ここまで書いて来ましたが、僕は蜂子皇子が開山した出羽三山がいったいどこにある山なのか、その詳細についてあえて触れませんでした。
それは最後のオチのために、隠しておきたかったからです。
そもそも今回の記事は、そのオチを言いたいがために書いたものなのです。
つまり今まで長々と説明した内容は、最後の結論に向けての壮大な前フリです。

出羽三山とは山形にあります。
つまりはこういうことです。

マガダ国→麻賀多(まかた)神社→ヤマガタ

しょうもないと言わないでください。ダジャレなのはわかっています。
でもどうしても、この「マガタつながり」をみなさんにお伝えしたかったのです。
なぜなら僕はこの言葉遊びのような音のつながりを発見した時、それはもう、ほんとに、心の底からときめいたのですから。

出雲口伝により、古代出雲族が4000年前にインドからやって来たドラヴィダ人であることは周知の事実となりました。であるならば、別の時代にもこの島にやって来るインド人がいてもなにもおかしくないわけで。

じつは東国には、やたらとインドのお姫様がやって来る話が多いんです。茨城にも「金色姫伝説」という養蚕をもたらしたインドのお姫様の伝承が筑波、神栖、日立の3ヶ所に伝わっています。
おもしろいのはどの伝説も国を追われたお姫様が常陸国の海岸に流れ着くという話なんです。インドの人々にとって日本の東国は亡命先として人気だったのでしょうか?
とにかく東国には古代インドの伝承が数多く残っています。

さて、今回の記事でも古代における日本と世界の繋がりを考察してきましたが、
実は僕、前からうすうす気付いてはいたんです。
東国に残るインドの気配に。
香取神宮を参拝するたびに思っていました。
拝殿の彩色が日本ぽくないことに。

香取神宮拝殿上部 
まるっと千葉を知り尽くしたいより引用

この色彩感覚は日本古来の、神道由来のものではないでしょう。
それは太古の時代にやって来た、インドの方々の美的センスと言えるでしょう。

僕たちの身体に流れる血液にはこの彩色に見られるように、さまざまな色の血が混じっています。

人の血のつながりは、遠く離れた土地土地を一瞬にして繋げます。
世界とは僕たちが思うより、身近な場所かもしれません。

チベットの仏教寺院 
Soul Eyesホームページより引用

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