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織田信長とバチカン

福井県に敦賀という場所がありますが、この敦賀という地名の由来になった神様が日本神話に出てきます。

ツヌガアラシトという新羅からやってきた渡来神です。
この神が統治していたツヌガ国が後世、敦賀に変化したとされています。

そしてこのツヌガアラシトという神様、別名をアメノヒボコといいます。
神功皇后、応神天皇のご先祖ですね。

僕はこのアメノヒボコ、古代イスラエル、失われた10支族と関わりがあると見ています。それはアメノヒボコの伝承が残る地域に六芒星やメノラーといった意匠がよく見られるからです。
そしてツヌガアラシトという名も「角がある人」から来ているように思えます。
旧約聖書に描かれる金の子牛。それはヤハウェの原型だったと考えられています。モーゼの頭にもよく角が生えて描かれていますね。牛頭天王もそうですが、これら頭に角の生えた神様は古代イスラエル、またはシュメールに関連があると僕は見ています。


ニコラ・プッサン 『黄金の子牛の礼拝』


ミケランジェロ 『モーゼ』

そんなアメノヒボコが統治していた敦賀。そのすぐ上には越前町があり、ここは戦国時代の名将を生み出しています。
みなさんご存知の織田信長。彼を輩出した織田家が越前町発祥です。

越前町にある織田劔神社。ここの神官を代々務めてきたのが織田家です。
なので織田信長は古代祭祀を司ってきた忌部氏の末裔とされています。
信長自身は尾張で生まれていますが、その家柄を辿ると越前に行き着くのです。

さて、その織田信長について興味深い話がヨーロッパに残っています。

信長は安土城という城を琵琶湖東岸に造営しました。
この城は信長が天下人になったのちに建てられた城で、
独創的な意匠をふんだんに用いた、絢爛豪華な城だったようです。

そして一番のポイントは宗教色がとても強かったことです。
この城の天守閣には宝塔があり、その前に四畳ほどの小部屋があります。また天守内部に4階分の吹き抜けがあるなど一風変わった作りになっています。これはキリスト教を歓迎した信長が、キリスト教の祈祷室や大聖堂を模したものを内部構造に取り入れたのだろうと現代では考えられています。

この城は完成からわずか3年後に焼失してしまい、その詳しい全貌は明らかになっていません。かのイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスをも驚愕させた安土城。
焼失が惜しまれてなりません。

しかしその手がかりが、日本から遠く離れたヨーロッパから見つかります。

「安土城図屏風」というものが、なんとバチカンに眠っているのです。
この屏風は織田信長が狩野永徳に命じて描かせたもので、築城時の城の外観を知ることのできる唯一の資料とされています。
信長は1585年 、天正遣欧少年使節を介してローマ教皇にこの屏風を献上したそうです。

陶板壁画「安土・南蛮図屏風」部分復元図
(安土町城郭資料館蔵)※本物の安土城屏風ではありません

ただ残念ながらこの屏風の行方も現在は不明だそうで、滋賀県がバチカンに調査協力の要請をしています。

この屏風だけでなく、信長はバチカンにたくさんの信書を送っています。
私が聞いた話では、信長の書状が一番残っているのは日本ではなくバチカンだそうです。

信長はなぜバチカンとのやりとりを続けたのか。そしてなぜキリスト教を歓迎したのか?それは彼がこの国の本当の歴史を知っていたからだと思います。

信長の家系は古代祭祀を司る忌部氏の家系です。つまり天皇家のすぐそばでこの国の歴史を実際に見てきた家柄です。

そしてその織田家は渡来神アメノヒボコが統治した敦賀のすぐそばの出身です。また織田劔神社の祭神、忍熊皇子(おしくまのおうじ)は応神天皇の異母兄でともに皇位を争った間柄でもあります。
この島と古代イスラエル、そして原始キリスト教の繋がりを知らないはずがありません。

だからこそ信長はバチカンと交流を図ったのだと思います。
この島の古代史に原始キリスト教が深く関わっていることを知っていたから。

そういえば織田劔神社、江戸時代に伏見宮の祈願所になっていますね。
伏見宮の祖は応神天皇と言われています。応神天皇とキリストは以前の記事に書きましたので興味ある方はご参照ください。


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