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神の名を冠する3人の天皇

知らぬ間に敬老の日が過ぎ去り、気がつけば今週末は秋分です。
2023年もだいぶ終わりが見えて来ました。
月日とは目まぐるしく通り過ぎていくもので、
今年が何年なのかたまにわからなくなったりします。
令和になるとお手上げです。平成がいつ終わったのかも曖昧です。

それではいかんということで、調べてみました。
令和5年。皇紀でいうと2683年。改めて数字を見ると、
この国の歴史の深さを実感します。
今上天皇で126代目ですから、現在まで126人の天皇がこの国の皇位を継承してきたことになりますね。世界の王室とその長さを比べてみても、2位はデンマークの54代なので、ダントツで世界最古の王朝です。

そんな日本の古代史を調べている僕ですが、実はあまり天皇の名前を知りません。
126人もいますから、とてもおぼえきれません。
なおかつ日本古代史には欠史八代という実在性の薄いとされる天皇もいらっしゃるので、もう、なにがなんだかわかりません。まあ、もともと暗記が苦手な性分なので、年号と天皇の名前は諦めています。

さて、今日はそんな僕でも知っている歴代の天皇についてお話しします。

126代続く日本の皇室。現在に至るまでたくさんの方々がこの国の天皇の座についてきました。一覧を載せときます。

皇室の伝統を守る国民の会より引用
皇室の伝統を守る国民の会より引用

錚々たる面々です。古墳が残っている御方や古事記の編纂を命じた御方など、古代においては日本を統治してきた方々ですから、歴史上の有名人ばかりです。

そんな歴代の天皇の中で、名前に神の字を持つ天皇が3人います。
126人中3人です。意味深な感じがしませんか?
僕はこの神の名のつく天皇がとても気になります。
絶対に何か意味があるはずです。
その3人を以下に並べていきますね。
初代 神武天皇
10代 崇神天皇
15代 応神天皇
この3人しかいないのです。のちの天皇には誰一人名前に神がつきません。
神の名を授かるくらいですから、この国の歴史に大きな影響を与えた人物であることはたしかでしょう。でなければこのような諡はつかなかったと思います。
気になって少し深掘りしていくと、これら3人の天皇にはある共通点があることに気がつきます。
それは3人とも畿内よりはるか西に由来を持つということです。

初代神武は宮崎の日向で生まれます。九州出身ということですね。
10代崇神は別名を御間城入彦と言い、任那(みまな)から婿に入ったからミマキイリヒコになったという話があります。“ミマの城のイリヒコ”ということです。任那とは562年まで存在した朝鮮半島南部の地名です。
応神は母の神功皇后が身重のまま三韓征伐に向かい、帰国後に産まれた天皇です。お腹の大きくなった皇后が戦のために海を渡り、出産を遅らせるためにお腹に石を巻いたという無茶苦茶な伝承が残っています。当然これを史実と捉えるには無理があり、応神は三韓征伐に向かった神功皇后が朝鮮半島から連れ帰った皇子という異論も根強くあります。
つまり3人の神の名を持つ天皇は、全員九州や朝鮮半島といった西の地域にゆかりが深い天皇となるわけです。

ではこの「歴代126代続く天皇の中で神の名を持つ天皇が3人だけ存在する」という事実を踏まえた上で、こちらの動画をご覧ください。

いかがでしたでしょう。TOLAND VLOGによる出雲口伝の考察動画です。
今回も非常に勉強になりました。
動画では出雲富家に代々伝わる出雲口伝を紹介しています。
徐福という失われた10支族の血を引く人物がユダヤの王国を作るため、中国から日本にやってきます。そして当時の出雲王家に入り込むという衝撃の内容でした。
しかしながら徐福の計画は思うように進まず、何度も失敗します。そのたび徐福は中国に戻り、ほとぼりがさめるとまた日本にやってくる。この繰り返しです。
中でも僕が注目したのは、
徐福の一団が計3回、日本に来ている。
このことにつきます。
そして冒頭で説明したように、
神と名のつく天皇も3人だけです。
3という数字が共通してます。
気になります。おおいに気になります。

徐福という人物がこの国の古代に大きな影響を与えたことは、各地に残る徐福伝説から見てとれます。されど記紀は徐福の存在を隠します。
末裔である秦氏はのちに大和朝廷の中枢に深く入り込む氏族なので、やっぱりこの国の歴史に徐福が出てこないのは不自然です。

TOLAND VLOGでもこの理由を説明しており、日本書紀という対外的に作られた書物で日本の王族が中国出身ということになると外交上の問題が生じるため、その存在を抹消し、日本の王権の独自性を強調したという見解です。
ようするに、中国から舐められないようにするためです。
たしかにそうでしょう。至極真っ当な徐福の隠蔽理由です。
しかし僕は、記紀はヒントを残していると思います。
なぜなら徐福の一団が計3回、日本に来ていることと、
神と名のつく天皇が3人だけ存在するということが、
とても無関係とは思えないからです。
記紀は徐福の存在を隠しはしたが、別の人物のエピソードに3回渡来してきた徐福の伝承を散りばめている気がするのです。

それでは出雲口伝における、徐福の渡来伝承をおさらいしてみましょう。
1回目。徐福として来日するも出雲兵士の手により追い返されます。
2回目。この時はホアカリとしてやって来きます。あらかじめスパイを出雲王家に送るなど用意周到に計画し、信頼を得て王家から妃をもらい子を授かります。見事王家に入りこむことに成功するが、大国主と事代主を殺してしまい、結局は出雲にいられなくなり中国へと逆戻り。被害者である出雲族の中にはこの事件を嫌がり、出雲の地を離れ大和へ移住する者が現れます。こうして王家は出雲に残る家と大和へ行く家の2つに分裂します。
3回目。今度はニギハヤヒとして。過去の失態から出雲には入れないため九州に上陸。宗像家の市杵島姫と結婚し、北九州で勢力を拡大するが、夢半ばにしてその地で亡くなる。のちに徐福の孫である村雲がヤマト王権の大王となっていく。

ざっくりとした流れですが、こういう経緯になっています。
この3回に渡る徐福渡来の伝承が、後世の時代に登場する神の名を持つ3人の天皇の逸話にトレースされてる。そんな気がしてしょうがないんです。
それでは比較してみましょう。

まず徐福1回目の来航では出雲族との戦に敗れ退散します。
初代神武も1度敗れています。最初に西から大和国へ入ろうとする際、ナガスネヒコと戦になり、敗れます。しかたなく神武軍は一度大和から退散します。長兄の五瀬はこの時の傷が元で死去します。そしてふたたび、今度は熊野から進軍を開始します。
「我々は日の御子なのだから日に向かって戦うのは良くない、日を背にして戦おう」という有名なセリフが残っていますね。

徐福2回目の来航では政略結婚に成功し、見事王家に入りますが、大国主と事代主を殺し、出雲族から大きな反感を買ってしまいます。
結果的に出雲王家は出雲に残る一族と、大和に移住する一族で2つに分裂する運びとなります。
10代崇神の時代、突如疫病が蔓延し多くの民が亡くなります。崇神は三輪山に大物主を祀ることで疫病を収束させます。日本書記の異伝によれば、大物主は大国主の別名と記されます。またその前年に崇神は興味深い行動に出ています。それまで宮中で祭祀していたアマテラスと倭大国魂を「並べて祀っていたのでは神威が強すぎる」という理由で外に出し、2つに分けて祀り始めたのです。以降アマテラスは各地を転々とし、最終的に伊勢に落ち着きます。そして歴代の天皇は、明治天皇の代になるまで伊勢神宮を参拝しません。いっぽうの倭大国魂は大国主の別名に大国魂という表記が見られ、大和神社には倭大国魂とともに八千戈(やちほこ)が祀られています。いわゆる出雲本流の神様です。
疫病=大国主の祟りととらえれば、おのずと徐福2回目の来航が頭をよぎります。
さらにアマテラスと倭大国魂を外に出し、分けたこと。そこには分裂した出雲王家が関連しているのかもしれません。

徐福3回目の来航は九州に上陸。出雲の地に入れない徐福は北九州で勢力を拡大します。宗像家から妃をもらい、一族を繁栄させますが、最終的にその地で亡くなります。それを裏付けるように、佐賀や福岡には多くの徐福伝説が残っています。
この時の徐福の行動に僕は引っ掛かるものがあります。秦国から母親を連れてきているのです。栲幡千千姫(たくはたちちひめ)といいます。名前に幡の字が入っていますね。おそらく秦氏の系譜でしょう。それはさておき、なぜか3回目の来航で突如母親が出てくるんですね。このへんも応神とその母、神功皇后のエピソードに引き継がれている気がします。
さて、そんな応神ですが福岡の宇美八幡宮で生まれたと日本書紀では書かれています。

神功皇后は北九州で応神を産みます。そして徐福は3回目の来航で母親を北九州に連れてきます。これは偶然の一致なのでしょうか?
また同じ九州北部の大分に宇佐神宮がありますが、ここは全国に4万社ある八幡神の総本宮です。宇佐八幡宮託宣事件にもあるように、少なくとも奈良時代までは伊勢より格式の高い神社とみなされていました。もちろん主祭神は応神天皇です。
さらに北九州は秦氏、安曇氏、多氏、宗像氏など多くの古代史族の本拠地があります。物部氏の祖も宗像につながります。その上視点を九州全土に広げると薩摩隼人や阿多隼人、そして熊襲。古代民族の宝庫です。そもそも神武は宮崎から東征を開始しています。
応神天皇はこの国の歴史上、最後に神の名を授かった天皇です。応神以降、神の名を持つ天皇は現代に至るまで登場しません。それはつまり、応神天皇の代でこの国の根幹となる礎が築かれたと考えられないでしょうか?
日本書紀は最後の神の名を持つ天皇が北九州で生まれたと伝えます。それは徐福が最後に勢力を誇った地が北九州だったからではないでしょうか。

記紀が伝える3人の神の名を持つ天皇にまつわるエピソード。僕はこれらの文脈から、徐福の計3回に渡る来航を編纂者が暗に仄めかしている印象を受けました。

出雲口伝では九州の地に降りた天孫族とは中国から渡来した徐福の一団であると説明しています。徐福と一緒にやってきたとされる秦氏、あるいはのちの藤原氏が他の氏族をおしのけてこの島で実権を握っていく様を見ていると、十分納得できる見解です。
そしてそれをありのまま書くことができない記紀は、のちの時代の、別の人物の伝承に徐福3回の渡来と、その後にこの島でおきた出来事を盛り込んだのではないでしょうか。

ではなぜ、徐福の伝承を仄めかす天皇にこの3人が選ばれたのでしょう?
ここからは僕の考察になりますが、
神武、崇神、応神という3人の天皇は徐福一族の正当な後継者だったからでないでしょうか。
彼ら3人の共通点とは皆西の地に由来を持つということです。徐福も西からこの島にやってきました。そもそも出雲口伝では徐福の孫、村雲が記紀で言われる神武と暗に示していますから、残る崇神、応神も大陸に残っていた徐福一族の正当な後継者である可能性が出てくるわけです。だからこそ初代、10代、15代の天皇は崩御後に神の名を諱として与えられたのではないでしょうか。

この仮説が正しいとすれば、初代から15代までのごく短期間のうちに、徐福一族によるこの国の礎が固められたと考察できます。そしてその基盤を元に現代までの歴史が綴られているということです。

僕個人の見解を述べさせてもらえれば、徐福が築いたこの国の礎は、そろそろその役目を終える時期にきているように思います。
なぜなら徐福到来以前から、その遥か昔から長大な歴史と重厚な文化を、この島は縄文人とともに築いてきたからです。

徐福という天孫を迎える前の歴史。その記憶の方が遥かに膨大なのです。

この島に先祖を持つ大部分の人々には多かれ少なかれ徐福の血も出雲族の血も縄文人の血も、同じように流れていることでしょう。
つまり現代に生きる僕たちは、歴史に登場する様々な民族の血が入り混じる、いわば混血民族ということです。
血が混じるということは、すなわち遺伝子レベルでの記憶の増幅を意味します。

正史の裏に隠れた人類史は僕たちの記憶の中に眠っています。
口伝は王家の中だけで伝えられてきた伝承ではありません。
あなたの身体を流れるハイブリッドな血にも、その記憶が伝わっているかもしれません。


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