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行動思考術 旅人経営者の1年 #38

割引あり

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週1回できないことを、毎日の習慣にする

誕生日にはいつも、新たなことを始めたり、決意したりしています。38歳の誕生日には“有料メールマガジンのスタート”を、一大イベントにすることに決めました。

実は2年ほど前から始めるように言われていました。しかし、毎週とか、定期的に書くことの難しさを感じており、結局発行できないという最悪の事態を恐れ、「やるやる詐欺」に陥っておりました。

昨年の11月末、僕をずっとそそのかしてきた(まぐまぐ社長=当時=の)小森くんが、スケジューリングとか編集とかのサポートあればやるんだけどなーという僕の甘えに対して、「締め切りとか体裁とか言ってるといつまで経ってもできないよ。俺なら毎日書く」と言ってくれたのが目から鱗のオドロキ発想でした。

週一回できないことを、毎日の習慣にする。小森くんのこの言葉を聞いた瞬間に「できる!」と思いました。そろそろ締め切りだと焦ったり、何を書くかに悩んだりするのはかなりの時間がかかります。その時間に、日々メルマガを書けばいいじゃないかと。

そして、12月1日から2日に1回以上メルマガを書くことに成功しています。毎日の貴重な体験を記録できるので、自らの行動の価値も上がります。そして、それを受けて反応してくれる人の存在によって、出会いが増えるという効果もありました。

自分自身の壁を壊すのに、友人はとても重要な存在です。人と出会う数を増やすことは、自分が進みたい方向を明確にし、目的地への到達スピードを速めます(目的地は常にもっと前の方に移っていくわけですが!)。

2013/3/10


諦めず、できることをやるだけ

東日本大震災からちょうど2年が過ぎました。あらためて震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

あの日、僕は用賀にいました。前月から休業していた、自分で焼く立ち飲みBBQ「鳥獣giga」の店舗を使って一週間に一回のイベントのための準備をしていました。経営に行き詰まっていたので1円でも売上を伸ばす苦肉の策でした。

激しい揺れで恐怖を感じ、思わず外に出ました。運送会社のトラックが目の前でジャンプし、中から出てきた女性が駆け寄ってきました。ビジネスタワーが揺れでぐにゃぐにゃのコンニャクのように見えました。

鳥獣gigaは2010年のオープンから半年で閉店を決断しました。ほぼ同時に始めたコワーキングも、日本での知名度がなかなか上がらず、実は家賃をひたすら払っているだけの状態でしたが、欧州の人たちとのつながりを作ったことで必ず面白くなるという確信があったので事業を継続することにしました。

会社のマネジメントもうまく行かず、パクチーハウス東京も営業日が少ない1-2月は大きな赤字となりました。会社の資金もショートしました。3月に入るとやや好転。退職予定の社員の仕事を引き継ぐ人の採用が決まり、毎年恒例の誕生日パーティも大いに盛り上がりました。回復の兆しが見えたかなと思いました。

それまでは、「誕生日に近い土日」に僕自身の誕生日パーティをやっていました。スタッフから「平日でも集客できるでしょ」と言われ、10日の当日(木曜日)にパーティを行いました。例年なら12日か13日に企画していたはずでした。結果として、平日にたくさんの人に集まってもらえ、それまでの半年の状況を振り返るとものすごく勇気づけられました。

3月11日の金曜日に大震災が起こったとき、まだ前日のお酒が残っていました。被害状況がよく分からぬまま一旦自宅に戻り、報道を見て事態の大きさを痛感。2階にあるパクチーハウスに通じるエレベータは3日ほど止まり営業できない状況となりました。

会社を創って以来、最も大きな落ち込みを体験した直後でした。なんとかなるかな!と思った翌日の出来事でした。「もう止めちまえ!」という悪魔のささやきかなとも思いました。

これからどうなるか先の読めない中、僕自身もスタッフも、「何かをしていたい」という気持ちが時々刻々と高まって行きました。僕の座右の銘でもありますが、Something attempted, something done. つまり、「できることをやる」ことで事態を動かすしかないと思い直しました。

ガソリンが突然不足したため、通行する車の数が激減し、世田谷通りの空気がきれいになっていました。困難な状況でも希望はあるのだなと、身近なところで感じました。そして、自分が持つ資源をフルに使って行動していかねばと思いました。

「できること」はまず、パクチーハウスを動かすことでした。いろいろな人が交流するパワースポット的な存在を、開店以来ずっと目指しています。お客さんが一人でも来るならば、その人を勇気づけたいと思いました。

震災から10日間の予約はすべてキャンセルになりました。大きな余震の可能性も指摘されていたので、2階にある店舗で営業中に余震が起き、エレベータが止まるかもしれなかったので、経堂での店舗営業再開の判断は無責任だと考えました。そこで、閉店はしていたものの賃貸契約上、家賃を払い続けていた用賀の店舗を活用しようと決めました。鳥獣gigaがあった店舗は1階で、なにかあっても避難しやすい造りでした。

すぐにレンタカー屋に電話して軽トラを手配し、必要最低限のものを運びました。14日から営業を再開することができました。パクチーハウス用賀、一週間だけの臨時営業です。

この店舗の面積は、パクチーハウス東京の半分ぐらいでした。臨時店舗オープンの報を聞きつけて応援しに来てくれたお客さんと、「経堂はちょっと面倒」と思っていた用賀のお客さんが見つけてくれ、なんと毎日ほぼ満席になりました。メニューは減らしたものの、パクチー料理をいろいろな人に食べてもらい、また、鳥獣gigaのコンセプトである見知らぬ他人とBBQをしながらの交流が、ものすごくうまく機能しました。

「1人で家にいるのは不安だったので開けてくれてありがとう!」
そんな言葉を多くの人から頂きましたが、勇気づけられたのは僕の方でした。1週間、さまざまな情報収集をしながら用賀での営業を続け、つぎの月曜日にまた軽トラを借りて用賀から経堂に戻りました。

追パク(パクチー追加)無料というパクチーハウス最大のウリを破って、追パク一回につきお客さんから100円・店から100円を被災地に寄付するという「追パク募金」も用賀での営業中に始めたものです。経堂に戻った夜、お客さんの有志が店にいるすべてのお客さんとコミュニケーションを取ってくれ、パクチータイム(8:09)に店にいる全員で追パクをするという企画をやってくれました。店中に響き渡る「追パク」の声を聞いたときは涙が出そうになりました。

震災からの10日間の行動とそれにより起きたことは、その後の僕にとってとても大きな影響を残しました。自分の専門分野や自分しかできないことをやり続けることの大切さを学びました。起業したときの気持ちがこのときの体験を通して強化されました。それまでは、ユニークなことをしようと思いながらも、他人の反応を気にしすぎていたと思います。信念を貫けるようになったのは、おそらくこれ以降のことです。

この月の末には、予定通り、自分の口座も底をつき、資金ショートしました。初めての消費税支払いもちょうど重なっており、もうお手上げでした。しかし、なぜか冷静で居続けられ、キャッシュフローの意味を痛いほどよく理解することができました。

月末を家賃滞納など(不動産屋におそるおそる電話したら「震災で大変だったって大家さんに言っておきますよ〜♪」と明るく電話を切られ、税理士に相談したら税金の延滞金発生のスケジュールについて教えてもらった)でなんとかやりすごし、4月から平日昼間は一人でランチタイム営業を開始。昼も夜もお客さんと話す機会を持てるようになったので、不安の時期を過ごしているたくさんの人の意見を聞くことができました。

なぜか被災地からの帰りにパクチーハウスに来てくれるひとがたくさんいました。僕自身もその後、人の縁で東北大学医学部のボランティア支援をしに行ったりして、現地の様子を見ることになりました。

まだそれから2年なのだなぁと書きながら改めて感じました。今日は2年前と同じように二日酔いに苦しみつつ、震災直後にやったいろいろなことを思い出していました。

2013/3/11


諦めない姿勢が組織をつくる

先輩経営者の鬼頭宏昌さんが、メルマガでちょくちょく心に残る言葉をくれます。今日のメルマガに書いてあったことを引用してみます。

顧客の満足、そして自社のミッションに対して
決して諦めない姿勢を持つことで
多くの人たちに愛される会社になっていきます。

経営者は、みずからのミッションを
従業員と共有し、理解してもらい、動いてもらう
ということに対して、諦めてはいけないのです。

単純にコミュニケーション量を増やすことと、事業の意味を語ること、感謝することが重要とも書かれています。当然のことでありながら、いろいろなことに忙殺されて結局できていないことが多いことでもあると思います。

ミーティングの機会を増やしても、日々解決できる課題を話すだけで終わってしまうのです。そのミーティングは絶対に必要なのだけど、十分ではないですね。コンセプトにそって動いてもらうことは何とかできたとしても、コンセプトを理解してもらうことは必要なことをしているだけでは難しいと感じています。

先日スタッフを連れて(ミステリーツアーで)釜山へ行ったときに、フェリーでの移動をわざわざ選んだのはコミュニケーションの時間を長くとることでした。でも、帰ってくるとやはり日々に忙殺されます。

というわけで、週に一度ぐらい、「議題を決めずに」「お茶を飲む」時間を今日から始めました。そんな日にこのメルマガを読んだので、深く納得したのでした。

ちなみに、鬼頭さんと出会ったのは、僕の高校時代からの親友で外食コンサルをしている長崎ちゃんぽん君からの紹介でした。パクチーハウスをオープンする二ヶ月前、不安なままいろいろな人の話を聞いてみようと思って西新宿のトルコ料理屋で会った日のことをよく憶えています。

外食のプロにいろいろ質問して、自分なりに安心を得ようと思って会ったのですが、彼が話してくれた理論が不勉強で全く理解できず。そしてパクチーに特化する意味合いをきちんと説明できず、共通の言語を持っていないぐらいの感じで何もなく終わってしまいました。

鬼頭さんが書いた本も事前に読んだのですが、最初はその本の何がいいのかが全く分かりませんでした。しかし、店の経営を始めてみると本質をついたすごい本だということに気づきました。

店の経営を始めて10ヶ月ほど経った頃、初めて仕込みの時間に抜けさせてもらって、鬼頭さんの勉強会に参加しました。そしてようやくパクチーに特化することによる価値を、ほかの外食経営者に説明して面白がってもらうことができ、また、お客さん同士のコミュニケーションやネットを使った対話の延長戦略について話させていただきました。

少し変わった切り口の経営についてお話したこともあり、鬼頭さんがその次に出した本に事例として紹介してもらいました。
『小さな飲食店 開店・経営 儲けのバイブル』( https://amzn.to/3OHoz3Z

その後も勉強会に参加したり、東京に来た時にたまに声をかけてもらって一緒に飲んだりしています。

2013/3/14


Yellow Yellow 誕生前夜

友人のデザイナー・Oさんが変人ぶりを発揮し始めました。つまり、面白いことをし始めましたwww

Oさんは以前から黄色をコンセプトに活動すると言っていましたが、今年になって黄色への完全シフトを決め込んだ模様。原宿で“黄色をコンセプトにした展示”を開始しました。

紹介のために展示の名前を書きたいとついつい思ってしまうのですが、どうやら展示に名前はないようで、「この展示も、今後僕が手がける作品も黄色であること、そしてそこに何も説明や言い訳がないことが僕であることを示している」と教えてくれました。

開催場所は原宿駅からほど近い、明治通り沿いのアウディの裏ぐらい。BlockHouseという建物の1Fです。近くに行けばあまりに黄色いのですぐ分かります。いろいろな黄色が集まっています。会期が終わるまで、どんどん黄色くなって行くそうです。

展示会のチラシがまたすごい。真黄色の下地に白で文字が書いてあります。初めて渡された時、ものすごく読みにくくて、一生懸命見てもほとんど見えなくて、そこまでしてでも「黄色を邪魔しない色しか使いたくない」と言うのでほんとうにすさまじい人だと思いました。

しかし、驚いたのは彼の説明をよく聞いてから。黄色様(Oさんはその存在から操られているらしい)は太陽が好きで、だから太陽の光がよく入る建物で展示をしているとのこと。そして、さきほど「読みにくい」と書いたチラシを、太陽の下で読むと字が浮き出てくるのです。屋内で見てなんだこりゃと思ったらその価値がわからない、という仕組み。

子どもや動物は、前を通るだけで、激しく反応するそうです。大人は変人の要素を持っている人しかなかなか入って来ないとか・・・w

2013/3/15


マスメディアとソーシャルメディア

NHK『コネクト』のソーシャル特集で、シャルソンが取り上げられました。2月24日に開催した「世田谷シャルソン」で、サッシャさんが体験レポートしてくれました。放送の翌日なので、僕はいつものように朝からtwitterで「シャルソン」をキーワード検索。感想を書いている人のツイートを拾いました。

マスメディアの効果は大きいと思いますが、おそらくその効果は日に日に弱まっていると思います。起業する前は、テレビとか新聞に取り上げられると大変な人気店になるのではと錯覚していましたが、実はそうでなく、超限定的に人があふれ、お客さんの層が荒れてしまう可能性が高いです。

「〇〇に出ると店が潰れる」という言われ方をされるメディアや番組がありますが、それはその影響力の大きさに対応力が間に合わなかった場合に生じる現象です。取材を受けたこと自体が、経営判断の間違いだった、ということかもしれません。

テレビなどで取り上げられる効果が年々下がっていると僕は確信しているので、それをソーシャルメディアで補完するといいと思っています。

テレビに出るというのは、一時的にものすごく有名になると言ってもいまだに差し支えないと思います。ただ、たくさんの番組があり、たくさんのことが紹介されるので、番組が終わった瞬間からどんどん忘れられていきます。

CMを出しているような全国展開の店や規模が極めて大きいところは瞬間的な露出がそれだけで価値を持ちますが、パクチーハウス東京やPAX Coworkingのように、マニアックな小規模店舗は、それで人が押し寄せることを期待してもしょうがありません。

テレビの影響力が極めて下がっている理由には、それ以外のメディアの発達がありますが、ソーシャルメディアというのは、零細企業にとって顧客との接点を持つのに極めて適しているので、こういうメディアが発達したことはとてもラッキーだと思います。

テレビの放送に合わせてキーワード検索すれば、それに関心のある人と接点を持つことができます。パクチー料理専門店に関心のある人には「来てくださいね」と営業することもできますが、パクチーの栽培を提案して種を差し上げたり(厳密にはパクチー銀行だから貸付なんだけどw)もできます。とにかく、僕がしていることに関心のある人と、一言でも二言でも、お話ができるので、それが喜びです。

僕が会社を作ったのは2007年。twitterもFacebookも存在しましたが、ユーザーが少なすぎてまだそういうことができる状態ではありませんでした。mixiが集客のメインで、しかし、事後的にしかネットを使ったコミュニケーションは取れませんでした。そのとき、手探りで飲食店経営を始めた僕は、来てくれた人一人ひとりと、注文のやり取り以外の話をするというのを目標にして語りかけるということをやっていました。直接話すことによって、店舗運営上至らないところがあっても、コンセプトなど知らず相席その他気にくわないことがあっても、考え方を伝えることで理解者を少しずつ増やせると思ったからです。

twitterをかなり早く取り入れることができたのは、それ以前にやっていた一対一のやり取りを「店にいない人とも」できることに気づいたからです。潜在的なお客さんやすでに帰られたお客さんとお話もできます。使い始めたのが店のシフトにに入る回数を減らした時期にちょうど重なるのですが、店にいなくてもお客さんと接点を持つことができました。

マスメディアの効果は、こうした接点を増やしてくれることにあります。放っておくと自然消滅するものなので、効果を期待するならば、その後自分たちで動く必要があります。

一対一でのやり取りです。「そうすれば、その人は来店してくれるんですか?」 答えはほとんどの場合NOです。でも自分たちの姿勢を評価してくれる人が少しはいると思います。そして、それを一つずつ積み重ねるしか方法はないです。

効果の見えない作業なので、経営者でも辛い作業と思うかもしれません。経営者にやらされている従業員ならなおさらでしょう。でも、それをする目的は「お客さんに話しかけること」なので、そこに直接的なメリットを求めることは正しくないですよね? 話しかけてくるのはすべて追加注文を受ける意図があるとミエミエの店に行っても、全然面白くないですよね。

2013/3/27


海外に年100日

親友・小森くんといつものダラダラ飲み。彼からの一つの提案に刺激を受けました。

「お前ら、海外に年100日ぐらいいた方がいいよ」。

会社を作ってから、「もうそんなに旅ができないでしょ」と色々な人から言われ(て悔しくて)、自分が移動しなくても旅人がやってくる状態をパクチーハウスで作ると強弁し、「移動しない旅」という言葉を編み出しました。旅での重要なことは人と出会うことなのだから、飛行機や列車で移動しなくたって、旅人がやってくれば旅(と同じこと)ができるという、真実でありながらやはり強がりから産まれた言葉でした。

とはいえ、年1回か2回、機会を作って外に出かけると、それにより受ける刺激と得られる情報、思いつくアイデアは起業する前の比ではなく、移動すること=それまでと違う流れの人に会うことにより、世界が飛躍的に広がって行くのは確かです。だからこそ、今年は回数の目標として4回以上海外に行こうと決めていました。

そこへ小森の「年100日発言」です。
本当にやんちゃなヤツです。でも、彼自身、場所にとらわれない働き方をすると言い始めてから実際いろいろな場所に行って、結果として米国でビジネスを立ち上げるということで、ビザの苦労もしつつかの地で語学ダイエット(不慣れな英語を使いすぎて心労で痩せた)に成功するほど頑張って、しかもその間いろいろなところに旅しています。

職種が違うし、動きやすいという言い方もできるけど、そこには彼の意思があります。それなしでは、そういう状況にはなりえません。

会社を作って6期目ですが、最初の事業として始めたパクチーハウスは、放置しておいて何とかなる状態ではまだありません。PAX Coworkingはもっと、手離れするのには時間がかかりそうです。でも、「いつかそうしたい」じゃダメだろうと強く思いました。

海外にいることによって起こりうる価値の話を、小森くんは滔々と話し続けてくれました。僕のような発想のビジネスをするならなおさらだと、酔いが回る頭の中をシャープに突き刺してきました。

「どうすれば?」
分かりません。が、結果的に年100日ぐらい海外にいることができれば新しい世界が開けるのは間違いありません。

そこに向かって邁進します。

2013/3/31


小学校入学

息子が小学校に入学した。

幼稚園に入ったときは母親からほとんど離れていなかった息子がどう適応していくのか心配しながらのスタートだったが(実際は初日、「バイバイ」と言ってあっさり幼稚園に入って行ったのだが)、幼稚園生活でたくさん友達を作ったし、ずいぶんひとを笑わすようなキャラクターにもなったしで、今回は成長を信頼を持って見守れる感じがする。

まだ通学路が難しそうだが(大通りを避け住宅地の中をクネクネ進むので僕もまだまっすぐ帰れるか自信ないぐらい、笑)、「最初のうちはみんなで帰るから大丈夫だよ」という感じのことを本人が言うぐらいだし、寄り道して遅くなって心配する日もそう遠くないだろう。

僕は小学校に入ったとき、自分で何でもできると思い込んでたから、きっと彼も同じような気持ちだと思う。自信を持って頑張ってほしい。

僕は息子が生まれることが分かって、そのことを色々考えた結果、起業しようと決めた。誕生から6カ月ほど遅れて会社を創り、これまで何とかやってきた。「子どもと同様か、それ以上に成長し続けたい」とずっと思っているけど、ほとんど目も見えず自分で動けない状態から、大きすぎるランドセルをしっかり背負えるようになるまでの成長を、僕はしたのだろうか。

入学式で、6年生代表のスピーチを聞いた。しっかりしているし、子どもを預ける価値があると安心させるものだった。たぶん中でも出来のいい子が選ばれているのだとは思うけど、それにしても6年という月日で、こんなにも成長するのかと思うと驚く。と同時に大きな期待を抱いている。

改めて、僕も子どもと同じぐらい成長できるよう、努力を続けなければならないと決意した。そして、それを支えてくれる皆さんに感謝しよう。

2013/4/8


つまんないことを「つまんない」と言う

昨日、PAX Coworkingで『インバウンド・マーケティング』の読書会があり、終了後に東京ノマド営業所の堀江賢司さんと、数カ月後に華麗な転身をすることが決まっているYさんともつ焼き屋さんで飲みました。

いろいろ話をしたのですが、印象に残ったことは標題の通りで

つまんないことを「つまんない」と言う

同じ会社の同期で限られた世界しか見ようとしない人のネガティブな愚痴や、昔から「やり方が決まっている」から変化させようとしない地域の寄合などの会合で、空気を読みながら時を流してしまうのではなく、(そのときは一瞬雰囲気が凍るかもしれないにしても)感じたことを言う。

これを堀江さんが実践したという話を聞き、「やるな」と思いました。僕も商店街の会合などで状況に流されるままになっているので、なんとか打破しなければと思います。

これをすることによって、「時代の変化」と言いうる大きな変化で皆で共倒れになる前に、それぞれが自分の立場に気づける。そして、変化を起こそうとする動きが出てくれば、その場所はもはや「つまんない」ことはないでしょう。

会社を創ったり、新しい仕組みを作ったりすることは面白いし、大切だと思いますが、自分のすぐ近くにあるコミュニティを変化させる努力も絶対必要ですね。


起業のきっかけ

最近では、学生起業という言葉をよく聞くようになった。僕が大学生のときは、起業どころか就職もしたくないと実は思っていた。「自分で会社を作る」意識は全くないのはもちろん、会社って自分で作れるんだ、とちゃんと認識したのは会社員時代だった。

予備校〜学生時代

自分で会社を作るとか働きたい意識は大学生時代にはなかったが、後から振り返ると4年間でサークル的なものを4つ作っていた。いろいろなきっかけがあって、組織やチームを作るのが好きになったのかもしれない。

ちなみに、その4つとは
(1)家庭教師派遣サークル
(2)旅とアート、スポーツに関するフリーペーパーを発行するサークル 
(3)海外放浪ネットワーク「BEEMAN」
(4)日本・イラン友好協会
です。

また、現在につながる「飲み会」を始めたのも学生時代だ。初めて飲み会を開いたのは、それ以前・予備校時代だった。

夏休みの模試の後に飲み会を企画したところ、80人クラスで60人が参加。駿台の東大クラスというところに所属していたのだが、僕は京大を目指していたので、「東大模試」には興味がなく、しかしクラスのほとんどはその模試を一つの目標にしていたので、その模試のある2週間前ぐらいから誰も遊んでくれなくなった。

面白くないのでそれが終わった日にみんなで弾けようよと提案し、ほとんど飲んだこともない酒を飲みに行こうと、チェーンの居酒屋を予約したのだった。

場を仕切るという感覚は全くなかったのだが、模試から開放された予備校生たちの弾けっぷりは半端なく、ものすごい盛り上がりとなった。企画してよかったなと思った。その後同様のことをやるとは思いもしなかったが、後から振り返るとこれが最初の成功体験だった。

大学に入り、入学式の直後に上回生が「茶話会」というのを開いてくれた。僕は京大の総合人間学部の2期生(1期目は受験失敗)。1期生が大学に入ったとき、先輩もおらず、よく分からないまま学生生活を始めたことを踏まえ、後輩が少しでも早くなじめるようにと企画してくれた会合だった。その後に有志で飲みにも行った。

知り合いが一人もいない状態でのスタートだったので、この茶話会は非常にありがたかった。1年が経ち、今年は誰がやるんだろうと無責任に思っていたら、誰もやろうとしていないことが分かり、これは大変だと急遽茶話会の幹事を買って出ることにした。人前で話すのは大の苦手だったが、授業の前の数分を教授にいただいて、入学したばかりの3期生に茶話会や飲み会のことを伝えに行った。

前年の「助けられた」という強い感覚があったので、このとき動けたのだと思う。これをやったことで「主体性のある人」「飲み会を開く人」「仕掛人」みたいに誤解されるようになった。

飲み会を開くことによって起こる結果は面白かった。いろいろな人が「つながる」ことが分かった。酒を飲むこと自体も好きだと気づいた。

いつしか、誰も仕切る人がいそうになければ(大抵いない)進んで手を挙げるようになった。自分でも多くの人が集まる会合などを企画した。

しかし、人前で喋るのはどうしても苦手だった。だんだん一言では説明のつかないぐらいさまざまなジャンルの人が集まるようになったので、最初の乾杯で簡単に趣旨を説明したり、雰囲気づくりをしたりする必要があったのだが、その一言をいうだけで、緊張のあまり手が震えた。

学生時代に飲み会主催者をずっとやり続けることになったのは、旅先での出会いをその場で終わりにするのではなく、継続させるためにどうすればいいかという問題意識が生じたからだった。

会合を開くたびに驚くべき人のネットワークができたり再会が起こり縁が復活したりすることが面白かった。だから、自分が苦手な「仕切る」行為を続けることができた。開催することを期待する声が増え、それに応えるという形で、僕は知らず知らずのうちに体験を積んで行った。

会社員となり、飲み会を外に「開いて」みた

その後、会社員となりまた東京で新しい人間関係を作ることになったとき、そして、生活の中心が会社での時間になったときに、僕が積んできた体験が活きることになる。

会社に入ってから、仕事をする一方、東京で知り合いを増やした。実家にいたころの知り合いや旅先で会った人、学生時代の同級生で東京に来ている人も多かったので、ほぼ毎日誰かを誘って飲みにいった。夜は基本的に予定を入れていたので、急に同僚や上司から「飲もう」と言われても「先約あり」でお断るすることが多かった。

しかし、いつも断るのも悪いなと思っていたので、ある日、すでに約束をしていた旅関連の友人を、会社のメンバーとの飲み会に加えるという形にしてみた。友人は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに快諾してくれた。

会社など同質な組織での飲み会は最終的な愚痴になることが多い。しょうがないと思う反面、どうにかしたいと思っていた。仕事にはいい面と悪い面がある。でも最終的に100%悪いみたいな話になっても誰も得をしない。面白くもない。いない人の悪口に発展(衰退か?)することもある。会社の飲み会は、残念ながら、そうなりがちである。

そこに部外者の人が来ると状況は一変した。自分たちの組織が持つポジティブな面を強調する(実はいいところを見せたい)。そして、飲みの席のぶっちゃけトークとして、これから改善すべき事柄を話す。つまり、現実に近いバランスで話が進み、かつ最終的にポジティブな結論が引き出されたのだ。発想の生まれ方という観点で、非常に参考になる出来事だった。

パクチーハウスで絶対に閉じた個室を作りたくないと思ったのも、コワーキングスペースを開けた空間にすることでいい空気感ができるとやる前から確信していたのも、こうした経験が背景にある。関係者以外がそこにいることの価値。

起業はカッコイイが、自分はそのタイプではない

富士通を辞めるとき、なんとなく起業したいと思っていた。が、辞めてからいろいろ考えてみたら何をしたらよいかよく分からないかった。単にミーハーな気持ち、ファッションで起業したかったのだと思う。具体的にビジネスを頭で考えて登記することにまでしたのだが(定款や印鑑もつくり、公証人役場まで行ったが登記をしなかった)、自分がそれをやって楽しいのかと考えたらうんざりして止めた。

自分は起業家向きの人間ではないとそのときは思った。

大学時代の友人の会社であるリサイクルワンの創業期に2年半ほど手伝いをし、身近で起業家の姿を見ているときにその思いは強くなった気がする。創業まもない頃から、人を徐々に増やすステージを経て、さらに大きくなるという頃、自分は起業とは縁のない人間と認め、「旅」で生きていく方法を改めて探るため、同社を離れた。

そして、シルクロードを通る3度目のユーラシア大陸横断。キルギスで中国の外交官が射殺されるという事件が1キロほど先で起こったとき(知ったのはネットニュース経由)、周りにいた旅人たちといろいろ議論して「旅と平和」というキーワードを思いついた。国境をいくつも越えて、いろいろなタイプの人に会い、文化を知っている人たちが世の中を動かせば、世界はもっと明るい方法に変わるんじゃないかという漠然とした思いだった。

この思いをきちんと消化し、旅人としてのレベルを一つ上げるために、これをアカデミック論文にまとめることに決めた。そしてイギリスの大学院に行くことを選んだ。

旅人という立場で考えるという前提で大学院に入り、そういう立場から国際機関やNGOに入るんだろうなと漠然と思っていた。幸い、大学院には毎週のようにそういう分野で働くプロフェッショナルが来てくれていた。

そして何人にも話を聞いていて、それぞれの成果はすごいのだけど、このままでは世界は変わりそうもないなと思った。

同じ専攻に130人の学生がいて、世界のいろいろなところから来ていたが、そのうちちょうど1割にあたる13人が日本人だった。そんなにたくさん日本から学びに来ていることを、事前にリサーチなどしていなかった僕は全く知らず、驚いた。そして、イギリス全土にいる日本人の数を考えると、それなりの勢力だなとも。

でも逆に、こういう場所に来ないどころか、来ることすら考えない日本人もたくさんいる。旅をしようともしない人もたくさんいる。僕は旅人で、イギリスの大学院にまで来たけど、だからそのまま海外のフィールドで働くのが本当にいいのか。一つの道としてはありうることだけど、僕はなぜか、すでに自分と同じように動く人と道を同じくするより、そんなこと思いもしない人を、1ミリでも動かすことが世界を動かすことにつながるのではと思って、日本で仕事をすることを決めた。

起業を強く意識したわけではないけれど、今から振り返ると、イギリスで英語が難しくて悶々としつつ、いくつかの「ビジネスプラン」めいたものを書いた。世界を変えるためには、今「ない」ものを生み出すしかないのだと、なんとなく思っていたのだろう。

子供ができる

イギリスから日本に帰り、結婚し、日本で生活をしていたある日、「子供ができたみたい」と妻から告げられた。僕にとってそれは大変な驚きであり、自分自身が父親になれるような人間なのかと思ったけれど、夫婦となったことで生じた結果のひとつとしてそれを受け入れた。

子供から見てどんな親でありたいかと考えた時に、ため息をつき、仕事の愚痴を言うようなことはあってはならないと思った。毎日、楽しくわらいかけたいと思った。子供の成長スピードはすさまじい。僕は、子供と同じように成長したいなと思った。

自分が唯一無二の人間でありたいと思いながら、旅も仕事もやってきた。子供に見せる背中は、どこにでもあるようなそれではいけない。自分ならではの経験、自分にしかない発想を活かして、子供が生きる未来のために新しい世界を作るべきではないか。そう思った。

起業家に向いているか向いていないかではなく、起業することが唯一の道だと、息子の誕生を前にして確信したのであった。


なぜ、飲食業から始めたのか

起業しようと思ってから、約半年間「なにをしようか」を考え続けた。旅と平和をテーマに、自分のそれまでの旅のポジティブな側面を、日本の状況に合わせるのではなくそのまま持ってくることで、閉塞した日本を打破できるのではと考えた。

いろいろな国を見てきたのだから、その体験を活かしたいと強く思っていた。組織の中で嘆いたり批判するだけでは何にもならないと社会人生活を経て確信したので。

半年間考えたにもかかわらず「これ!」という事業は決まらなかった。自分の主張をゆっくりと伝えるために、リラックスした雰囲気で話を聞いてもらう場の必要性を感じていた。予備校時代から宴会の幹事が得意、というかずっと継続している唯一のことだったので、飲食店を利用してパーティをしてアイデアを伝えられないかと考えた。自分が気に入って利用している店や雰囲気はいいけどあまりお客さんが入っていない店の、集客を支援しながら、月に2回ぐらい使わせてもらえないか。そんな厚かましいことを事業化の端緒にしようと思った。

ただ、僕は飲食業のことは客としての立場でしか知らなかったので、こちらの意図を伝えてお互いウィンウィンの関係を築ける提案をするため、飲食店経営についての本を読み漁りました。そして、実際に飲食店を訪ねるなどして、意識して話しを聞いてみた。

そこで気づいたのが、日本の飲食店の「常識」が世界のそれとかけ離れていることだった。本を読めば読むほど、「現実」の話を聞けば聞くほど、僕ならこうするというアイデアが浮かび、ある日急に「人の場所を借りてやるよりも自分でリスクを負ってやった方がいいのではないか」と、ふと思いついた。

カフェや居酒屋を自分でやりたいと思ったことはそれまでなかったので、自分の頭の中からこういう発想が出てきたことに自分でもびっくり。しかし、起業しようと決めてからビジネスの内容がなかなか決まっていなかったので、仕入れて作って食べてもらう現金商売の飲食店は、資金回収の悩みなども少なそうで、経営未経験者にはやりやすそうだなとも直感した。

そして、食に関して僕が持っている強みは、日本パクチー狂会発足以来2年ほど研究していた「パクチー」(のみ)。食材に特化すれば話題性もあり、数年ぐらい注目を集められるかなと予想した。そして、その数年のうちに、僕の宴会スタイルを応用して“交流する飲食店”という概念を築き上げ、自分の会社らしい事業にしたいと決意した。


コワーキングカンファレンスの発展

コワーキングに関するウェブマガジン「Deskmag」が世界のコワーキングカンファレンスの潮流についての記事を載せ、「Coworking Asia Conference in Tokyo 2013」についても書いてくれた。

アメリカでもヨーロッパでも開催地を変えつつ、このようなイベントが定期的に行われるようになってきている。日本では関西で始まり、半年ごとに関西と東京でという行われてきた。9月のカンファレンスでは一気に対象をアジアにまで広げ、ホスト国も持ち回りにできるようなチャレンジにしようと有志で決定した。

コワーキングスペースはそれなりの数ができ、単語としての認知度も上がってきた。次のステージとして、より幅広い層がコワーキングという発想を取り入れて、仕事の仕方や人生の在り方を変えるべきときが来ていると思う
(そうしないと、コワーキングの未来も、いわゆる大企業の未来も危うい)。

来月、ある大企業での職場改革のために、コワーキングの発想がどう生かせるかについてお話させていただく。企業内での新しい動きを作るのと同時に、全部ではなくごく一部(数%)でも、企業人がコワーキングスペースに立ち寄り、情報交換したり新しいアイデアを会社に持ち帰ってそれを実行することを願って止まない。そしてそうした接点から、小規模事業者が大きな会社と一緒に仕事をし、思い込みや枠組みを壊す結果になれば双方にとってメリットは大きい。

コワーキングというのは、あるクラスターの人だけがやるものではない。もちろん、コワーキングを日常の職場として使う人は、フリーランスであったり、オフィスを持ちたくない小規模事業者がメインだ。そこに企業人がふらっと訪れたり、たまには会社の会議をさまざまなタイプの人がいるコワーキングスペースに移してやったりするだけで、安価で手間もかからない業務改善への第一歩が踏み出せると思う。

2013/5/23


パクチーはメディアだ!

28日(火)に明治大学の情報コミュニケーション学部の「メディア方法論」で1コマ講義をさせていただいた。飲食店のソーシャルメディアの使い方などで話しができないかと依頼を受け、その話も含めつつ「事業全体がメディアだ」ということで話すことにした。

講義のタイトルは、
「パクチーはメディアだ! すべての事業をメディア化する 株式会社旅と平和の事業戦略」にした。

「パクチーは好き嫌いがはっきりする」と言われがちな部分が、旅の候補地としてのインドに似ていて、それゆえにパクチーはブランディングがしやすいというのが8年前に「日本パクチー狂会」を作ったときの僕の直感だった。それまでに10年ほどインターネットでコンテンツ配信をしていたが、テクノロジーの進化でアクセス解析が自分で気軽にできるようになったときに、自分のサイトを見てくれている人の数の少なさに愕然とした。友人とパクチーを食べるパーティをした後、そのときの会話の中からパクチーのキーワードとしての可能性を感じ、ウェブサイトを作るとともに、パクチーをメディアとして使い始めたのだ。

同時に「paxi」というスペルも作った。すでに自分自身のテーマとなっていた「旅と平和」を絡めて「pax」(平和)と「i」(旅人)とを組み合わせて完成させた。当時はパクチーで起業するなど夢にも思っていないのだが、このときに決断が今にまで大きな影響を与えてくれている。

講義では、プレゼンテーションにPreziを使った。前から使ってみたいと思いつつ、なかなかその機会がなかったり、あっても直前の資料作成のため使い慣れたパワポで済ましてしまっていた。構成をきちんと考えないと難しい。まだその考えるノウハウもない。でも、作っていて楽しかった。ワクワクするツールだと思った。

しかも、そのことをシェアしたものをPreziの日本担当者が見つけてくれ、翌日にはカリフォルニアと東京でSkypeで話すことができた。こういう動きがすぐにできることが面白い。オーストリアのruntastic社と業務提携したときの感じに似ている。先方に僕がこれまでやってきたことを紹介し、これから
やろうと思っているウルトラ・シャルソンでPreziを使ってみたいと話しをしながら思った。きっと面白いコラボになるだろう。

講義をしている際の、学生の反応は予想以上に薄く、途中で心配になった。あとでもらった感想レポートには「面白かった」「ワクワクした」「驚いた」というものが大半だったのでホッとしたが、そんな感じには見えなかった。僕は講義慣れしていないので聴衆の雰囲気に大きく左右される。もっと反応してくれるとしゃべる方も2割増しぐらいで面白いことを言えると思う。特に、僕のビジネスの大半はダジャレでできているのに、雰囲気の中でダジャレはほとんど出せなかった。それでも楽しんでもらえてほっとしたが・・・。あとは聴衆を早い段階で惹きつける技術みたいのも学びたいな。

大概の講義は淡々としたものが多いので、異色だから反応に困ったのではと、同じシリーズで講義をすでに終えたYさんに言われた。内容が異色なら、つかみも異色で雰囲気を持っていかなければね。

2013/5/30


なぜ走るのか?

僕は長距離走が苦手で、マラソン大会が大嫌いでした。短距離走は中学に入る前ぐらいからクラストップぐらいで走れたので、負けず嫌いもあったのでしょう。横っ腹も痛くなるし、どんどん抜かされるし。だから高校を卒業してから、ほとんど走ったことはありませんでした。

33歳ぐらいから、お腹の脂肪が気になり始め、ウォーキングしたりジムにお金を払ったり(ほとんど行く気がしなかったので、通ったというよりは単に支払ったという感じだった)したのだけれど、そうした活動をした1年間で体重は5kg増えた!

周りにランニングをしている経営者が何人もいたが、「何が楽しいのか意味がわからない」と、やるまでもなく否定していました。そんなとき、友人の渡邉裕晃さんが、ウルトラマラソン完走者の話を聞く会をパクチーハウスで企画してくれ、100km走るためのテクニック(工夫)や、フルマラソンとの違い(フルまではトレーニングすれば誰でもできる、100kmは体力だけでなく知恵も使うetc...)などについての話を聞き、とても魅力を感じました。

そしてその直後、いきなり10km走りました。

走り終わった瞬間ぐらいから、全身筋肉痛になりましたし、思ったより速く走れない自分に愕然としました。しかし、速く走れないということが自分にとって快適な速度があることの発見につながり、身体中が痛くなったにもかかわらず、「気持ちよかった、また走ろう」と思ったのです。

その後、時々走るようになり、さらに、前述の渡邉さんが「朝走って集合し、ビール飲む会でもやりませんか」という企画を持ちかけてくれました。走る経営者の先輩である養老乃瀧の矢満田敏之さんを誘って、3人で「朝ラン&ビールの会」を始めたのでした。

酔狂なことは好きだし、朝から魅力的な人たちと話ができるので、それに参加できるよう走る練習をしたという感じでした。最初は家から5〜6kmのところでのイベントだったのですが、参加者が増え、集合場所がスカイツリーや羽田空港に・・・(笑)。それに向けて走る距離も自然に伸びていったのです。

そして、どうせ走るなら世界で最も酔狂な大会に出よう! と思い、ちょうと友人の小森くんに誘われた「メドック・マラソン」に行くことにしました。そのおかげでシャルソンなどのイベントも思いつくことになりました。

2013/5/31


3rd Glocal Cialthon 完了!

6月1日から6日まで行っている「89km running for PAX (3rd Glocal Citlthon)」、本日無事走りきりました。4日目の朝に達成するというなかなかの早さ。今晩、パクチー・ランニング・クラブの定例会があるのでそれまでになんとかしたいと思っていたのですが、千葉中央シャルソンや大井町近辺へ出かける用事がちょうど入っていたので、無事走りきることができました。

6月1日から上述のパクチー・ランニング・クラブの会合が始まるまでが約89時間なので、それまでに達成してやろうと決意しました。身近なところで89を見つけまくるのが僕の原動力になっています。

初日は日が変わってすぐに走り続けました。5月31日にパクチーハウスのシフトに入っていたので、帰宅ランでスタートしようとは決めていましたが、調子がいい気がしたので、最初の目的地を駒沢オリンピック公園に決めましたた。オリンピック停戦(エケケイリア)という言葉もあるし、PAXのためのランとしてはちょうどいいと思ったからでした。

4日間、自宅と経堂の移動も、もちろんランニングで移動しました。汗をかく、着替えをどうするかなどの問題はあるが、梅雨の晴れ間はさわやかで、ギリギリ大丈夫な環境でした。月100km走るのは結構大変ですが、通勤などの移動をすべてランにすると、余計な時間をかけずに走ることができます。僕の場合、もしそうすれば月180kmにもなるのです。

今回は目標を決めて走りきったが、自身の目標だけでなく、各国の参加者が高いモチベーションで走りまくっていることがさらに励みになった。朝起きてイベントページを見ると、世界のどこかで誰かがランニングの報告をしているのです。

それぞれの人がこれから89kmを走りきったり、その人なりの89を達成するのが楽しみです。

2013/6/4


千葉中央シャルソン

千葉の中心部で6月2日、千葉中央シャルソンが開かれた。

横浜シャルソンの仕掛け人・山名さんのスマートドライバーつながりの増田健二さんが主催。この地域で宅配をしている人だけあって増田さんのネットワークの生きるあたたかいシャルソンとなった。

集客人数や給○ポイントの数、場所など、何度も打合せをしに来てくれたので、これまでのシャルソンの経験を踏まえたバランスのいい配置・数となっていた。約1か月前にすぐ隣の幕張でシャルソンが行われたばかりだが、両方に参加する人が何人もいたり、主催者が相談し合ったりと地域同士がつながるいい感じの関係ができていた。

ここ最近、シャルソンが繰り返されているので、参加する人はもちろん、そのキーワードに注目する人も増えてきたみたいだ。「千葉来てるんだねー」というように連絡をくれる人がいたりした。また、千葉のコワーキングスペース201の佐々木さんはruntasticのライブトラッキング機能を見た上で、僕のことを待ち構えていてくれた。

給○ポイントですばらしい再会があった。鳥獣gigaでワインを買っていた「いまでや」さんがポイントになっていたのだった。本社併設のダイニングを開放してくれていた。3年前に解説付きでワインのことを詳細に教えてくれた営業マン本人は休暇で不在だったが。千葉に会社があることは知っていたのだが、そこがまさかシャルソン のポイントになっているとは。走りながらそのことに気づいた。かつでの思い出とともに。楽しい時間を過ごすことができた。またいつかおつきあいしたい会社だ。

打上げパーティは千葉ポートタワーの最上階のレストランにて。細長い円状の会場なので、全体が見渡せる感じではないが、どこかに動くたびにいろいろな人と話すことになった。僕は参加できなかったが夕方にビールかけもやったそうで、独自の面白い企画がどんどん出てきている。

2013/6/6


資生堂で講演

資生堂リサーチセンター(新横浜)で講演してきました。研究者がそれぞれの研究に興味を持ち、社内でもっとイノベーションを起こすためにいろいろと試みがなされているようです。そのうちの一つが現在順次導入中の“アドレスフリー制”つまり、席を固定せずいろいろな場所で仕事をすることにより社内のいろいろな専門・立場の人とつながっていける仕組みだそうです。

“アドレスフリー制”がうまく行っている会社って具体例としてあまり聞いたことがありませんが、みなさんご存知でしょうか。結局、「なんとなく同じところに座ってしまう」「なんとなく同じ人とつるんでしまう」という結果になりそうで、実際そうなるのは、初めてそういう考え方を聞いた15年前からほとんど自明だと思っています。

資生堂が会社の方針としてアドレスフリーによるブレイクスルーを狙い、労働組合が中心になって、その仕組みを生きるように従業員を啓発する。今回僕が呼ばれたのは、そうした目的からのようでした。

オフィスについて色々考えているうちに、僕の共著書『つながりの仕事術』に出会い、それを読んだという担当の方が企画してくれました。

ある日突然固定席を止めてしまっても、いきなりコミュニケーションが始まるわけがありません。なんとなく知っているとか、時々すれ違ってると分かっているのにこれまで話さなかった人と、いきなり話すようになるわけはないと思います。僕がそういう場にさらされても、それは同じです。

だから、アドレスフリー制を成功させるためには、とても大きな壁があると思います。それが企業とか科組織の風通しを劇的に変えることをまず頭で理解し、その後身体で理解し、その上で、多くの人がそれに向かう意思を強く持って初めてできることだと思っています。

講演に呼んでもらってナンですが、一回話しただけで組織が変わるわけがないと思っていました。仕事としてはありがたいし、本の内容を知ってくれる人が増えるのは嬉しいのだけど、どうしたものかと思っていました。

というわけで、僕は講演という固い時間のほかに、少し柔らかい時間を持つことを提案しました。いきなり大企業の方にはショックが強いかなと思いましたが、「質疑応答の後半はビールを飲みながら」と言ってみたのです。当初「1時間か1時間半ぐらい時間いただけますか」という感じで依頼されたので、先方の言う時間はまともにやって、エクストラの時間をざっくばらんな飲み会にすることで、聞いたことを深く理解して実践する人が一人でも増えるといいと思いました。

結果、担当の人がすぐに社内を調整してくれて、カフェテリアでの懇親会を企画してくれました。しかも、コワーキング実践者を読んでほしいとも言われたので、PAX Coworkingの松田顕さんを誘って行きました。さらに、その食事の中にパクチー麺を用意してくれ(店に来て購入してくれたそうです)、逆にものすごく感激させられました。

食事の場ではいろいろな方が、ざっくばらんではありながら鋭い質問をしてくれ、コワーキングの発想を社内に取り入れることに前向きな人たちがそろっている印象を受けました。資生堂の研究者の方々が、僕たちがこの3年楽しんでいるコワーキングを理解し、職務に活かしてくださることを祈ります。

帰り際に提案しましたが、資生堂でのJellyに僕たちが参加したり、僕たちのコワーキングスペースに資生堂の人に仕事してもらったりを今後やってみたいと思っています。1時間ちょっとの講演で、学生時代の一カ月のアルバイト代以上の額をいただいてしまったので、講演をスタートに付き合いが始まり、今後コミットすべきだと自分の中では思っています。

2013/6/12


世界のビジネスの89%はダジャレでできている

パクチーハウス東京のメニューにはダジャレを多用しているので、いろいろなお客さんからそれを指摘される。そして、そうしたメニューに親しみを持ってくれる。オリジナル料理が多いので、それらに名前をつけて命を吹き込み、それを楽しく覚えてほしいと思っている。

起業時からパクチーとPAX(ラテン語で平和の意)の2つの「パク」をかけあわせ、資本金や設立日などの数字もすべて「89」でまとめている。ダジャレというとオヤジギャグなどと混同されることもあるが、実は僕だけでなく店舗や会社の名前、そして商品名はダジャレによりできているものが非常に多い。そして、ここ最近、そのことを意図的に宣言する会社が出てきた。僕は数年前は、「世界のビジネスの半分はダジャレでできいている」と言い続けてきたが、実は「世界のビジネスの89%はダジャレでできている」と言う方が真実に近いのではと思うようになった。

今日の日経MJの裏面を飾っているのは、“ダジャレ農機”の筑水キャニコム(福岡県うきは市)だ。高額なのにアルファベットや数字などを組み合わせた面白くないネーミングの機器ばかりということに危機感を感じ、製造する商品にダジャレを取り入れたそうだ。「草刈機まさお」「三輪駆動静香」「伝導よしみ」などがその例だ。営業で初訪問してもネーミングだけで盛り上がるし、販売店や購入者が新たな名前のアイデアを持ちこんでくるらしい。

また、先日ドミノピザがダジャレを会社の公用語にすると発表した「Dajare-a day(ダジャレやで~)」という特設サイトまで作り、毎日一つずつダジャレを発表している。同社のスコット社長が、日本語学習中に知ったダジャレに感激したのがそもそものきっかけだとか。

同社のプレスリリースより引用:
本日からの試験運用として、次の取り組みをスタートさせます。
  (試験運用期間中、本部内のみ適用)
・<1会議1ダジャレ>原則として会議中一度はダジャレを発する
  よう心がけること
・<ダジャレシェアシステム(DSS/開発中)>クラウド型の社内
  システム上にて良いダジャレを積極的に共有すること
・<自主トレーニング>DAJARE-A-DAYを中心にダジャレの勉強を
  怠らないこと
・<ダジャレ合宿>たまに多摩でダジャレ合宿を行うこと

【今後導入予定】
・すぐれた笑いを提供した社員を表彰するダジャレオブザイヤー
・ダジャレ賞与
・外部講師によるダジャレセミナー
・リアルピザぶとん
※ピザぶとん:「DAJARE-A-DAY | ダジャレやで〜」サイトにおけるスコット社長の評価システム

面白すぎる。でも、こうしたことで会議などに笑いをもたらし、発想を柔軟にすることは大事だと思う。今後も、ダジャレに力をいれたい。

2013/6/28


バックパッカーのパクチー攻略法!

簡単な自己紹介とパクチーとは何ぞや?

こんにちは。日本パクチー狂会・会長の佐谷恭です。巷ではKyo paxi(キョウ・パクチー)と呼ばれています。学生時代から旅を始め、旅先でパクチーに出会ったのは他のバックパッカーのみなさんと一緒ですが、不思議な縁でパクチーに異常なまでにも注目するようになりました。パクチー狂になってからは約8年、世界初のパクチー料理専門店「パクチーハウス東京」を立ち上げてから6年目となります。パクチー料理のレシピ本を2冊出しているので、パクチー料理研究家でもあるのですが、誰もそうは呼んでくれませんw

パクチーと言えば「好きか嫌いか」というのがバックパッカーの話題の中心になることはよくあると思いますが、僕は「知っているか知らないか」を重視しています。今でこそ日本でもパクチーが色々な場面で登場するようになりましたが、僕が日本パクチー狂会を作ったころはそれはそれはマイナーな存在で、しかし、旅人の間では知らない人はほとんどいないという存在でした。つまり、一般人と旅人を分けるフィルターのようなものとしてパクチーを捉えたのです。

僕が旅人を集めたいと思ったのは、パクチーハウスという飲食店を作る前提として「株式会社旅と平和」というのを立ち上げたことからです。旅を仕事にしたいと学生時代から思っていましたが、旅行会社はちょっと違うし、旅行作家になれるわけでもなし。大企業やベンチャー企業に勤務したり、フリーで仕事をしたりしながら、ちょこちょこ旅をして10年を過ごしました。そして得た一つの結論が、自分の体験をそのまま日本にもたらせば、“失われた20年”とかほざいている“閉塞感”を打破できるのではないかということ。モノやサービスを輸入するビジネスはたくさん存在するけども、そのどれもが日本というマーケットのためにカスタマイズして入ってきます。でも僕ら旅人が外国で見たシーンは、僕らのために用意されたものではないからこそ、刺激を受け、知恵をもらうことができます。

学生のころはたくさんの人に旅に出てほしいと思ってそのための活動をし、今もそういう気持ちは変わらないけれど、「時間がない、お金がない」が口癖の人が自発的に海外に行く日を待つよりも、すでに旅している人を集めて旅人が持つエネルギーや視野の広さをよりよき世界のために使いたいと思っています。だから僕はパクチーが好きか嫌いかはどうでもいいと思っています。パクチーと、何らかのきっかけで出会った人たち――つまり旅人たち――の力を集めて日本をそして世界を元気にする事業を展開しよう、というのが現在の僕の姿です。

というわけで、少なくともパクチーを「知っている」であろうみなさんは、僕にとっては親愛なる仲間だと思っています。今は嫌いでもいいんです。バックパッカー新聞の向井さんから「バックパッカーのパクチー攻略法!」を4回にわたって連載してくれというありがたい依頼を頂いたので、この原稿を通じてパクチーが好きになるか、好きなような気になるか、少なくともトライしようと思ってもらうことを目指します。パクチーは世界中で使われている食材なので、これを食べられるようになるだけで、食の世界は一気に拡がるのです!

さて、苦手だと思い込んでいる方は、すでに読む気を失せているかもしれませんね。パクチー料理専門店なんて自分には関係ないと思っていることでしょう。でも、ちょっと聞いて下さい。うちの店に来る人の約半数は、「最初はパクチーダメだった」人たちなのです。「カメムシのような味」という言い方をよくされますが、今では大好きな方も初めは「洗剤の味がした」「脳みそがえぐられた」「人間の食べるものではないと思った」などいう感想を持ったという例が後を絶ちません。そして「現地の人が食べているなら私も」というポジティブな理由から「どかそうと思っても尋常な量が入ってるからしょうがない」というネガティブな理由までさまざまですが、食べ続けているうちにある日ハマってしまったという方がほとんどなのです。

パクチーは東南アジアのものと思われていますが、実は地中海生まれです。最古の種がイスラエルで発見されているし、エジプトのピラミッドの中からも見つかっています。モロッコやポルトガルでは、現在でもたくさんのパクチーが料理に使われています。地中海沿岸地域から、陸路を通ってアジアへ、海を渡ってアメリカ大陸にも広がって行きました。日本に来た時期は不詳ですが、10世紀半ば発行の『和妙類聚抄』という書物に書かれているのが、日本での最初の記録です。江戸時代には寿司の薬味として使われていたそうです。

パクチーは英語でコリアンダー、スペイン語でシラントロ、ヒンディー語でダニヤ、中国語で香菜(シャンツァイ)と呼ばれています。パクチーの音はタイ語の発音から取りました。アルファベットでは「phakchi」と表記するそうですが、分かりやすく世界中で統一した呼び方を作りたいと思い、発音は「パクチー」、スペルは「paxi」と書くことに決めました。“好き嫌い論争”をするときに最も多様される言い方が「パクチー」だから、というのがその理由です。しかし、このスペルを開発することにより、僕のテーマである「旅(i)と平和(pax)」を短く表現することができました。パクチーは「旅と平和」の象徴であり、パクチーを食べる旅人が、世界中を楽しく、豊かで平和な場所にするのが僕のミッションなのです。

『バックパッカー新聞』 第80号寄稿


旅で出会ったパクチーエピソード!

こんにちは。世界初のパクチー料理専門店「パクチーハウス東京」の佐谷恭(Kyo paxi)です。第一回では自己紹介を中心にパクチーとの関係を書かせていただきました。苦手だと思い込んでいる人へのメッセージとして、「パクチーが好きな人の大半も最初は否定的だった人が多い」ということを書きました。

僕自身の体験としても、初めて食べた際はものすごい食材があるものだと非常に驚いたのを覚えています。あまりに衝撃的過ぎて、頭をハンマーで殴られたような気がしたぐらいです。「現地の人はこんなものを食べるのか!」と思いながら、無理矢理口にそれを運び続けたのです。

僕が、おそらく初めてパクチーを食べたのは、1995年冬のカンボジア・プノンペンでのことです。まだパクチーの名も知らなかったと思います。キャピトル・ゲストハウスで出会った旅人たちと4人で行った鍋料理を出す店で、店に入ったら注文しなくても、鍋料理の具材が次々と出てきました。その中に、見たことない「枝」のようなものがありました。直径約1.5cm。これが20cmぐらいにぶつ切りにされて、大きなボウルに山盛りだったのです。

鍋なのでとにかく具材を適当に放り込んだのですが、この枝は明らかに異彩を放っていました。独特な強い香りを持っており、鍋に入れた瞬間に周囲がその枝の香りで充満しました。その枝は基本的には緑色でしたが、ところどころ紫がかっていました。しばらく煮込んでから口にしてみると、強烈な味と香りに固くなった繊維で、これは本当に食べていいのだろうかと思いました。サトウキビを齧るときのような感じで、繊維を残しつつ、その枝を
しゃぶりつつ鍋を食べました。

正直、きつかったです。でも僕は、基本的に出てきたものは残しません。初めての一人旅では、韓国で刺身の付け合せにでてきたニンニクと唐辛子を全部食べきることでそれまで苦手だった辛い料理を一気に克服したし、ヘビやバッタ、蚕、芋虫などにもチャレンジしてきました。だからこのときも、「カンボジア人はすごいもの食べるんだなぁ」と思いつつ、頑張ったのです。このときの味は決して忘れません。

みなさんが通常見るパクチーは全長20cmから40cmぐらいのものでしょう。でもいい環境で放置しておくと、花が咲いて実がなる頃には、パクチーの背丈は1メートルを超えることもあります。そんなトウ立ちした状態のパクチーを食べなくても…と思うのですが、このときに出てきたパクチーはそういう代物だったのです。エグみがきつく、通常のパクチーの数十倍ぐらいキツかったのではないかと思います。僕はこれを意地のような感じで身体に摂りこんだので、それでパクチーに対する耐性がばっちりになったのでしょう。

その後、旅をする中でいろいろなシーンでパクチーと再会しましたが、最初の衝撃がすごすぎたので、それ以来会うパクチーは「優しい味わい」のものばかりでした。取り立てて意識することはなかったものの、料理の中に含まれているのを見つけると、プノンペンでの思い出を懐かしく思い出したものです。

パクチーを「好き」と意識したのは2002年。中国・北京にて。僕は「もう一つのワールドカップ」というテーマで旅をしている最中でした。日韓共催ワールドカップが行われているのを尻目に、日本代表のユニフォームを着て、ワールドカップの公式ボールである「フィーヴァーノヴァ」を持って、中国からイランまで中央アジアを通る旅をしていました。北京についた初日に王府井の裏路地を入ったところにある中国東北料理の店で出会ったのが、たっぷりのパクチーの上にラム肉のスパイシー炒めが載せてある絶品料理でした。あまりに美味かったので、その店に6日間で8回通いました。それまでは特段意識していなかったけれど、この料理を食べてパクチーと羊肉を愛するようになりました。パクチーを見つけては買うようになったのは、それからです。

約1年間イギリスに住んだときに、人口の9割以上がムスリムの地域の近くに住んでいました。パクチーと羊肉が山ほど手に入る環境にあったので、この料理を繰り返し作ることになりました。この料理、中国語では「香菜爆羊肉」と言います。パクチーハウス東京では「ヤンパク」という名で人気商品となっています。

2004年に自らの結婚式をポルトガルのロカ岬で行いました。この時に、ポルトガルの主要都市を回ったのですが、どこへ行ってもパクチーが出てくることに、とても驚きました。パクチーはアジアのものだと、僕も当時は思い込んでいたので、食事をするたびに不思議な感覚になったものです。幸い僕は、上述の通り、パクチーがどんどん好きになっていたので、この旅での体験は貴重でした。すべての料理にパクチーを入れようという発想に、この旅がなかったら至ってなかったかもしれません。

旅して自分の知らないことを発見していくのは、こうした意味で価値があるのですね。パクチーが人生の一部に組み込まれたのも、旅の成果なのです。

『バックパッカー新聞』第81号寄稿


パクチーバックパッカーなら、自分で育ててみよう!

こんにちは、パクチー銀行・頭取の佐谷恭です。パクチー銀行って何かって? えっ、知らないんですか? 2006年にノーベル平和賞を取ったバングラデシュのムハマド・ユヌス博士が創設したグラミン銀行に感銘を受けたある人が、それを超える銀行を作りたいと思って作った「銀行」が、パクチー銀行です。ある人ってとりあえずぼかしてみましたが、賢明な読者は、いや賢明じゃなくてもかな、過去2回の連載を読んだ方は分かると思いますが…。パクチー銀行は僕が作った銀行です。

グラミン銀行については今さら説明することもなかろうと思いますが、念のため。グラミン銀行は「貧者の銀行」とも言われ、貧困層を対象とした少額の無担保融資(マイクロクレジットといいます)を行っています。銀行にお金を借りようとすると、通常「担保」を求められますね。返せなければ土地を持っていくとかいうアレです。お金を貸す側としての銀行は一般的に、返済されない場合に備えるという“不信感”を以て顧客に接します。一方でグラミン銀行をはじめとするマイクロクレジットという仕組みは、担保を取りません。連帯責任のない5人ごとの互助グループは組むのですが、法的な契約を交わすこともなく、信頼に基づいてお金の貸し借りが機能しているそうです。この話を初めて聞いたとき、これはすごいと思いました。そしてその銀行がノーベル平和賞を受賞したと聞き、僕は「これを超える銀行を作りたい」と思いました。

「担保なし」を超えるには「返済の義務なし」だと、直感的に思いました。それを実現するには、ものすごく効率のいい運用ができるもので仕組みを作るしかないです。そこで、僕は人間の力だけではどうしようもないと判断し、自然の力を借りることにしました。自然の中にあり、繁殖力のあるのは植物。その中で僕が最も親しみのあるのがパクチーでした。受賞当時、日本
パクチー狂会を作ってから約1年半ぐらいが経っていましたので。

日本パクチー狂会は、設立当初から paxi.jp というパクチーのためのコミュニティという位置づけのウェブサイトを展開していました。第一話に書いた通り、パクチーというキーワードは旅人を集めるフィルターになりそうだと思っていましたので、パクチー会を定期的に開催することにより、旅好きな人が日本にいながらにして知り合える環境を作ろうと考えていました。パクチーをネタに旅会を開くというイメージです。

適当にタイ料理屋でも予約すれば、そういう会が開催できると信じていたのですが、実は当時、タイ料理屋にもパクチーがない店が結構あり(日本人パクチー嫌いでしょーとよく言われました。パクチー狂会の会長だと名乗っているのに!)、また、パクチーを大量に食べるパーティを催したいと伝えても快く答えてくれる店が全然ありませんでした(パクチー調達もきっと難しかったのでしょう)。行き詰まりそうになったので、パクチー料理を持ちよるポットラックパーティや、独自パクソース・コンテストを兼ねたBBQなどを開催しているうちに、パクチーに関する情報が集まり、新しい世界が開けました。

その日本パクチー狂会の活動の一環で、パクチーの種を無料配布するということもしていました。元々はmixi内のコミュニティで、怪しいおぢさんというハンドルネームの方が自家栽培して採ったパクチーを欲しい方に配っていました。返信用の封筒をその方に送ると、種を入れて返してくれるという素晴らしい取り組みで、僕も一度種を頂きました。発想作業にかかる手間は相当なもので、大変そうだなと思っていたら、「ぶっちゃけ面倒臭い」というような書き込みがあったので、日本パクチー狂会とまで名乗っている僕がこの作業を請け負うべきじゃないかと思い、その旨をおぢさんに伝えて、その業務を引き継ぎました。

当初はおぢさんに種をまとめて送ってもらって、欲しい方々から送られてきた封筒に個別に入れるという形を取っていました。栽培を希望する友人たちにも種を配ったのですが、そのうちの一人がたくさんの種を蒔き、大量に採種してくれたことがあり、その種も再配布するという流れができました。そんなタイミングで、「グラミンを超える銀行を作る」というアイデアが沸いてきたのです。

僕はパクチーの種を貸し付け、自宅でどんどん食べてもらい、食べきれず花を咲かせ実をならせた人から返済してもらうことにしました。植物の種は一粒から数百粒採れるので、100人に一人が返してくれれば成り立つすごいビジネスモデルの完成です。いろいろな人の力で種が受け継がれていく、楽しい仕組みになりそうです。担保なし、返済の義務なしの銀行は、2006年末、グラミン銀行がノーベル平和賞を受賞した裏でこうして完成したのでした。

ちなみに、パクチー銀行の正式名称は「パクチー銀行ATM」です。この仕組みに端的な説明をつけたいということと、銀行といえばATMだろうということで、余った(A)種を(T)蒔こう(M)というダジャレで命名しました。

パクチー銀行では、現在、年に3000人以上に種の貸し付けをしています。銀行設立当時は30人程度の規模だたので7年で100倍以上に成長しています。種を返却してくれる人も増えていますし、パクチーを栽培するほどの愛好家の方々から、資本注入をしたいとの申し出もちょくちょくいただいています。

国内のみならず、海外からも種が欲しいという連絡が来ます。種子の輸出入に関してはいろいろ手続きが必要とのことなので、海外への貸し付けはしておりませんが、バックパッカーのネットワークを使ってパクチー銀行の種子を海外で手に入れるという例も出てきました。パクチー(paxi)に込めた「旅と平和」の想いを、栽培の楽しみを通して種を広めたり、美味しい料理を食べたいという観点から面白がって広げてくれています。バックパッカーのみなさん、種の密輸出入に加担しませんか(笑)。

パクチーでも何でもそうですが、手塩にかけて育てれば、必ず愛情が芽生えます。どこの国に行っても出会ってしまうパクチーを、避けて通ることはできませんので、連載3回目にしてまだ苦手だとか嫌いだとか言っている人は、この機会に栽培にチャレンジしませんか?

それでは、ご連絡をお待ちしています。

『バックパッカー新聞』第82号寄稿


パクチーを制するものは世界を制するのだ!

こんにちは。パクチー帝国・皇帝の佐谷恭です。日本パクチー狂会というパクチーの愛好者のコミュニティから始まり、パクチー料理専門店、さらにはパクチー銀行というとち狂ったような自己紹介でこれまで始めてきましたが、今度は皇帝です。でも、もう誰も驚かないかもしれませんね(笑)。どこまでも突き抜けろって。勝手にしろって。

さて、過去3回の連載で出した肩書きは、何だこれと思った方は多かったと思いますが、全部本当でした。ウソみたいと思う人も多いのだけど、そんな肩書きを名乗りなら僕は生きています。連載最後の今回は、まだきちんと名乗るに至っていない肩書きで自己紹介を始めました。つまり、パクチー帝国もその帝国の皇帝というのも、まだ自称ですらなく、単なる妄想です。

僕の好きな言葉に、「妄想を暴走させよ!」というものがあります。何かの拍子に、面白い思いつきをすることがあります。状況や常識から考えると「あり得ない」話かも知れません。でも、その考えにもし取り付かれたら・・・。思いつきを飛躍発展させ、宇宙の果てまで飛ばしてしまうのが、楽しいのです。他人からだけでなく、自分でも「何やってんの?」という状態が「暴走」です。

この連載、始める前に向井編集長に相談した際に「こんなのどう?」と即答してくれたものを、そのまま各回のタイトルにしています。最終回に「パクチーを制するものは世界を制するのだ!」というを頂きました。ここに文章を書くことで、妄想が何歩か実現に近づくと信じて、筆を進めます。

ちょうど、この原稿を書く直前に読んでいた本に、ワイアードの共同創刊者であるケヴィン・ケリーの言葉が引用されていました。

「イノベーションは世界のふちで起きるものだ。そこなら『正統派』の威力に押しつぶされず、みずからの有用性を証明して勢力を広げられるから」

パクチーをネタに人集めからビジネス、社会への働きかけをしてかれこれ8年になりますが、その間ずっと言われて来たのが「ニッチ」という言葉でした。もちろん、メジャーなものを扱っている意識はありませんので、これを甘んじて受け入れてきました。ニッチだからこそ、漠然と飲食店を開くだけでは滅びるだろうという危機感から、何かとこじづけをしてパクチー関連のネタを創造して来ました。上の引用句に照らし合わせると、パクチーこそがイノベーションを起こす大いなる可能性を持っており、かつ、既存勢力に妨げられることなく、世界を制することができると確信できます。

さて、どうやってパクチー帝国を作りましょうか。まずは「日本でのパクチーの普及」という、日本パクチー狂会の原点に戻って現実的なところから考えます。

パクチーハウス東京の営業を始めるとき、毎週10kgぐらいならパクチーを入手できる状況を作りました。しかし、天候等によりパクチーが取れなくなったと農家さんから報告を受け、大慌てでパクチーの入手先を探すという危機を、実は過去5年半で20回ぐらい経験しています。そうした経験の中で、パクチーを栽培してくれる農家さんと多数知り合いました。こちらの使用量も増えているし自然のものですので、パクチー危機は今も年に数度起こっています。でもなんとか、営業停止は避けられるぐらいのパクチーをなんとか調達してきました。パクチーハウスでは現在、週に30kg超、つまり年間で1.6トンほどのパクチーを購入しています。

他の飲食店からパクチー調達の相談を受けることも徐々に増えています。まだ値段は高いし売っている量も少ないですが、都内のスーパーではパクチーを入手しやすくなりました。農業の専門誌で20ページ以上にわたってパクチーが特集されるという驚くべき事態もありました。JR東日本の社食でもパクチーが出たと話題になりました。パクチーを食べる人、作る人が増加しています。

昨年秋、「パクチー生産者ネットワーク」というパクチー栽培を生業とする人のためのグループを作りました。初期段階として栽培のノウハウを共有し合えるよう、農地見学をアレンジしたり、栽培・輸送・調理法などに関する情報交換を促しています。その甲斐あってか、佐賀県武雄市のように自治体ぐるみでパクチー栽培に力を入れるところが出ていました。それに関連して九州地方で大規模にパクチー関連の産業を起こそうという動きがあり、「九州パクチー王国」というFacebookページもできました。

パクチーに関する動きは全国から聞こえてきますので、パクチー帝国としては地域ごとに王国をまとめるお手伝いをしたいと思っています。生産者同士がライバルとしてしのぎを削るのではなく、栽培のノウハウや顧客をシェアし、各王国内と日本全体でパクチーが容易に入手できる状態を創り上げます。現在、幸いにも生産量に比して「入手したい」と思っている人が多いので、情報を効果的に流通させることでパクチーを増産する価値を先進的な農家さんで共有してほしいと思っています。

ニッチだからこそ、僕はパクチーを料理のジャンルとして確立させたいとずっと思っていました。「パクチー料理」という言葉を意識的に発信してきたのはそのためです。僕の店で全ての料理にパクチーを入れたり、家庭でも作れるようにレシピを公開したり、パクチーを積極的に使う店やパクチーハウスの料理にインスパイアされた料理を出す店を積極的に推薦するのは、料理の発想やレシピは人類の共有財産だと思っているし、そうだからこそジャンルを確立できると信じているからです。

そして、エッジの効いた業態としてパクチー料理専門店を6年近く運営することで、チャレンジングな料理人の方々と知り合う機会がどんどん増えてきました。パクチー料理を生み出すのは東京の片隅にある一つの飲食店だけという時期は過ぎ去り、多くの料理人がパクチー料理を開発し、たくさんの家庭でパクチーが食卓に並ぶようになっています。味に加えて栄養や素材の扱い方という観点からも、日本の食のシーンは世界から高い評価を得ています。世界のほとんどの国で食べられているパクチーを、彼らの発想を大きく飛び越えて日本人ならではの感性を加えて提示していきたいと思っています。

パクチーは整腸作用、解毒作用などの効果があるハーブとして知られており、お腹を壊しやすいバックパッカーのみならず、地球温暖化が叫ばれるこの時代、世界のあらゆる人が必要とする食材なのです。しかも、現在のところほとんど料理には使わない日本だけでなく、世界のいろいろな国にもパクチーが苦手だ・食べられないという人がたくさんいます。そうした人々に数々のバリエーションを以って日本発のパクチー料理を紹介し、パクチーで世界の料理を埋め尽くすのが、パクチー帝国としての世界への貢献かなと思っています。

バックパッカーとして旅をして、いろいろな人に会い、いろいろなものを食べました。旅は楽しすぎて止められず、旅の感覚をうまく活かせない会社は何度か辞めました。自分の住んでいる日本と、自分が訪れた「常識」の通じない土地や人を見続けて、いろいろなことを考えてきました。

旅をしていると妄想が広がります。日常を離れて暴走してしまうことも多々あると思います。つまり、旅をすることは世界の在り方を感じることであり、自分の身の回りを変化させるためのヒントをつかむことでもあります。バックパッカーならパクチーぐらい鼻つまんででも食べて、すぐに慣れるべし。せっかく色々なところに行ける恵まれた環境を利用して、自分が思い描く通りの世界を創りましょうよ。では、また。

『バックパッカー新聞』第83号寄稿


一周忌

今日は父の命日でした。他界してちょうど一年になります。

癌が判明してから2年弱の時間がありました。父が癌と分かるまでは、なんとなくのイメージで闇雲に怖いイメージのあった癌ですが、いろいろな情報を得たり父の話を聞いて、付き合い方について考えながら時間を過ごしました。

医師の発言とそれに対する父の思い。そしてセカンドオピニオンを聞いた結果の父の決断。常に進行し続けるだけでなく、癌ということを忘れさせるようなタイミングもありました。

国内旅行のほか、ロシアやインドを旅することもできた闘病期間でした。兄の住むインド滞在中に癌が進行し、帰国から4カ月の命でしたが、その間は何度も接触する機会を持て、父本人の意思と心情を聞くこともできました。

幸い(とあえて書きますが)病院の対応がとんでもなくひどかったので、それまで考えたことのなかった、在宅で看取るという決断にシフトをし、意識のあった直前まで父が自分で作ったタマネギをつかったスープを食べることができ、日常の中で死を迎えたことは、僕たち家族にとってもとても重要でした。

この一年、機会を作って墓のある京都を何度も訪れました。学生時代から、時々訪れたい京都ですが、数年に一度となっていたので、父がその機会を作ってくれてるなぁと感じています。僕にとって時々行くと懐かしく落ち着く地ですので。しばらく減り続けていた京都の知り合いも、ここ2-3年でパクチーとコワーキングとシャルソンで増えつつあるので。

そしてこの一年、父からメッセージをもらったと感じることが何度もありました。不思議なものです。元々、そんなに遠くないけれど、忙しさを理由にあまり実家に帰ってなかったので、今でも同じぐらいコンタクトを取れるというか、そんな感じ。

上に書いた、「自宅で看取る」ということについては、現代の医学と社会の状況などにより、それができるというのは幸せなことだというのが事後的に分かりました。すごくラッキーだったと思っています。

4月に『「平穏死」という親孝行』という本に、新聞広告を通じてめぐりあいました。普段新聞広告で本を買うことはあまりないというか見てないのですがこれも不思議な縁ですね。

そして、そのことに興味持つ人はいないかなと思いつつ、この本を通じてディスカッションする会合をPAX Coworkingで6月に開きました。参加人数は多くなかったですが、実体験があったり意見を持っている人が集まり、充実した会合になりました。いつも会っている人ともいつもとは全然違う話ができて興味深かったです。

その会合には、完全に初めての人も来てくれていました。実体験をもとに、平穏死という概念やそれに必要な知恵を広めようという方でした。本人は部外者(こちらとしては歓迎なのですがどんな状況か分からないで来てくれたため)なのにいいのかしらと思いつつ迷いに迷って直前に参加表明して来てくれたのですが、僕たちが断片的に知っていることを分かりやすくまとめてくれたのが記憶に新しいです。

そして、今日、パクチーハウスで仕事をしていたら、その方がご友人とともに来パクしてくれました。命日のことはもちろん知らないのですが、なんかやっぱり不思議な導きってあるんだなと感じました。


朝の残業

伊藤忠商事が夜10時以降の残業を禁止して、朝の残業を手厚くするというような発表をしました。単なる残業禁止より、従業員と社会にとっていい仕組みだなと思いました。

ところが世間の見方はそうでもないんですかね。「そういうことした会社の従業員が辞めた」とか「残業代カットのための施策」みたいな意見が目立ちます。
http://www.j-cast.com/kaisha/2013/08/05180831.html

僕は富士通時代、残業がまだ青天井でつけられる恵まれた(?)環境にいましたが、いい仕事をするためには夜の飲み会と社外との人づきあいが必要だという信念のもとに夜7時に帰るようにしていました。規定の終業時間の5時半でなく7時だった理由は、7時から残業のカウントが始まるので、それぐらいつけとかないと「残業していない」とのレッテルを貼られるからです。もの言う新人と言われていましたが、ここは気をつかっていました(笑)。

そして、「毎日7時に帰る⇒あまり仕事がない」ということらしく、他の人の仕事がどんどん回ってくるようになりました。でも7時に帰るのは、僕の人生にとって大事だと思っていたので、それまでに終わらせる術(会議をそれ以降に入れさせないことが最も重要)を身に着けることになったのです。

そのうち、夜7時には終わらない量の仕事になりそうでしたので、それから朝早く行くことにしました。早く行っても「残業代」はつかないのですが、夜早く帰るために必要だったし、「僕朝早いから」と言って、夜7時に帰るのがずいぶん楽になりました!

誰もいないオフィスで仕事をすると断然はかどるということがよく分かりました。朝の2-3時間で、相談の必要のないデスクワークは一日分終わります。電車も空いていたので(川崎から丸の内勤務でした)とても快適でした。

朝イチから仕事して、昼過ぎに業務を終えるのがその頃からの理想です。(といいつつ、飲食店業務が終わるのが夜12時なので、そうはできていませんが)

2013/8/6


フリー営業

パクチーの日が明後日に迫りました。あす8月8日は前夜祭、葉っぱの日です。パクチーハウス東京では、明日、新たなチャレンジを始めます。標題の通り「フリー営業」です。

「フリー営業」というのは何かというと、一言で言うと「予約を取らない」ということです。お陰さまで「予約の取れない店」と言っていただくこともあります。ふらりと来ても入れないイメージがついてしまっています。

予約なしのお客さんがほとんど来られない日もあるので、営業開始までどうなってしまうのかドキドキですが、いつもと違う流れを作るということで楽しみにしています。

たまたま同じ空間にいる人同士でコミュニケーションを取ってほしいという「相席推奨」についてはいつもと変わらず実行していきます。そのためにもたくさんの人でにぎわってほしいと思っています。

そういう意味でもっとやってみたいことは、固定席にしないことです。食べ終わったら帰るのではなく、新しく入ってきたお客さんに席を譲って立ち飲みスペースに行くとか。食べている途中で気分を変えて面白そうな話しをしている人の席に移動をするとか。美味しそうな料理を食べている人のところに行って一口もらうとか。店のオペレーションとか、実際の人の動きとかでそう思い通りにはいくわけではないでしょうが、来た人が店内を歩き回ったり、たまたま近くにいる人と気軽に会話できるような空間を目指して頑張って参ります。

明日の状況次第でもありますが、毎月8日をフリー営業の日にしようとスタッフたちとは話しています。では、パクチーハウスにぜひともふらりと立ち寄ってください。

2013/8/7


フリー営業に初挑戦!

今年も「パクチーの日」を無事迎えることができ、ホッとしています。

前夜祭としてパクチーハウスの新しい試み「フリー営業」を始めると、先日書きましたが、僕も客席で飲食を楽しみながら、その可能性の高さを感じました。

2007年11月にパクチーハウスの営業を始めてから3年ほどは、お客さんが一人も来なかったらどうしようという気持ちが常にありました。2011年の大震災後からしばらく経ってお客さんの数が戻り始めた頃からは、そこまで心配することはなくなりましたが、予約以外のお客さんが極めて少ない日もあるので、予約を急にゼロにしたときに、その日の来パク客数が激減するかもしれないと不安ではありました。

結論から言うと、初めてこの試みをした8月8日は予想以上の来客がありました。57人でしたので、これまでの普通の営業日と同じぐらいの方に楽しんでもらいました。フリー営業ということを知っている人も知らない人もいましたが。

僕は、台湾でコワーキングスペースを運営する飯田さんと、コワーキング協同組合の山川さんと6時半ぐらいから飲み始めました。その時点で5-6組の方がいたので木曜日にしては出だしも早かったです。店内中央にある丸テーブルに座っていると、モーラの家の宮原さんが来てくれました。飲み物が来る度に乾杯して、もう一組来たときに巻き込んでみたら、時々ご来パクして頂いている方でした。僕より年上で落ち着いている方でしたので、パクチーハウスのようながちゃがちゃした雰囲気をどう感じているのかと思いましたが、すごくポジティブな感想を聞き、嬉しく思いました。

「交流する飲食店」というサブタイトルを掲げていますが、それを理解していろいろな人とつながりまくる人がいる一方で、そんなことは知らずパクチー屋でパクチー食べに来て、「意外と混んでるな」とだけ思って帰られる方も結構います。でもこういう機会にお客さんと話すと、いつも積極的に話す人じゃなくても(そういう人は少ないし)、パクチーハウスでの「ふとしたきっかけや仕掛け」が面白いと感じてくれる人が非常にたくさんいることを知り、自信を持って追求しなければと思います。

予約を取っていると、席を確保しているのでその時点で空席でも来た人をご案内できず、まただいたい30分ごとに予約の方がまとめて来られるので案内するのに多少時間を要したりするのですが、フリー営業ではそこの部分が分散されるのでオペレーション的にもよかったようです。新たなチャレンジを提案してくれ、アイデアを出し実行してくれたスタッフのみんなには感謝です。

フリー営業のことをもっと多くの人に伝え、相席でしゃべるのが楽しいということも分かってもらい、より自然に化学反応が起こるように店の雰囲気づくりをしたいと思います。

2013/8/9


9回目のパクチーの日

パクチー暦9年8月9日、毎年恒例の「パクチーの日」を祝う“飲み尽くし”パーティを開催した。ビールショーケースの瓶ビールを勝手に取って飲んでいいというスタイルが驚きと喜びを持って迎えられるこの日。琥珀ヱビス生ビールも120リットル用意して、気合とともに臨んだ。

今年5月にTACO PAX(タコパク)というメキシコのタコスをパクチーハウス流にアレンジしたランチメニューを始めたこともあるので、タコパクの主流の食べ方である「手食」をパーティのメインに持っていった。手でご飯を食べることについては特に飲食店においては抵抗のある人が多いが、せっかくの祭りであるしこの機会に、予想もしない驚きと喜びという、旅で得るような体験をしてほしいと思ったのだ。

72人がパーティに参加してくれた。事前に電話で予約をしてくれ、10人以上
で来てくれた人もいたが、主催者以外はこの日がパーティということを知らされていなかったりもして、思わぬ場に入り込んだことを喜んでくれていた。料理を取りに行ったり、タコスをプレスして焼いたり、春巻きを自ら巻いたりという体験もできる形にした。普段と違う食体験をしてもらえたと思うし、そうした過程でいろいろな人と話すことを楽しんでくれた人がたくさんいた。

僕自身もパーティが始まってからずっと、いろいろな種類の人と話すことができて至福の時間だった。「楽しいんだけど箸が欲しい」と手食否定で話しかけてきた女性がいた。パクチーハウスで地球を救うカレーライスを始めるときに、食について深く考える方法として手食を試みたこと、僕自身より体験してくれたお客さんの言葉からもっと多くの人に体験してもらいたいと思い始めたこと、日本手食協会を作って広めるためにさまざま試みたことなどを語らせていただいて、最終的には「すごく素敵な考え方」と言ってくれた。

前に職場が一緒だった人が初来パクをこの日に選んでくれ、会社の人や取引先の人を連れて来てくれた。そこの代表の方とはtwitterの初期からの知り合いなのだが、業界的に関連が深いわけでもなく「パクチーを食べてもらう」ぐらいの関係だったけどコワーキングの発想を取り入れてもらうお手伝いをさせていただけるかもしれない。経堂マラソンやシャルソンについて、どこかで聞いたという人が多く、また、佐谷さんって走るんですよねと言いながら、ランナーの人を次々と紹介された。シャルソンの開催と参加について多くの人に関心を持ってもらえたと思う。

パーティってのは、いろいろな人が接点を持ち、考え方を伝えるのに最適な場だと思う。僕は学生時代から単なる飲み好きであることは間違いなく、その延長線上で会社を創ったのだが、だからこそ、ここは外してはいけない一線だなと改めて認識をした。自分の考えを伝える場としてパーティを開ける飲食店を借りることから発想を始め、「自分で店を開く」ことに思い至った展開の面白さよ。

2013/8/10


ちょっといっぱい

昨年のメドックマラソンで知り合った女の子が主催するイベントのパンフレットをパクチーハウスに置いて欲しいということで、それを受け取りがてらビールを一杯飲むことにした。

いつもの琥珀エビスメガジョッキ!・・・ではなく、COEDOの紅赤をオーダーし、一緒に来てくれていた人と3人で話を始めた。旅の話とオーガニックワインの話を聞き、メドックマラソンの素晴らしさとパクチー・ランニング・クラブの面白さについて伝えた。

彼女らが主催しているイベントとは「Let’s 旅〜世界はすぐそこに」というタイトルの写真展とライブなど。6人が中心となって運営しているそうだ。すでにギャラリーカフェバー「縁縁」というところで開催済みで、9月14〜15日に「Atelier Bemster」で行うとのこと。そして昨日の話の流れで、パクチーハウス東京でも秋に2週間ほど開催することになるだろう。旅人が店内をかきまわしてくれることを期待しよう。

さて、金曜日ということもあり、立ち飲みスタイルの交流スペース「Public’S'peace(パブリック・ス・ピース)」にもどんどん人が集ってきた。楽しくなってきたのでいろいろな人と乾杯しようと、ちょっと一杯のはずが2杯目に結局メガジョッキを頼むことになった。一人で来パクされている僕より少し年上の方がいて、友人のジェリコも仕事仲間と来パクしてくれたので、どんどん盛り上がっていた。

大テーブルに10人以上のグループがやはり大いに楽しんでいてくれたが、やがてそのうちの一人が声をかけてくれた。3月の僕の誕生日パーティに来てくれていた人だった。その後も誕生日のお客さんがいるグループが大いに心を開いてほかのお客さんを迎えてくれたので、またもうひと盛り上がりあった感じだった。

楽しんでくれた方の感想を見たら「自分の居場所になりそうだ」と書いてくれたり、一夜明けたランチタイムにその様子をFacebookで見た、あるお客さんの母親が来パクしてくれたり、とてもいい時間だったし、とてもいい結果を呼んだ。

お客さん同士がどんどんつながって話をすること。これこそが不特定多数の人が同じ場所で飲食をともにする場所の価値だと思う。どんな人がどういうタイミングで来るかは予測がつくものではないが、どんな人が来ても、そういう流れができる空間でありたい。

そんなこんなで僕の手はいつの間にかギガジョッキを握っていた。軽く一杯の予定だったのでほとんど食事をしないままだったが、結局いっぱいのビールといっぱいのお客さんと、営業時間のすべてである5時間を過ごしたのであった。

2013/8/17


世界一周壮行会

友人のみちる&まさみん夫妻が10年間ぐらいの予定で世界遺産約890カ所(本人たちは900と言っていたが、一応w)を巡る旅に出るということで、パクチーハウス東京で壮行会が開かれた。

この2カ月の間に、日本の世界遺産を巡り、来月ついに旅立つ。単に訪れるだけでなく、情報発信をして人類が残した遺産や自然の大切さを伝えつつ、その価値を理解する人を増やしていきたいと話していた。

彼らと会ったのは、Twitterでたくさんのお客さんが集まり始めた時だから3年半ぐらい前だと思う。最初はパクチーハウスで、やがてTwitter関連のイベントで話すようになり、その後立ち上げて半年間営業した用賀の自分で焼く立ち飲みBBQ「鳥獣giga」に何度も来てくれた。ここで愛を育んだ(と途中で気づいた)。鳥獣gigaを閉じると決めたときに、彼らの存在があったので実はずいぶん考えた。また貸しの話なども水面下で何社かと行ったりもした。自分の力なく結局閉じてしまったけど。

壮行会には、彼らと同じころにTwitterで出会った懐かしい人たちも来ていたし、彼らも十数年ぶりに会う人、直前の仕事仲間などさまざまな人たちが集まった。とても穏やかで、楽しい雰囲気に包まれたのは、彼らの人柄だろう。僕自身も店主ながら、気持ち良い時間を過ごすことができた。

2人が一番好きなビールとしてサンクトガーレンの「湘南ゴールド」を特別入荷して提供した。60リットル用意して、全部なくなった。余った分は数日間限定で出そうと思っていたのだけど、結局パーティが終わる直前にすべて空いた。2人の勢いを感じる。

サンクトガーレンという会社は、僕の実家から最も近いビール工場ということでライブドア・ニュース時代に取材と称して訪れたことがある。そのときにすごく歓待してくれて、たぶん2時間ぐらい話し込んで、パクチーの話をしまくった。サンクトの2人はパクチーが嫌いなのだが、日本パクチー狂会をこれからどう面白くしようかと思っていた僕は、パクチー嫌いの人たちを目の前にして、熱く語りまくったようだ。みちる&まさみんの友人として、嫌いながら初来パクをしてくれたので、そんな話もできた。

サンクトガーレンさんと再会したのもTwitterだった。パクチー苦手な件をその後もいつもネタにさせてもらった。昨日も「少しは食べられるけど意味が分からないよ」と言っていただけたが、そういう方も含めてパクチー料理を食べてもらうことがすごく嬉しい。普通の営業をしているだけだと、おそらく食べに来ないようなお客さんも、パーティ営業で来ることになる・・・パクチーはニッチだからこそ、こんな形でもいろいろな人を呼びたい。

昨日の参加者で、僕が知っていた人は1/3ぐらいだった。パクチーハウスや鳥獣gigaのさまざまなシーンでつながったという話をいくつも聞いて、嬉しかった。一つひとつは単なる飲み会なんだけど、これが蓄積すると、人は世界一周にも行くし、会社を創ったりもする。そういう仲間をずっと応援したい。みちる&まさみんいってらっしゃい。次はどこの国で会うのか、楽しみです。

2013/8/26


カタールと酒

3度目のメドックマラソンに向かう旅の最後に、カタールのドーハに寄りました。ドーハといえば1992年にサッカー日本代表がイラク戦においてワールドカップ出場を逃した「ドーハの悲劇」ぐらいしか思いつかない人が多いと思いますが、僕も実際そうでした。

ドーハの印象を一言でいうと「工事中」。そこらじゅうでビルが建てられ、道路が建設され、ショッピングモールも不完全なまま営業を始めています。9月はまだまだ異常に暑く、気温40℃ぐらい。最近日本も暑く、タイやパキスタンの人が「東京はうちより暑い」というのを耳にしたことがありますが、そんな夏に慣れているはずが、歩いているだけで死を感じるほど暑かったです。シャツもズボンもパンツも、完全にずぶぬれになりました。

さて、早朝に着き夕方まで灼熱の街中と寒すぎるビルを交互に出入りして過ごしていましたが、その後ドーハ在住の知人の旦那さん(スイス人)に会って案内してもらいました。

彼のアパートでまずピルスナーウルケル(チェコのビール)を飲み、感激。僕が街を歩いてもお酒は売っていなかったから。聞いてみるとこの国でお酒は一カ所でしか売っていないそうです。

お酒はライセンスを持っていると買えるとのこと。カタール人は買えず、外国人は収入に応じてお酒を買える額の上限が決まるそうです。お酒を飲むカタール人は外国人を雇ってその人の割り当て分を飲むことになっているのでしょう。お酒を取り扱っているのはカタール航空の関係会社のようです。

一日の終わりにとあるバーに行きました。ガラス張りのエレベーターホールで、壁に向かって進んで行くと思ったら、忍者屋敷のような感じで壁がくるっと回転し、そこにはバーがありました。なんだこれ!中は砂の中にある灼熱のドーハの雰囲気とは対照的なおしゃれな空間が広がっていました。ホントに驚きました!

この国でビジネスをするときは、51%以上が現地資本でないといけないとのことです。利益は半分以上持っていかれるということですね。しかも、外国人はスポンサー(通常は企業)の保証があって初めてビザがもらえるそうで、車を持ちたいとか、外国に出かけたいというときは、必ずスポンサーの許可がいるとのことでした。つまり、スポンサーの了承を経た上、国に手続きをしなければ何もできないのです。

インダストリアル・エリアなどにいる南アジアや東南アジア出身の労働者は、普段劣悪な環境に置かれ、しかも帰国の許可がもらえない状況で奴隷同然の生活をしているという話も聞きました。

2013/9/13


カスピ海サラダの秘密

昨日の営業中、間宮さんに質問を受けたカスピ海サラダの件を、営業後ミーティングで話しそびれたのでここにて。

カスピ海サラダって黒酢じゃなくてバルサミコ酢じゃないんですか?という質問でしたが、カスピ海サラダは、僕がカスピ海沿岸(具体的にはイラン)の家庭を訪問した1996年夏にいつもキュウリとトマトを使ったサラダが出てきたことから名づけたものです。

読むのが面倒と言う人はこの漫画をどうぞ:

カスピ海というと、一時期のブームによりカスピ海ヨーグルトを思い浮かべたり、西の方なので西洋的なものを思い浮かべたりとあると思いますが、各家庭で使われているものはさまざまでした。

イランは食文化的には、独自のもの、インドなど東方の影響を受けたもの、そしてトルコやさらにヨーロッパの影響をうけたものなどがあります。当時のイランは外食はほとんど発達していませんでしたが、いろいろな家庭でいろいろな味を経験させてもらいました。

このサラダの味付けを決めるとき、いろんなドレッシングを試しましたが、カスピ海の環境汚染(具体的にはロシアの廃棄物投棄によるとされているもの)に関することを含めようというアイデアが出てきて、当時からよく話の出ていた汚染食品が蔓延っていると言われる中国の黒酢を使うというブラックユーモアのサラダです。

ちなみに、カスピ海に接している国はイランのほか、ロシア・カザフスタン・トルクメニスタン・アゼルバイジャンです。

せっかくなのでついでに言っておくと、僕が大学卒業後も旅を続け、旅をテーマにイギリスの大学院で論文を書き(旅と平和)、パクチーハウスに加えコワーキングやシャルソンの発想を持つにいたった根本には、21歳のときにイランに35日間ほど滞在したことがあります。

自分が日本にいて得られる情報と、現地で起こっていることがあまりにかい離していて、自分の目で見て判断することの大事さを痛感したときです。各種インタビューなどにもなっていますので、興味ある人は探して読んでみてください。直接聞きたい人はいつでも聞いて下さい。

スタッフ宛のメールより
2013/9/15


改めてシャルソン

シャルソンの秋! ほぼ毎週のようにシャルソン開催が決まっている秋です。ここであまりまだ知らない人もいらっしゃると思うので、シャルソンの説明を改めて書いてみました。みなさん、ぜひ一度か二度、どこかで参加してみて下さい!

 ご当地シャルソンは、走ることを通じてまちを再発見し、人と人とがつながるランニングイベントです。歩いたり走ったりしながら地元または観光地を見学し、ガイドブック等には載っていない新たな魅力を競って発見することで、開催地域を活性化しようという試みです。また、同様にシャルソンを企画する地域同士が互いにつながることで、街づくりのためのポジティブなエネルギーを増幅させる仕掛けも内包しています。

 元々は世田谷区経堂でパクチーハウス東京という飲食店を経営する私が、経堂を中心とした世田谷区の新たな魅力発見のために考案した“マラソン大会”です。最初のシャルソンは「経堂マラソン」という名称で、コースなし競争なし徒歩あり休憩ありの、街や人や風景を味わう自由すぎるマラソンとして2012年2月26日に開催されました。通常のマラソンのように“ヨーイドン”でスタートしてひたすらタイムを競うのではなく、スタート(受付)時間は自由。コースを設定せず、給水やスマホの給電ができるポイントを地域の飲食店やコワーキングスペース、その他商店に設置し、走る人が立ち寄れる場所を用意しました。ポイントや地域の見どころを目指し、スマホなどでコースを探り、距離や時間も測り、午前中から夕方までをゆっくりと散策します。参加者はその間、魅力的な場所、面白い人などを発見し、会話をし、写真を撮り、ゴール後の打ち上げ(体験発表会)に備えます。

 スタート時間は決まっていませんが、ゴール時間が決められています。同じ地域を走った人が、一カ所に勢ぞろいし、ゴール後にそれぞれの体験を話すための打上げパーティをします。自分の成果を見てもらうため、スマホのランアプリでの距離と時間の計測を推奨していますが、スピードで優劣を決めることがありません。その日体験したこと、見つけたものが他の人の心にいかに触れるかを、参加者の気持ちを踏まえて優勝や各賞を決めて行きます。これを決める過程で参加者が自分たちが発見した“まちの魅力”が多くの人にシェアされていきます。

 面白い体験をシェアするという明確な目的があるので、初めての人同士でも自主的・積極的にパーティでは会話を始めます。また、参加者が同じTシャツを着用することで、開催地域の道端で初めて会った人が握手をし、会話をし、一緒に写真を撮るなどの光景が頻繁にみられます。

 シャルソンという仕組みを作るためのヒントは、フランスはボルドー地方で毎年開かれている「メドックマラソン(Marathon du Medoc)」にありました。震災後の2011年9月から私は毎年参加しています。このマラソンでは給水所にワインが置いてあり、主にワイングラスで提供されるので、走っている途中で立ち止まり、周りの人と自然に乾杯し会話をすることになります。また、仮装が基本なため、至る所に面白い格好をした人がいて、走りながら知らない人同士がずっと声を掛け合います。後半4kmでフルコースの料理が用意され、ゴール後にはさらにパーティがあり、参加者同士その日を振り返ることができます。フルマラソンを走るのですが、制限時間の6時間半、ずっとパーティをして楽しい状態が続いているような感じでした。

 一方で通常のマラソン大会は、一斉にスタートしてゴールまでのタイムを競うという性質上、他の参加者と話をすることは少ないですし、沿道の応援は励みにはなりますが交流することはほとんどありません。近年では倍率も高くなり、友人と一緒に参加したくてもできないことが多々あります。ゴール後は流れ解散でおしまいです。メドックマラソンのようなエキサイティングで交流を促すイベントが、“失われた20年”と言われ、相対的な国力はまだまだ強いのに全体的に暗い時期の続く日本には必要だと思い、考え始めました。

 メドックマラソンと同規模の酔狂な大会を開くことも考えましたが、走ることが好きな人以外も参加できるようにしたかったことと、地域活性化のためにいろいろな地域で誰もが主催できる仕組みにしたいと考え、メドックマラソンにある楽しさの要素を小さくして組み立て直したのがシャルソンです。まちで一つの居酒屋を営み、普段の営業で忙しいけれども地域のために何かしたい――そういう人がほんの少しだけ時間を捻出すれば企画ができるようにしました。

 数千~数万人単位のマラソン大会に比べると、居酒屋などで打ち上げをするシャルソンは規模が小さいですが、主催者を全国で増やし、同じ地域で複数のスタート・ゴール地点を作ることでまちの中での規模を無限に拡大することができます。(例:ある地域で定員50人の店舗が20店舗主催すると、1000人が参加することになります)

スタッフ宛のメールより
2013/9/25


牡鹿シャルソン 

牡鹿半島へ行ってきました。今年の六月以来、二度目の訪問です。

PAX Coworking のメンバーの紹介で会った方から、震災被災地の牡鹿半島でシャルソンをやりたいとのお話を頂いたのが今年の四月。六月に0泊3日で視察と住民の皆さんに挨拶に行き、昨日実施となりました。

実行委員長は、アカペラボーカルグループ・ラグフェアーのおっくんこと、奥村政佳さん。彼は震災後、ライブやテレビの収録、そして気象予報士と保育士もこなす多忙な生活の中で、牡鹿に通い詰めて来ました。地元にすっかり溶け込んでおり、おっくんがやってくれるなら協力したいと、好意的に取り組んでくれました。

牡鹿半島にはたくさんの浜がありますが、各浜間の移動は一旦山を登らねばならず、対抗することはあってもあまり連携することはないという状況にあったようです。そして二年半前に被災して、一部住民は別の浜のテリトリーに移らなくてはならなかったり、ボランティアの行き来で情報が伝わったり、これまでとは違う交流が生まれて来ているようです。能動的にそれを起こす感じではないですが、おっくんのような存在が人と人とを結びつけ、結果、浜と浜が結びつくことになっています。そこにシャルソンという、各浜を超えてランナーが移動する企画を開催しようという流れになったのです。

僕は被災地支援の一つとして、シャルソンの開催をしたいと一年ぐらい前からずっと思っていましたので、最初の打ち合わせで協力と参加を是非しようと思いました。

牡鹿シャルソンは、コミュニティの連携という意味で、大成功でした。この一回でどうなるこうなるという訳ではありませんが、やってみて分かったし、色々な人が来て楽しかったから次やるときにまた協力したいと多くの人が語ってくれました。

参加人数は少なめで、特に、牡鹿住民の参加者は数人しかいませんでしたが、どこへ行っても旅人を温かく迎えるホスピタリティには、本当に感激させられました。そして、運営に関わってくれた人の大半が、ゴール後のパーティに出席してくれたので、宴会場はものすごい盛り上がりを見せていました。そして、海産物を中心とした差し入れのレベルが半端なく、東京在住の身からすると超豪華グルメシャルソンと呼ぶべき食事の内容に大満足でした。

「次はいつやるか?」「牡鹿は季節ごとにうまいものが違うから年4回はやらないと」と言う前向きな声が聞こえたことが、成功の証です。

さて、僕は個人的には各浜を線でつなぐというチャレンジをしました。牡鹿半島は結構広く、アップダウンも激しく、歩道がほとんどないので、道を歩いている人がとても少ないです。参加者もほとんどが車で移動する“ソーシャルドライビング”の様相を呈していました。

でも僕は、前回視察時に車であちこち連れて行ってもらった結果として、地理的なことがよく分からず、東京に戻ってから地図を見てもどこ行ったっけ?という感じでした。また、各地域のキーパーソンの名前と顔を一生懸命覚えましたが、断片的な情報がインプットされたに過ぎず、不完全燃焼な気がしていました。そこでそういうチャレンジを思いついたのです。

東京を朝イチで出ても、公共交通機関を使うとスタート・ゴール地点のある大原浜に辿り着けるのが12時半。それならば、ということで、石巻駅を個人的なスタート地点としました。夜行バスで9時半ごろ石巻に到着し、10時から走り始めました。

走った距離は30km超。浜と浜の間はほとんど山道なので、海岸と山の繰り返し。かなりしんどいラン&ウォークとなりました。

普段は鹿ぐらいしか歩いていない道を走っていたため、たくさんの人に声をかけてもらいました。歩いていると「大変だから乗ってけ」と言われ、走っていても「急いでいるなら乗れ」と言い、僕を放っておいてくれません(笑)。「線でつなぐ」という目的があったので、好意をお断りさせて頂きましたが、毎回すごく嬉しかったです。このことを感激とともに牡鹿の人に伝えると、震災前はそんなことしなかったそうです。ボランティアの人が出入りするようになって以来、そういう変化もいろんな場面で見られるそうです。

最初の目論見では、石巻駅から鮎川浜まで行くつもりでした。しかし、上述のように道端で声をかけられては話し、給水ポイントや集落でも誰かと話しているうちに、時間はどんどん過ぎていきました。

結局、スタート・ゴール地点のある大原浜の少し先まででタイムアップでした。

「石巻から走っている人がいる」というのはなぜか色々な人に伝わっていました。キャンナスというNGOがおらほの家でやっていたお年寄りの寄合では、走ってきたことをものすごくほめたたえてくれました。

ゴール後の宴会で走ったコースについて話をしたら、震災当日や翌日、破壊された道路の中を、歩いて戻った人がたくさんいると教えてくれました。僕はただ、地理的な感覚を自らの足で移動することでつかみたかっただけなのですが、図らずも彼らのしたことを追体験することになったのです(今は道路がきれいになっているし、不安の中で歩いたであろう被災者の状況とは全く異なるのだけれど)。

2013/9/29


インド・バンガロールより

家族を全員連れて、インドの兄宅を訪れています。バンガロールは、付近の観光資源がほとんどないようですね。不確かな情報として、ドリームランドという"Disneyland-like amusement park"に行ってみたら、全然別の再開発が進んでおり、ただの工事現場でした。62フィートのファラオもありませんでした。

さて、日本からコンタクトを取っていた、Bangalore Coworking Hub というコワーキングスペースを訪ねてみました。レストランがいくつか並ぶ目抜き通りの近くにあるようなのですが、細くてゴミだらけの道だったので、ここにホントにコワーキングがあるのか…と、正直思いました。でも、Google mapの指示に従うと、実際ありました。目抜き通りというのは、後から受けた説明で知ったのです。車に乗せられ、ほらそこにもここにもレストランが、と言われても実は他の通りと違いがよく分かりませんでしたが。

アッサム出身のドンさんが一年前に始めたスペースでした。スタートアップを集めて、規模が大きくなったらオフィスを紹介するような形で運営しているそうですが、本音としてはインドに進出する小規模企業を支援しつつ、人材確保の手伝いもしたいとのことです。

雑居ビルの3階にあり、看板なども特になし。全て固定席で、25席ほど。業種ごとに部屋を割り振るような感じで、スペースオーナーとして、紹介やアレンジをしているみたいです。印象としては自発的なコミュニティという感じはありませんでした。オフィスを安く借りられ、紹介まで受けられる
ということを一種のウリにしているみたいです。

ドンさんは僕より一回り歳下の26歳。バンガロール在住8年で、不動産やマーケティングをキャリアにしてきたそうです。

バンガロールにはほかにもいくつかコワーキングスペースを名乗るところがあるそうですが、それぞれの連携などはなく、かなりシェアオフィスに近いものみたいです。

ドンさんと話して面白かったのは、僕がコワーキングの下の階でレストランを経営していると言ったら、同じことを考えていて、今新しい物件を探していると言ったこと。方向性としては、懇親を深める仕組みの醸成や、イベントを開きやすい場所を持つのが目標だそうです。

僕も、もっとワークスペースと食事の場所がシームレスにつながるようにPAX と paxi を捉え直すつもりです。

2013/10/6


デリー〜アグラ珍道中

英ブラッドフォード大学の大学院で平和学を学んでいたときの友人の結婚式に出席するため、10年ぶりにインドを訪れています。大きめのパーティの合間に空いた時間があったので、約200km南にある街・アグラを訪れています。

Oberoi Amarvilasという、タージマハルが最高によく眺められるホテルに泊まっています。ここのホスピタリティは別格。この空間に来なければ理解できないだろう不思議な心地よさに包まれています。インドは貧富の格差が激しすぎることはよく知られています。とことんまで切り詰める貧乏旅行を学生時代にはしました。少しお金を払うと、そういう所謂インド的な猥雑さを隠してくれるサービスに出会うことを、昨日までの一週間で学びました。そして、Oberoiではさらに独自の世界を作りあげているということを知りました。タージマハルに来るのは13年半ぶり。同じアグラでも、全く異なるレイヤーに、入り込んでしまったようです。

さて、とはいえここに来るまではトラブル続きの珍道中でした。インド旅は5回目で、これまでも色々ありましたが、ナンバー3(あえてワースト3とは言いません!)に入ると思います。

今回は2日間、車をチャーターしてデリー〜アグラを往復しています。人数も多いので、大きめの車をお願いしたら、来たのは14人乗りの巨大な車。デリーのホテルでそれが自分たちのものだとは露ほども思わず、また、ホテルの人たちも全くそうだとは思わず、「車が来てないぞ!」というところから
始まりました。

出発してすぐにウトウトしてしまい、起きると、「なんかヘンな道を通っているのではないか」と家族が心配していました。ドライバーは英語がほぼ全く通じないので、質問しても分からず。しばらく走った後、とあるガソリンスタンドの横あたりに入って行き、10分後ぐらいに帰ってきました。

何してたの?迷ってるの?と聞くも話は通じず。パーミッションを取って来たというようなことを言われ、混乱の中に巻き込まれました。(後で兄に確認したところ、州を越えると税金が違うので、ロードパーミットが必要だとか。デリー⇒アグラは200km強なので、2時間半ぐらいかなと思っていましたが、それを取得するために随分な距離を走ることになるので、順調に行っても、もっともっと時間がかかります。)

さて、高速道路に入る前ぐらいから、ドライバーが車の右後方を気にしていました。どうしたのかなと思ってはいましたが、彼は何か違和感を感じていたようです。

高速に入り、そろそろスピード出して行って欲しいと思っていたその矢先に、パァァーンと派手な音がしました。その瞬間、車が大きく揺れ、左側に傾いたため、車は急停車しました。降りてみると、タイヤが派手に破れていました。

車を路肩に止め、(ちょっとボロボロの)スペアタイヤと交換です。なぜかスムーズに交換できず、落ちている岩を使ったりしながら25分ほどで交換が完了。ゆっくりと走り始めました。

いつまで経ってもスピードを上げず、路肩走行のまま。乗っている僕らもヘンな揺れを感じつつ、心配していました。ごまかしごまかし、数キロ走り、パーキングのようなところにも入りました。異常なしということで、ずっとゆっくりと走っていましたが、また揺れが尋常でなくなり、ストップ。

ドライバーは交換したばかりのタイヤを念入りに確認していました。路肩にいた別のインド人が右後ろのタイヤを指差し何やら騒ぎ始めました。見てみるとすごく大きな釘が刺さっていました。

どうするんだろうと思っていたら、そこはタイヤ修理屋さんでした。高速の横に使い古したタイヤが3本ほど掲げてあり、それはタイヤ交換や修理ができるという意味のようでした。全く知らなかったし、それまで見えなかったです。後でよく見ると、コンプレッサーの線も来ていました。本体の店は、高速から下に10mぐらいのところにあるボロ家です。

当初からドライバーが気にしていたそのタイヤを外し、下のボロ家で修理。一時間弱後にはまた走り始めました。

これでトラブルは終了。アグラでランチしようと約束していた兄の一家とは会えぬままで残念と思っていたら、到着時間が大分遅れるにも関わらず、道中で会おうということで、ドライバー同士に電話で連絡を取り合うよう指示してくれていました。

結局、何もないような道端で、兄一家と再会。10分ほどバンガロールでお世話になったお礼をしたり、また次の夏に遊びましょうと子どもたちが別れを惜しんだりしていました。

そして、ではそろそろ遅くなるからと…車に乗り込もうとしたら、最初に替えたスペアタイヤがまたまた凹んでいました。気づいたドライバーは、大慌てで車の下に潜り込み、修理を開始。しかし、替えのタイヤがないのは分かりきったこと。それからデリーに家族とともに行かなければいけない兄が僕たちを気遣ってくれて、兄たちが乗ってきた車でホテルまで(片道15kmぐらい)行ってこいと言ってくれました。

インドでのトラブルだからとホストとして各所への連絡を含めさまざま動いてくれました。荷物を運び込み兄の言葉に甘えて出発しようとしたら、そこからがまたインクレディブル・インディア。

なぜか兄の方のドライバーの知人が通りかかり、その車でホテルへ向かえることになりました。

さて、代替車云々の話にもなりましたが、ドライバーは朝までに直すということで、修理に励んでくれるそうです。車がくるかどうかは、神のみぞ知る。

3回のパンク…でまだまだ終わらない、インド珍道中。

2013/10/7


再会

昨日、一年半前にパクチーハウスを飛び出し、昨年9月から川崎市平間でスパイス料理と日本酒、ベルギービールの居酒屋『宙』のオーナーシェフとして活躍している中村宙樹くん(宙さん)が久しぶりに来パクしてくれました。

自分の店を開いて1年が経ち、料理人に加えて経営者の顔が出てきた感じがしました。久しぶりに話をして懐かしかったのですが、僕がかつて書いた文章について話してくれました。

「旅の出会いは素晴らしいが、それだけ。もう一度会えるかどうかが大事」という趣旨の話なのですが、いろいろなところを旅し、いろいろな人に会えば会うほどそのことを確信しています。

僕の会社でもこれまでたくさんの人が仕事をしてくれました。組織をうまくまとめることができない僕に呆れて退職した人もいますし、事業縮小で不本意な辞め方をさせてしまったこともあります。宙さんもまさにそのひとり。冒頭に「飛び出し」と書きましたが、ある日の夕方「ちょっといいっすか」と僕を呼び出し、「もうさすがに我慢できない」と営業が始まる前のまかないの時間に帰ったのです。

その時の結果は変わらないにしても、お互いが、それぞれの場所で活動し、活躍し、また時には失敗もあるでしょうが、僕の会社の中で力を尽くしてくれた仲間と、また会うことは無上の喜びだなと思いました。

2013/10/10


再び見ゆ

(宙さんとの再会のことを書いたので、古い文章を引用。2002年のユーラシア大陸横断 酒の旅より)

北京では一年ぶりの劇的な再会を果たした。昨年の「ユーラシア大陸横断(酒の旅)」で、友を訪ねることや良き友との再会の素晴らしさを確認した。そうした経験のためか、昨年の帰国後、以前よりも筆マメになった気がする。印象に残る話しをした人や再び会いたいと思った人にはできるだけ連絡をとるようにした――面倒でも、出会ったそのときの気持ちが薄れないうちに、なんらかの連絡を取ってみる――小さな努力が新た
な感動の種となり得るから。

その甲斐あって、昨年イルクーツクで会った人物と、北京で再会することになった。一緒に旅行する場合を別にして、一年を経てまた同じような地域を旅するというのはとても珍しい。しかし、偶然というものは、えてして、起こるものである。
その彼はスウェーデンの大学で環境の勉強をしている。この夏、偶然にも大学から研究費が下り、モンゴルでリサーチをすることになった。そして、僕は偶然にも中国からシルクロードを旅することを決めていた。
お互いにその事実を知ったのは、僕が旅立つ数日前だった。ネットカフェで何度か連絡を取り合い、北京で半日ほど会えることになった。

約束の日。
僕は神戸から天津へ行く船「燕京號」で知り合った友人たちを連れて、北京国際飯店のロビーに行った。そこには見たことのある顔があった。再会の喜びも束の間に、僕らは語り始めた。「久しぶりだね」という言葉よりも、意見を述べ合うことが僕らには重要であった。形式的なことはいらない。いわゆる常識や世間体に囚われずに、自分の信念を貫くにはどうすればいいか、というのが昨年から続く議論のテーマであった。そんな議論の中に、一年間の自分たちの行動を織り込んでいった。半日という時間は、もちろん、短すぎた。しかし、会う時間が3日であっても、一週間であっても、同じだと思う。話というものは尽きるものではない。

出会うべき人には「いつか」「必ず」出会う。旅を繰り返すうちに、こうしたことに思い至った。人類の数に比すると出会う確率はどうしても低いので、全ての出会いは「偶然」に思える。しかし、あるタイミングで同じ場所に居合わせるのは、それが必然だからに他ならない。興味・関心や意思に共通点があるからこそ、同時にその場所に居合わせることができる。出会いは「偶然」ではなく、生き方に従って生じる「運命」である。

再会に関しても同じことが言える。特に国を隔てている場合、会おうと思うことと実際に会うことが結びつきにくい。距離だけでなく、時間的・金銭的な制約もあるからだ。また会いたいと単に思うことだけではなく、お互いに共通点を持ち、会うことによってお互いに高め合えるエネルギーを持っていることが再会に必要な条件となる。一人と一人が出会うとき、二人分以上のエネルギーを生じることがある。お互いが必要としている関係というのがその条件であり、そうした人との出会いが必要な人との出会いということになる。

エネルギーを生み出す人同士は自然と引きつけ合うのだろう。似たような目的・意思を持っているから当然でもあるが、出会うべき人に出会い、再会すべき人には再会できる。

北京駅で、二度目のお別れをした。「再見」という、中国語で「さようなら」を意味する言葉を口にしながら、短いながらも深い意味を持つ素敵な単語だと思った。心が震えた。次に会う約束をしたわけではない。しかし、必要な時には「再び見ゆ」ことになるだろう。小雨の降りしきる中を早歩きしながら、そう確信した。

宿に戻ると、さらに驚くべき出来事が待ちうけていた。ロビーに見覚えのある顔を発見した。昨年、モンゴルの草原で3日間ともに過ごした旅人だった。メキシコ在住の彼と、こんなところで再会するとは夢にも思わなかった。しかし、現実に会うことになった。草原からウランバートルに戻った後、連絡先を交換する間もなく、別れてしまった。旅人として共有できる感覚が多く、ぜひまた会いたいと思わせる人物ではあったが、そのときはタイミングが合わなかった。

しかし、「再見」は果たされた。出会うべき人には「いつか」「必ず」出会う。旅の経験を通して思い至ったこの命題は、旅を繰り返す度に事実となっていた。再見。また会おう、いや、また会えるさ。

2001年執筆


ゼロ

人が新しい一歩を踏み出そうとするとき、次へのステップに進もうとするとき、そのスタートラインにおいては、誰もが等しくゼロなのだ。つまり、「掛け算の答え」を求めているあなたはいま、「ゼロ」なのである。

そしてゼロになにを掛けたところで、ゼロのままだ。物事の出発点は「掛け算」ではなく、必ず「足し算」でなければならない。まずはゼロとしての自分に、小さなイチを足す。小さく地道な一歩を踏み出す。ほんとうの成功とは、そこから始まるのだ。
(堀江貴文『ゼロ--なにもない自分に小さなイチを足していく』より)

僕がイギリスから帰ったちょうどそのときに、ライブドアは近鉄買収の話で注目されていた。2カ月間家にこもって終始論文を書き、それを終えたころ、インターネット初の報道機関としてのニュース部門を立ち上げると発表し、募集を始めた。イギリスの大学院で日本人としての視点を問われることが多かった。当時は新しい情報としては新聞社のウェブサイトを眺めるしかなかった。しかし、そこから得る情報と世界各国の人が見る日本観があまりに違いすぎるということに気づいた。

漠然と「そうじゃないメディア」って作れないかなと思っていた。その後創刊するクーリエジャポンは僕の中のイメージに近かったと思う(最近は読んでいない)。修論を書き終えて、さてどうするかなと思ったときに、ネット初の報道機関を作るという募集を見て、すぐに応募。そしてライブドア・ニュースに入った。

ニュース部門の立ち上げから閉鎖まで・・・ということを、激動の中で体験できたこともよかったが、ライブドアという会社に、「起業する」強い意志を持っている人がやたらといたことが、僕がそこに入った価値だったと思う。事業プランも根拠もない段階で「起業する」と言っていた人を、最初の半年ぐらいはなにいっちゃってんのと思っていたが、次第に自分もそういう気分になった。会社を創って6年以上経った今では、根拠がなくてもパッションを持つべき、行動することで世界は開けると思っている。

2013/10/11


COEDOビール祭に参加

体育の日の14日、コエドビール祭に食ブース出店者として参加してきました。昨年は、店の営業と同時にやったのですが、社員スタッフみんなで行きたいという意見もあり、店を休んで行くことにしました。

準備の段取りも分からないので、数日前からスタッフみんなで我武者羅になって取り組みました。前日は夜2時半までパクチーを洗ったり、タマネギを刻んだり。

そしてまた朝6時半に集合し、レンタルしたワンボックスカーに荷物を積み込み埼玉スーパーアリーナのけやき広場へ。昨年と同様早めに行ったので、このときばかりはゆったりと準備ができました。買い忘れたものがちょこちょこあり、走ったりもしましたが。

開始予定の正午より少し前に、開会宣言でスタート。最初の数分は慣れない業務にそれぞれ戸惑っていましたが、4人で役割分担がうまく行き、それなりにスムーズに提供ができました。ヤンパクを担当した桑原くんが特に、途中からテンションを上げ、「パクチー オン!」なるパフォーマンスで盛り上げてくれました。

今回出したのは、
・ヤンパクドック
 大人気のヤンパクを、ホットドックパンにはさんで提供。片手にビールを持った時の食べやすさ重視でこういうスタイルにしたものの、ビール大好きな人たちには、炭水化物でなくビールでお腹を満たしたいという気持ちがあるようで、3時過ぎから「パンなしで」という要望が相次いだため、パンなし肉増量というオプションで提供。つまみという観点では、通常のヤンパクスタイルがいいかもと思いました。
・トルティーヤチップス&パクまあげ
 ご存知TACO PAXの手作りチップスを揚げた絶品に、これまたパクチーハウス東京人気のパクまあげを組み合わせました。今回の中ではあまり人気がなかった印象。商品名を聞いてイメージしにくいことと、見かけの目新しさもないため。また、別々に買えるオプションがあってもよかったと思います。パクまあげ(旧名:タイ風さつまあげ)は、これを機にタイとかさつま揚げにとらわれないネーミングに変えようということになった。外に出て違う売り方をするとこうしたアイデアが出るのもいいところです。
・トムヤム砂肝
 ビールに合いそうということで、次々に売れて行き、最初に売り切れてしまいました。ビール党は一般よりも砂肝を好むかもしれません。トムヤム砂肝を好意的に評価する人がとても多く、ぜひともまた持っていきたいと思いました。

翌日、WEB料理通信というたまに目を通しているメルマガを開くと、冒頭にこのトムヤム砂肝のことを書いてくれていました。編集部5人でコエドビール祭に行き、楽しんだそうです。

<引用ここから>
驚いたのは、フード屋台のクオリティの高さ!

どれもおいしくいただきましたが、中でも全員が虜になり、何皿もおかわりをしたのが、経堂「パクチーハウス東京」の『トムヤム砂肝』。薄切りにした砂肝に、甘辛いタレ、パクチーの香り。ビールが止まらないじゃないか!と文句のひとつもつけたい気分(笑)

店に掲げられた「No Paxi, No Life!」(ノーパクチー、ノーライフ)というメッセージも、我々の心をとらえたのでした。

おいしいつまみがあるって、幸せですね。食べもので誰かを幸せにできることも、幸せです。
<ここまで>

このメルマガのタイトルが、「おいしいつまみは、人を幸せにする。」だったこともすごく嬉しかったです。思わず、編集部の方にメール返信をしました。メルマガって返信してやり取りをしたり、返信が後のコンテンツに反映されることが一つの価値だと思うんです。だから、僕も返信がほしいのですが、読者の側に立ってみると、こういうきっかけがないと返信はしないですよね。そういう意味でもいい機会でした。

店に戻った後、レンタカーを返して片付けが終わったのが9時過ぎ。いつもより3時間ほど早かったので、一緒にフェスに参加した4人で洋食バル「ウルトラ」とドイツビール専門店「インゴビンゴ」でたらふく飲んで帰りました。

とてもいい時間を過ごせました。店としての新しい経験としても、スタッフとの大事な時間としても、気分転換としても。

コエドフェス、今年で7回目だったようですが、昨年よりたくさんの人が集まり、盛り上がり方もスゴかったです。会場にいる人の笑顔の数の夥しさ! こんなイベントを開催できる会社を目指したいと思いました。

2013/10/16


台風の価値

昨日は台風で、予約の3/5がキャンセル。来てくれた方も、いそいそと家路を急ぐ人が多く、売り上げは散々でした。しかし、こういう日こそ、お客さんと話ができるチャンスであり、昨日も素晴らしい出会いがありました。

予約なしで来てくれたのはたったの一組。どこに座ってもよかったのですが、僕がいるカウンターの目の前に座ってくれました。

カップルで仲良く食事をしていてくれたのですが、パクチーハウスの料理が一風変わっていることや、トイレなどにある掲示物が面白いと思ってくれたらしく、たくさん質問をぶつけてくれました。

やり取りの中で、女の子の方が気仙沼に引っ越すということを言っていたので、聞いてみると、勤めているNPOの仕事の関係で数年間行くことになったとき。また、相方の方は実は気仙沼出身で、津波で実家が流されてしまったそうです。

パクチーハウスのことを色々聞かれていたので、そこから派生したコワーキングやシャルソンのことも簡単に解説しました。そしてそんな話が出てきたので、僕が今考えているウルトラシャルソンについても話し、賛同を得ることができました。

震災後、東北には5回行きましたが、気仙沼にはまだ訪れていなくて、また、伝手もほとんどなかったので、この地域にかかわる人とのつながりができたのは、実行に向けてとても大きな力になりそうです。

しかもその女の子。つい最近、NPOにかかわる人に会うために福岡を訪れ、その縁で元スタッフで現在糸島に住む志田くんに会ったと言っていました。そこで、パクチーハウスの話を聞き、来パクすることになったそう。

台風でなく、満席のままだったら、彼らは座れないからと帰ってしまった
かもしれません。立ち飲みスペースに入ってくれたとしても、そこまで
話ができなかった可能性が高いです。

持つべきものはスタッフであり、友であり、お客さんだなぁと思いました。

2013/10/17


毎日熱いメッセージを送り続ける

仙台へ行ってきました。表向きの理由は仙台シャルソンへの参加。企画段階からいろいろアドバイスをしていたこともあり、ぜひとも行きたいとは思っていたけれど、今月シフトの調整がつかず、ほぼ毎日パクチーハウス業務に入っているため、たまの休みぐらい家にいて家族と過ごそうとも思った。家族を仙台に連れて行くかとも考えていた。しかし、雨もあり家族帯同は残念。それでも仙台に行きたいと思ったのは、仙台で飲食店9店舗を経営する右田哲朗さんと話がしたかったからだ。

右田さんとは5年近く前に、飲食コンサルの鬼頭宏昌さんの勉強会で出会った。その中でのディスカッションと、その後の飲み会でとても強い印象を受けたのだが、再会できたのはそれから2年半後。東日本大震災の後の5月、東北大学医学部の先生の手伝いを頼まれ一週間仙台および南三陸に滞在したときのことだ。友人の梅津勇くんと飲む約束をして、右田さんの店を選んだ。

まだほとんどの店が営業していないか、さびしい状況だった中、店内は活気に満ち溢れていた。仙台に住む梅津くんもすごく驚いていた。右田さんの会社名は「元気と情熱株式会社」というのだけど、まさにその名の通りの空間ができていた。

それから、Facebookでつながることになり、彼が書くブログを読ませてもらっている。また、今年の春にパクチーハウスに来てくれたので、その際には深夜までお話させてもらった。飲食店経営の大先輩であり、とてもたくさんのアイデアをもらえる人だ。

仙台行きを迷っているときに、タイムラインに彼のこんな言葉を見つけた。

「二週に一度は全体ミーティング。
 二ヶ月に一度は、社員個人と必ず面談かさし飲み。
 毎日必ず熱いメッセージを社内ラインで送る。
 今年初めから続けてきた。
 今年、会社つくって12年目ではじめて社員退職者ゼロになった。」

うちも人の出入りが常にあり、そういう意味であまり安定している会社とは言えない。独立して店を開く人がそれを実現している場合もあるけど、必ずしも双方納得のいく形でなく会社を去った人もいる。

給料を払う以外に、いろいろなことを教えてたいと思っているのだけど、なかなか興味を示してくれなかったりして、それをそのままにしてしまうこともある。営業マンが売れないのは、売れる前に諦めるからだと自分の経験からも思うけれど、経営者が人を引っ張れないのは、試行錯誤の名のもとに、自分の考えを伝えきれていないのが原因かもしれないと、右田さんの「毎日必ず熱いメッセージを」というところで思った。

だから、もっと彼と話したいと思った。

昨日、午後3時に彼の店に着いて、その後シャルソン参加者が次々に来店。最大10人ぐらいになって4時ごろにはみなさんゴールに向かって走って行ったけど、僕は右田さんと5時20分まで語った。非常に有意義な時間を過ごさせてもらった。彼が今年初めからやり始めて続けていることを、僕なりにパクらせてもらうことにした。

2013/10/21


祝 社長就任!

友人の小森良介くんが、まぐまぐの社長に就任しました~。
おめでとうございます。 パチパチパチパチ。

彼とは岸田という共通の知人がいて、大学時代からニアミスしていたのだが、出会ったのはまだ4年ほど前。

新卒で富士通に入社したのが僕と小森との共通点で、一年後輩にあたる。彼の最初の赴任地・福岡で僕の同期と同じ部署になった。その頃も岸田から話を聞いていたが、会うに至らなかった。同期からも「まぐまぐ作ったやつがおるで」と聞いていた。

パクチーハウスを立ち上げた後、ようやく初めて会うことになり、過去に聞いたいろいろな話がつながった。そして、今日に至るまで、いろいろな場所でいろいろな時間に飲み語って刺激を受けている。

メドックマラソンに参加したのは彼のおかげ。初めて僕が出る前は、小森の方がたくさん走ってたなー。今は全然走っていないみたいだけど(痩せてる)、僕が今走るのにハマってる大きな原因の一つが小森だ。

また、メルマガという情報伝達手段についていろいろ教えてくれ、この有料メルマガを始めたのも、小森のおかげ。彼が社長になることを考えたことはなかったけどね。2週間ぐらい前、夜12時ぐらいから飲んだときにそっと教えてくれた。

いろいろなところで仕事して、活躍する姿を見て刺激になっている。会ったばかりのころに、「どこでもできる仕事だから」と言って、国内外のいろいろなところで滞在しながら仕事していたりもした。これまでも、これからも、刺激をくれる奴だと思う。

社長就任を機に、有料メルマガ始めるんだろうなー。また近々一緒に飲んでお祝いをいいたいと思います。

2013/11/1


お客さんの力を引き出す

おはようございます。11月です。6周年を迎える(20日)月でもあります。パクチーハウスのコンセプト強化を、7年目はしていきたいと思っています。

昨日、象徴的な出来事がありました。12月1日にデビューするミュージシャンのハチくん(八桁圭佑くん)が来パク。最近結婚したお客さんがいたので、彼女にお祝いの歌を歌うというのをきっかけにして、ハチくんのデビューCD収録曲「空にパクチー」(原題:空にピース)を歌ってもらいました。

面白い人、素敵な夢を追っている人がいれば、その人を紹介したり活躍のきっかけとなるステージを作りたい。パクチーハウスを立ち上げる前から事業計画にそういう旨のことを書いています。突然ライブが始まったとき、促してあげないと多くの人はなかなか乗り切らないですが、ある一線を越えさせてあげると、喜びと楽しみが倍増します。

店全体を盛り上げるため、まず、我々スタッフが積極的に雰囲気を上げて行くことが必要です。営業の最中にやるので、注文が入ったり、料理を出さなければならなかったり。同時並行でやるのですが、店で起こっていることに強く関心を持ってください。

ホントはフィールドに出て、みんなで歌って踊るぐらいがいいんだけど、現実的ではないので、声を出したり、拍手をしたり、その場でできることをしていきましょう。

昨日もライブの後、「パクチーハウスに来てよかった。最近調子が悪かったのですが、吹っ切れました」と言ってくれる人がいました。

お客さんは、さまざまなものを持っています。お客さんの力をどれだけ引き出すことができるか…。これがパクチーハウスにおける接客の真髄です。

スタッフ宛メールより
2013/11/2



ソウル市庁訪問

ソウル市が全面協力した「Reshaping the way we live」というイベントに招かれ、ゲストスピーカーの一人として講演してきました。

韓国を訪れたのは、今年2月の社員研修(釜山)以来。
http://www.youtube.com/watch?v=IlsEFLN5V3U
ソウルを訪れたのは、10年前にNANTAを見に行って以来。

初日、プログラムの中に「ソウル市庁見学」というのがありました。学生時代、初めての一人旅(1994年)で韓国を訪れたときに、市庁に近い大元旅館に泊まりました。別に観光に来たわけでもないし、それほど期待せずに連れられるがままに行ったのですが、まず建物に驚いた。

僕が知っている市庁はすでに保存された建物になっており(現在は図書館
でした)、その裏側に超モダンな建物が建てられていました。外から見ただけで、ワクワクします。市庁と比べると浮いていますが、ソウルもビルだらけの街になりましたので、それはそれで・・・。

市庁見学のためのルートの多言語による案内書ができています。今回は、僕が出席したカンファレンスのゲストたちを対象に、市の担当者が案内してくれました。

市庁舎内には、「市民聴」という公共空間があります。市民の考えを自由に創造的に表現するための、市民による、市民のための、市民が主人公になる空間だそうです。ソウルのパク市長は、「Citizen is the Mayor」(市民こそが市長だ)と表現しており、市民の声に耳を傾け疎通することがソウル市の意思であると言っているそうです。

ソウル市は「ソーシャルイノベーション」を強く意識した都市だとされています。「ソーシャルイノベーション」とほ、都市を継続的に発展させていくために、常に社会が変化し続けなければならないという考え方です。伝統の保存も大切ですが、都市の将来のために、持続可能な活動を、ソウル市は積極的に支援しているそうです。

市庁舎の多くの部分が見学できるようになっていました。パク市長の部屋も例外ではなく、市民からのアイデアが付箋ではられており、市長室での会議はすべて録画・録音され、公開されているそうです。

東京都も、こういうの、やればいいのにと思いました。

ソウル市長と僕(笑):
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=688896807796294

2013/11/10


Wantedly 仲暁子さん

Wantedlyというソーシャルリクルーティングサービスがありますが、創業者の仲暁子さんの「TedEx Kyoto」でのスピーチが全文書き起こしされていたので読みました。内容から考えたことをシェアします。

> キーは「計画を立て ない」ことだと思 います。世の中の
> 多くの人は、10年~20年先のキャリアパスや自分の人生の
> 計画を立て、そこから逆算し「自分が今何をすべきだろう?」
> と思い悩んで、勉 強したり転職活動をしたりします。でも、
> そうではないんです。自分の立ててしまった目標以上の
> それを超えることは出来ないと思います。

計画を立てると、それに対して邁進していくことはできるので、結果としてそれは達成できます。計画を立てる意味はあると思います。

その上で、自らの枠組みを超える、とか、刻々と変化する社会の一歩先を行くためには、ある時点で頭の中にあったことだけを実行するだけでは達成できません。例えば、一年後に、一年前に予想している通りのことをしていたら、成長してないのだと思います。

ちょうど10年前に「Planned Happenstance」という理論について紹介したブログを読みました。

僕は最初に就職した富士通で、関西地区の採用責任者をやっていましたが、どうしてもしっくり来ず、自分のやるべきことではないと感じて2年半で退職しました。その後もだいたい2年半周期で仕事を変え、まさに思い悩みつつ迷走していました。

この理論を知ったときは、それゆえに共感。その後株式会社旅と平和を創り、いろいろなお客さんや起業家に会うにつれ、実感を持ってその価値を感じています。

とりあえず折り合いをつけるのでなく、見つかるまで探し続けるのが大事!

スタッフ宛メールより
2013/11/15


四国コワーキングフォーラム

一泊二日で、香川(高松)、滋賀(瀬田)、兵庫(神戸)へ行ってきました。

四国では今年の春ごろから、経済産業局の支援のもと、コワーキングで四国内の機運を盛り上げるとともに、四国外からの人の流れを作ろうという動きがあります。

その一環としての「四国コワーキングフォーラム」が26日に開かれました。

「基調講演」を依頼され、最初に一時間、僕がコワーキングを思いつくに至った経緯、誰も知らないころからの取り組み、日本での盛り上がり、そして海外の仲間とのネットワークができる過程についてお話させていただきました。

現在、四国には約10カ所のコワーキングスペースがあるそうです。韓国全体と同じような感じです。これからスペースを作りたい人、使いたいと気になっている人、そして自治体の人などが集まっていました。

早くからコワーキングを始めた人たちが、こうしたイベントをきっかけに地域での認知度を広げ、これから加わる人たちを率いていくと思います。四国新聞、朝日新聞、愛媛新聞の記者さんたちが来られていました。

コワーキングスペースにおいて始まるコミュ二ケーションとその意義について、熱く語らせていただきました。利用者同士の関係について、どこまでコミュニケーションを促すべきか悩んでいるスペースオーナーも多いようで、講演の後に「原点に戻ってコミュニティづくりを強化したい」とおっしゃってくれる方が多かったです。

僕の講演のあと、四国のコワーキングスペース運営者とコワーカーたちが、四国での事例を紹介してくれました。それぞれが努力をして、スペースを発展させているのだなと思いました。運営者が強いパッションを持ち、それにコワーカーが協力していく。そういう体制ができているところは盛り上がっているように思います。

最後にワークショップ的な形で、参加者のみなさんとディスカッションをさせていただきました。全部で5時間弱の長いイベントでしたが、とてもいい時間を過ごすことができました。

2013/11/28


船旅Jelly

四国コワーキングフォーラムの直前、うどんを食べる前に、高松で唯一のコワーキングスペース「Gain-Y」(がいに)をドロップイン利用しました。

「がいに」とは香川の方言で、「超」みたいなニュアンスだそうです。風呂めぐみさんという女性が開いたコワーキングスペース。それほど広くないですが、おしゃれで快適、そしている人々がフレンドリーな、僕が理想としているコワーキングスペースに近い場所です。

約束していた訳ではないですが、同じく四国のフォーラムに参加するカフーツ(神戸)の伊藤さん、Hanare(埼玉)の新妻さん、コワーキングスナフキンの西村さんがうどんを食べるためにこのスペースに自然に集まりそれぞれの仕事をしていました。

高松で僕は一泊する予定だったので、伊藤さんに泊まっているホテルを聞いてそのサイトから予約をしようとしました。そのまま予約するはずが、なぜか「船は?」という声が聞こえました。

高松から神戸は近すぎるだろうと思っていたのですが、約4時間かかります。ちょうどよく午前1時発/午前5時着というのをみつけてしまい、船で本州入りすることを決めました。

船旅の高揚感! 行くことを決めただけでワクワクします。フォーラムの後、さんざん飲んでそのまま船に乗り込む。なんて素敵なんでしょう。と言っているうちにすでにホテルと帰りのバスの予約をしていた伊藤さんがそわそわし始め、キャンセル料(ホテルは当日なので半額、バスは往復割引にならない差額と100円の手数料)がたいしたことないということで、船旅を決めました。

その後やってきた西村さんに関しては、「今日船で帰りましょうね」の一言で船旅に切り替え、すぐに取っていた宿をキャンセルしていました。さすがのスナフキンです。

コワーキングをしていると、思わぬ流れで結果が出ることがありますが、コワーキング界で「濃い」と言われる人たちと少しの時間を過ごしただけで、そんな面白い旅路が決まりました。

フォーラムの懇親会が9時過ぎに終わった後、がいにのメンバーさんたちと生ビールの充実したパブを訪れることができ、そこのすばらしいマスター(ラムセス氏)や地元の方々と知り合えたのも、それによる必然の結果だと思っています。

船旅サイコー、Jellyサイコー。

2013/11/28


神戸大学で講義

27日、神戸大学経済学部の社会コミュニケーション入門という講座で90分講義をさせていただきました。大学生に話をするのはとても好きです。でも、いかんせん反応が薄いなぁといつも思うのです。

質問がほとんど出てこない。時間をかけて絞り出すといくつか出てくるのですが。なので、気持ちよく話していても、大学の講義はかなり心配しながら話すことになります。後でリアクションペーパーを見ると、そんな反応とは裏腹に「刺激的だった」「熱い話だった」と書いてくれているのですが・・・(^^;)駒沢大学でも明治大学でも同様でした。

2-3回生がほとんどというので、就職活動の時の体験から始め、僕が事業として行っている「パクチー」「コワーキング」「シャルソン」について、それができる流れを踏まえて話しました。

今回の講義に呼ばれたのは、会社を作ってからできていった人の縁からです。パクチーハウスにお客さんとして来ていたスコップの真田くんと知り合うようになり、彼がツイッターで1/31の愛妻の日の8:09のハグタイムにハグをすると書いていたのでパクタイムでもあるからパクチーハウスでやろうと提案。そこで、彼と一緒に会社をやっている山名清隆さんと知り合いました。数年かけていろいろな仕事を一緒にやらせてもらうことが続き、昨年ヒューマンフロンティアフォーラム(HFF)という名前は怪しいけど一流の人が集まっている2泊3日の会合に参加したことで、長崎外国語大学の成瀬先生と知り合い、教育改革プログラムのアドバイザーのような仕事をさせてもらうことになりました。4回ほど長崎に呼ばれたことで、HFFでも一緒だった神戸大学の石川先生とも仲良くなり、この夏に声をかけていただきました。

ちなみに、今年5月に明治大学で講義をすることになったのは、ライブドア・ニュースにいたときの縁がきっかけ。昨年駒沢大学で講義をしたのはコワーキングの縁です。続けているといろいろなものが複雑に絡みながら、さらなる縁をつむぐのだなぁと実感しています。

呼ばれたらどこへでも行きたい。そう思いつつ、いつも過ごしています。いつでも連絡くださいね。

2013/11/29


伊賀上野シャルソン

23日の伊賀上野シャルソンに家族を連れて参加した。今月はソウル出張とシフト、その他イベントなどの関係で外泊か深夜帰宅・早朝出発がほとんどだったので、かなり距離があるので子どもたちにはキツいだろうなとは思いつつ「忍者の里へ行こう」という誘い文句で釣った。

名古屋からさらに2時間以上かかるので、移動するだけでも結構大変。でも、シャルソンを一生懸命作ってくれた伊賀上野の実行委員の人たちや、協力店舗を楽しんでくれている人たちを見て、行って良かったと思った。ほとんどが移動という旅になったが、子どもたちもタフになってきたもので、しっかり楽しんでくれた。

伊賀上野シャルソンの発起人は、安曇野シャルソン主催の篠原さんの大学時代のバンド仲間でもある後輩の森下さん。安曇野に呼ばれ、参加してみて、自分の住む街もこれで盛り上げたいと、実行を決意してくれた。5月の安曇野シャルソンが終わるころに、「佐谷さん、伊賀上野来てくださいよ。必ずやりますから」と声をかけてくれ、その後実行委員のFBグループに入れてもらったので、ずっと流れを見させていただいた。

実行委員のやり取りがものすごい量だった。自分たちの街の魅力を伝えるために、シャルソンの要素をうまく使いつつ独自性をどうやって発揮するか、少しずつ実行委員を拡大しながら議論を続けていた。今月3日の京都シャルソンにも実行委員グループで参加し、自分たちのアイデアを、実際に照らし合わせながら確認し、シャルソンの成功に向けて力を尽くしているのが本当によく見えた。

だから僕としては、何があっても行かなければと思っていたのだが、参加表明をしたら「まさか、本当に来てくれるんですか」という旨のことを返事でいただき、どうにかして家族も連れて行きたいと思ったのだった。安曇野の篠原さんと再会するのも楽しみだった。また、同じく安曇野シャルソンで知り合ったJR高山線の車掌である加藤くんも参加するというので、シャルソンの主催者や参加者がほかの街に出かけて行くという「ごトーチリレー」が実現しているのを感慨深く見ていた。

伊賀上野に到着後、まずはもくもくファームというところで子どもたちにポニー乗馬体験などをさせ、その後伊賀上野の街に戻って忍者に変装。妻と子どもが忍者博物館に行っている間に、給○ポイントを回り、伊賀上野の人たちと語った。

ゴール後のパーティでは、実行委員がパクチーを用意してくれていたり、僕が来る前にカンパクコールをみんなで練習していたりと、ものすごく歓迎してくれた。そして、企画をした人も、その日走った人も、皆が笑顔で僕に話しかけてくれたことがとても嬉しかった。

11月初旬、集客が思うように行かないということを実行委員内で議論していた。メンバーがそれぞれのネットワークを使って、市役所にある記者クラブで記者会見を開くなど(たぶん、シャルソンとしては初)、広報もとても頑張ってくれた。その結果、朝毎読の三重版と中日新聞に告知記事が出た。僕もその記者会見に電話で参加するという光栄に浴した。

楽しもうという気持ちとパッションの強さを、主催者・参加者全員から感じたいいシャルソンだった。この雰囲気が全国に伝播してほしい。だから、伊賀上野の人は全国のシャルソンに行ってほしいし、各地域の人も自分のところだけでなくシャルソンがなければ行かなかったであろうところまで出かけて、パッションを感じ、高め合ってほしいと思う。

シャルソンの開催がどんどん増えており、すべてに参加することは最早不可能になっている(日程が重なっているのもあるので)。でも、シャルソン創始者として企画段階から関わる事もできるし、多くの事例から学んでいるので、各地で地域の人が満足できるシャルソンが開催できるよう尽力しよう。

・伊賀上野シャルソン・FBページ
https://www.facebook.com/igauenocialthon
・伊賀上野シャルソン・イベントページ
https://www.facebook.com/events/250638508418091/
・伊賀上野をシャルソンで満喫
http://blog.goo.ne.jp/azumino-it/e/9be5ceaa43a6cc3cf783a6feb5395778
・ひろぼんのブログ
http://ameblo.jp/hirobonbonbon/entry-11710965898.html
・あづみんのブログ
http://ameblo.jp/azumin222/entry-11711273330.html

2013/11/30


ASEAN学生31人ご来パク

13日、パクチーハウス東京にASEANから学生さん31人がご来パクしてくれました。JENESYS2.0(21世紀東アジア青少年大交流計画)というプログラムがあるそうで、その一環で来日しているASEANの学生さんたちの中から「起業」に関心のあるグループでした。

ASEAN10カ国すべてから同時にご来パクいただいたのは初めてで、「商圏2万キロ」を標榜して世界中からお客さんが来てほしいと思っている店としてはうれしい限りでした。ちなみに、パクチーハウス東京は現在、ASEAN諸国の中ではマレーシアとタイ出身のスタッフがいます。

最初に一時間弱、僕が自分の起業に至るまでの経緯と、店を作ってからの話、そしてパクチーハウスの楽しみ方についてお話させていただきました。そしてその後、パクチーハウスの上の階にあるPAX Coworkingのメンバーと最近起業した僕の友人たちを加わってもらい、学生たちとディスカッションをしました。

僕は旅をした経験を現在のビジネスに活かそうと日々頑張っています。学生さんにもお話しましたが、僕の現在の活動の原点には世界に存在するフェアでない関係に対する疑問があります。

日本は数ヶ月アルバイトをするだけで、月単位の海外旅行ができるという恵まれた環境にあります。それぞ存分に利用させていただき、大学生の4年間のうちの約1年間を旅で過ごし、その後も会社員になったり旅人になったりしつつ現在の会社を作りました。「友達」がたくさんできましたが、「友達」の中には、僕がもう一度そこを訪れれば必ず会えるとは想像できるけど、「友達」が僕を突然訪問することは、数十年はあり得ないだろうなと思うことが何度もありました。僕はこういう現状があることがツマラナイと思っています。誰もが自分の意志で自由に旅ができる世界を作りたいです。

パクチーハウスにこんなにたくさんの国から人が来てくれたこと、そして彼らに僕の考えてきたことを伝えることができたのがもの凄くうれしいです。これからもたくさんの多種多様な人を招いていきたいと思います。

交流する飲食店・パクチーハウス東京は、人と人とが交わり、たくさんのアイデアやコンセプトが生まれる店であり続けたいです。

使用したプレゼン資料: http://www.slideshare.net/kyopaxi/20131213genesys2

2013/12/14


100日連続10km

友人の○ちゃんがFacebookで次のように書いていた。

今朝の朝ランで、100日連続ランを達成(^^ )
猪苗代65kmを完走した翌々日の9/9から継続してここまで続けられた!
連続で走るのが目的じゃないけど、毎朝10kmランを目標にして、結果として100日連続で走れたのは素直に嬉しい( ^o^)ノ
明日からも無理のないペースで続けられるところまで続けていこう!
ただ、この1ヶ月は1kgたりとも減量できてないんで、そろそろウエイトの方も結果が出て欲しいなぁ(^_^;)

100日連続というのは半端じゃできない。雨も降るし、体調も万全じゃないときもあるだろう。この100日の間に、○ちゃんはパクチー・ランニング・クラブの会合に2度参加してくれ、かなりの量を飲んで帰った。その翌日もちゃんと走っていた。

3年半前に走り始めたとき、飲んだ翌日は走らなかったら、ほとんど走る日がなかった。そのことに気づいてしばらく、飲んだ次の日こそ走ろうと決め、少しずつ走る回数を増やした。

現在は、飲むことと走ることは関連づけていないが、昨年は月平均100kmと決め、今年は毎月最低150kmと決めた。昨年は目標を達成。今年もまもなくではあるが、月平均100kmと決めると30kmも走らない月があったり。結局目標ギリギリにしかならないところに自分の意思の弱さを感じる。そんな僕だから、○ちゃんのこのポストには衝撃を受けた。

まぁ、何はともあれ、持久走大会大っ嫌いの子ども時代を経てその後も約20年もマラソン否定派だった僕が、走ることを気持ちいいと感じ、走ることで頭と体がすっきりしているのはうれしいことだ。これだけ走っている○ちゃんが、この1カ月減量できていないと書いている通り、始めたころにみるみる減った体重は、最近ではほぼ変わらず横ばいだが。

今日まで走り続けられた理由を考えてみると、以下の3つのことが挙げられる。

・一緒に走る友人の存在
文字通り「一緒に、並走して」走ったことはほぼ皆無だが、走ることを勧めてくれた友人の存在はとても大きい。特に、走り始めて走るモチベーションが特にないときに(ビールっ腹が気になる以外は)、「朝ラン&ビール」の会に誘われたことはとても大きかった。毎月一回日曜の朝に走って集まってビールを飲もうという企画の酔狂さに惚れ、それに参加するために走れる距離を伸ばす結果になった。また、ここ数ヶ月の間に、まさか走ると思わなかった友人たちが次々と走り始めている。誰とは言わないけど、予想外すぎてうれしい。
・ランニング・アプリ
iPhoneアプリを活用し始めた時期とランニングを始めた時期がほぼ重なる。走った距離や時間が記録できたり、シェアできることが自分にとっての励みになることは間違いない。地図アプリを使って知らない道もどんどん走れる。スマホを使っていなかったら、ランニングコースをぐるぐる回ることに飽きて、やめていたかもしれない。現在使っているのは、シャルソンに関して僕の会社と業務提携している runtastic。
・Glocal Cialthon
JELLYWEEEKにランニングイベントをという無茶ぶりに答える形で企画してみた“1週間で89km走る”というチャレンジは、世界の知らない人とランニング体験を共有するという、それまで想像もしなかった楽しみ方に発展した。走力も伸びるし、時間の使い方がうまくなるという利点も。Glocal Cialthonで知り合った世界の人たちと、順番に会っていきたいという夢もできた。

こうした流れの中に、○ちゃんのように素晴らしいランナーが身近にいて、さらに刺激を受けていくのだった。

2013/12/17


文明堂

昨日、城山通り手前の「つけ麺まき野」店長の高橋さんの紹介で文明堂のマーケティング部長/子会社の和蘭西葡の社長をしている方と会いました。いろいろ興味深い話を聞いたのですが、有名な「カステラ一番、電話は二番・・・」について。

かつて市外にかけるときは必ず交換手が出る時代があったときに、日本中の2番を買いあさったそうです。現代ではありえないマーケティング戦略ですが、2番=文明堂ということをイメージとして定着させるためにたくさんのお金を使い、誰もが知っているあのCMができたそうです。

パクチーハウスも89にこだわり続けます!

スタッフ宛メールより
2013/12/17


他人に見られていると倫理的になる

本田直之さんの『あたらしい働き方』( https://amzn.to/3TmXUft )を読んでいます。その中でコワーキングに通じるオフィスの面白いあり方について書かれていたので紹介します。

壁をなくし、他人に見られていると倫理的になる(pp188-191)

一般的なオフィス家具を買い揃え、一般的なレイアウトにすることで、それらが持つ型のようなものにはまってしまうのではないかと書かれています。本田さんは「あたらしい働き方」をしている会社のほとんどが、オフィス什器をオリジナルで作っていたことに気づき、こうした考えに至ったようです。

僕がPAX Coworkingを作るときにも、漠然と“アンチ一般的なオフィス”と考えていました。通常の作業は一人ひとりの境目のない大きなテーブルで、打合せスペースは丸テーブルで、立って会議できる環境も必要かな・・・などなどです。

環境は人を変え、アイデアを変えるので、一般的な空間を作るとそこから抜け出すのは難しそうですよね。

この節に出てくるチームラボという会社の例が書かれていました。取材をしているすぐ横で面接が行われていたそうです。ミーティングの中で出てきた言葉に引かれて誰かが意見をすることも。コワーキングスペースがいい状態で運営されているときに起こることと全く同じですね。

ルールがほとんどない中でも、壁を取り払い、他人に見られている状況を作ると大きな抑止力となり、倫理観が保たれるということには、完全に同意します。

コワーキングという言葉を知る前に、漠然と今でいう“パーティするように仕事するオフィス”のことを考えていました。たくさんのシェアオフィスにスパイとして潜り込んだり、アポを取って話を聞いたりしましたが、「いろいろな人が出入りするので(小さい)窃盗に注意すべき」という声が支配的でした。そのためにしっかりとしたルールを策定し、問題のある人を排除する仕組みづくりも欠かせないとアドバイスをくれる人もいました。

しかし、僕はそれにすごく違和感を感じました。そういうつもりで運営していては、“パーティするように仕事する”ことはできないのではないか。ちょうどそう思っているときに、コワーキングのメーリングリストでルールに関する議論をしていて、ルールを作らない方針のスペースやルールをA4一枚以下にまとめるのがいいという意見があり、同志に勇気づけられました。また、僕にとっては会社員時代に会社の同僚や先輩との飲み会に外部の人を呼んだ経験や、パクチーハウス東京で楽しんでくれているお客さんの笑顔から、壁を作らないことの価値を学んでいたので、今のようなスタイルに決めました。

2013/12/19


人生を愉しむレストラン

そう、それはパクチーハウス東京のこと。でありたいといつも思っている。でも、今日のこのタイトルは、本の題名。河瀬毅シェフ著『人生を愉しむレストラン』( https://amzn.to/43aTuf1 )を読んだ。

三重県伊勢市にある「ボンヴィヴァン」というレストランのオーナーシェフが書いた本。店名は「人生を愉しむ人」という意味らしい。先日、偶然この本に出会い、一気に読み終えた。

この本に出合ったのは、パクチーハウス東京のお客さんがくれた一冊の雑誌から。三重県のローカル雑誌なので、僕が手に取る理由はあまりないのだが、数週間前にいただいたので、しばらく寝かせてから読んでみた。こだわりの住宅特集だった。その中の一部で、この本が紹介されていた。

そのお客さんと会ったのはもう2年ぐらいまえだったろうか。パクチーハウス東京の店内にある立ち飲みスタイルの交流スペース「Public'S'peace(パブリック・ス・ピース)」で飲んでいるときに、話をしたのがきっかけ。その時の共通の話題が“鼻笛”だった。楽しい時間を共有したのでよく憶えている。その後、何度か店に来てくれた時にお話をしたり、ソーシャルメディアでやり取りがあった。そして久しぶりにご来パクということで、挨拶させていただいたところ、その雑誌を含むいくつかのお土産を渡してくれた。

ボンヴィヴァンは今年の9月に30周年を迎えたらしい。シェフと店のヒストリーを紹介しながら、シェフのポリシーや想いを書き綴った本だった。飲食店経営者として、そして人生を愉しみたいと常々思う一人として、とても共感できる一冊だった。

多くの人との出会いや旅で成長しながら、歴史を積み重ねていったことがよくわかる。僕は料理人ではないけれど、食に携わる者として、そして、店と客という以上の関係をお客さんと持ちたいと願いながら店を運営している者として、たくさんのことを学ばせてもらった。

シェフと奥さまがこだわりを持って人に接しているから、その二人とその店を愛するスタッフが、お客さんに自分ごととして向き合う。その結果できる接客のスタイルは、きっと僕も理想にしているかたちとなっていることだろう。ぜひ一度、このレストランを訪れてシェフとお話しをしてみたい。そのときにきちんと話ができるよう、僕は僕のこだわりを磨き続けなければと思った。

2013/12/23


日本マイクロブルワーズ協会

先日、サンリオピューロランドの帰りに、登戸にあるマイクロブルワリーに立ち寄ってみました。以前からその存在は知っていましたが、ちゃんと調べたこともなく、思いつきでふらりと。

ブルームーンというところでした。公民館のようなところに、大きなビールサーバーが置かれた簡素な作り。クラフトビール7-8種類が、常時生で楽しめるようになっています。ラガー系、エール系、スタウト系がそれぞれ2-3種類ずつ。小さなグラスだと300円から。

あまり知られていないけど、近所に住む、ここの存在を知っている人が仲間を連れて楽しみに来る場という感じだった。高円寺麦酒を訪れたときにやたらと混んでいた記憶があるけど、この場所の不便さもあるのか、そこまで混むことはなさそう。でも、寂れたバーという感じでもなく、いい形でここならではのビールが飲める店でした。

壁にいろいろな掲示がありましたが、その中で「日本マイクロブルワーズ協会」というのに目が止まりました。その活動について読んでみると、シャッター商店街の商店一つあれば誰でも簡単にビールがつくれると書かれていました。

世界中で自家醸造している人がいて、特別な設備がなくてもビールは作れるということが書かれていました。

「ビールを造る」ということは一つの夢ですし、しっかり準備して事業として取り組みたいと考えています。パクチー料理専門店をやっているので、しっかりとパクチーを効かしたすごいのを「いつか」つくってやろうと。

ビール作りの同志でいつもの飲み仲間である小森くん、田口くんらとも「ビール作ろうぜ」といつも言っていますが、特に進展はありませんでした。しかし、この秋に飲んだときに「世界中で作ってるんだから、絶対難しいわけがない」という結論に達し、「さくっと作っちゃえるんじゃないか」と話していました。

日本マイクロブルワーズ協会の活動は、まさにそれを裏付けてくれているようだ。ごちゃごちゃ考える前に、とりあえず作れということか。ビールを造るのも、ほかの事業をするのと同じなのではないかと思いました。

2013/12/24


面白い再会

先日、面白い再会がありました。

3日前にパクチーハウス東京に営業時間終了間際に来てくれたHさんという方がいました。まだ引き続き楽しんでいるお客さんはいたのですが、ラストオーダー後で食べ物、飲み物ともに片付けを進めていましたのでお断りさせていただきました。

翌日、営業開始前にまた顔を見せてくれました。3分ほど立ち話をしたら以前来てくれた人だということが分かりました。しかも、右も左も分からない、オープニングパーティのときに!

パクチーハウス東京のオープニングパーティは2007年11月17日・18日の二日間。来てくれた人は誰でもウエルカムでしたが、2日間に来てくれた約150人のほとんどは友人・知人。知名度ゼロで2Fにある店舗なのでそりゃそうですけど。一組だけ、好奇心を持って上がって来てくれたご夫妻がいました。近くに住んでいるのでたまたま通りがかったとおっしゃっていました。

なぜこのタイミングで再訪してくれたかというと・・・。

3週間ほど前、妻の大学時代の友人たちの同窓会をパクチーハウスでやりました。フラメンコギタリストのカニサレスとその奥さん(妻の同級生)が、コンサートのため来日したからです。

彼らが経堂駅に降り立ち、初めてパクチーハウスへ行こうとしたとき、Hさんとたまたま遭遇。パクチーハウスまで道案内してくれたそうです。Hさんはカニサレスの奥さんのお父さんの会社の親しい同僚で、コンサートがある度に聴きに行っている方でもあるそうです。

久しぶりに店の前まで来ていただき、6年前のことを思い出してくれたのだと思います。その立ち話のときに年内予約が埋まっている旨をお話したところ、年明け早々にトライしてみると言ってくださいました。

・・・と言ってくれましたが、その翌日に来パクしていただき、予約のお客さんの合間にご家族で食事を楽しんでくれたそうです。僕がいないタイミングだったのでお会いできず残念でしたが。

気づいていないところにも縁がたくさんあるのだと思います。店の営業を積み重ねれば積み重ねるほど、そうしたものがどんどん表出してくるのでしょう。

2013/12/29


2013年各月の思ひ出

1月:ドイツのAnni Roolfさんらと3年前からやってきた Worldwide JELLYWEEK内の企画として「Glocal Cialthon」を立ち上げた。「一定期間(初回は一週間)に89km走る」という個別のチャレンジを世界中でつなぐというシンプルなものだが、毎回欧州や中南米からも参加があり、静かに盛り上がっている。2013年は1・3・6・8・9・12月と計6回開催した。世界中の人のランニングに関するチャレンジをつなぐことと、89を平和の数字として89=パク=PAXというダジャレを世界に広めることを目的としている。
https://www.facebook.com/Glocal.Cialthon

2月:社員を連れて釜山へミステリーツアー研修を行った。以前からスタッフを海外に連れて行こうと思っていたが、初期投資の回収ができ利益がある程度確保できるようになり、実現に至った。今後も年に最低1回、できれば2回は実行していきたい。スタッフを旅に連れて行きたいし、スタッフが休みを取って自分たちの意思で旅できるような体制を作りたい。カオサン東京の小澤さんとやっている旅人経営者のテーマでもある旅人を旅人のまま雇用する仕組みづくりも実現させたい。
https://youtu.be/IlsEFLN5V3U?si=WO7IVFMoG9P6qpi_

3月:38歳になり、恭会なども作った俺俺の月。20歳からずっと開催している自分誕生祭で撮ったこの写真がすごく印象に残ってる。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=492471370787958

4月:神戸のもりたんぼさんや武雄の江口さんら、ヒミ*オカジマさんをパクチーハウス創業当初から付き合いのある千葉のパクチー農家・綿貫さんのところに案内した。これをきっかけにパクチー生産者ネットワークを立ち上げ、夏以降には武雄市との新たな取引が始まった。この展開は2014年以降もっともっと発展していくはずだ。
https://kyoblog.beemanet.com/7ac28a8d6723
https://kyoblog.beemanet.com/5e17847872b0

5月:TACO PAXランチスタート。2年ぶりにパクチーハウス東京でランチ営業を再開することができた。ランチ営業はやはり厳しく、11月に停止することにはなったが、完全にオリジナルのいい商品ができた。いつか復活させたい。

6月:養老乃瀧とコラボで「すべての居酒屋料理にパクチーを入れるパーティ」を決行。2008年12月にアクシデントで同社副社長の矢満田さんと会って以来、いろいろご指導いただき、また、何度も遊んでもらい、この話が実現した。この話が決まった直後に神戸のフレンチが同様のパーティをするなど、面白い話は続く。

7月:スタッフ研修で安曇野へ。国内外を問わず、スタッフと職場を離れて
話したり、遊んだり、飲んだりするすばらしさを知った。シャルソンで知り合った人たちを紹介するなど、ほかの事業への連携も試みた。
https://youtu.be/bJMlsNiq1Oc?si=bwIJQym9PySHQnlW

8月:パクチーのうたが、NYのHAKATA TON TONのプロモーションビデオで採用された。
https://youtu.be/cUSEHi9AnD4?si=O4v8_wuCYvS70D0N

9月:メドックマラソン。パクチー・ランニング・クラブの人たちと存分に楽しむことができた。今年はドレスコードを緑にすることで、それなりに目立つことができた。そのお陰で、帰国後に別のグループの方と知り合うことも。

10月:インド訪問。大好きなインドに子どもたちを連れて行けたことはうれしかった。また、駐在員の生活や豪奢な結婚式に参加することを通じて、インドには交わることがほとんどないいくつものレイヤーが存在することを知った。

11月:ソウルのYouth Hub Forumというのに招かれ、初めて海外で本格的な講演をした。旅しても広がる世界はあるが、行政が行うちゃんとしたイベントで講演することは旅とは違うタイプの人と知り合うことになり、意義深い。このつながりで何度か韓国に行くことになるんじゃないかと思う。ほかのアジアにも行きたい!

12月:年間のランニングの距離が2000kmを突破。今年は甘えないように、月間150kmを自分に課した。Glocal Cialthonでたくさんの仲間を作ることで自分も奮い立った。世界にランニング友達ができたことと、走るわけないと思っていた友人が次々と走りだしたことで、かなりの刺激を受けた。

2013/12/31


分刻みで狂いの無い日本の新幹線が遅れるなんて最高

年末年始広島の妻の実家に行き、3日に帰ってきました。有楽町付近の新幹線沿線火災の影響で、僕が乗った新幹線は岡山で2時間半ほど停車した挙げ句、東京行きが新大阪行きに変更になりました。

Facebookやfoursquareに投稿していたので、そのことを見てくれていた人が結構おり、「災難でしたね」的なことを言ってくださるのですが、その実、非常に楽しい時間を過ごしていました。

3日は予定を特に入れていない日だったので、まず帰ることが遅れることは何の問題もありませんでした。また、この日の列車のお供は『Shantaram』という933ページもある英語のペーパーバックを読み始めたところだったので、時間があればあるほどよかったのです。(イギリス留学したこともありますが、普段全然英語を読まないので、日に日に英文を見るのもイヤになっている今日このごろなので、少し反省して1年以上前に買ったこの本を持ち歩くことにしました)

その本は、インドのボンベイを中心とする話なのです。バックパッカーに非常に支持された本ということで読みたいと思っている本です。事実に基づいた小説とのことで、表現とかは難しいですが、旅人としては非常に理解できる部分があるのでパラパラめくるだけでも楽しめます。

そこで分刻みで狂いの無い日本の新幹線が遅れるなんて最高じゃないか、まぁ今日は読書の日にしようという感じでした。指定席はあるので、時間がかかっても東京に着いてさえくれればOK。運行状況や火災の状況をTwitterで情報収集しており、また、後日の報道で30万人の足に影響ということで、人によっては大変な状況であったことは想像に難くないですが、僕は最高の気分でいました。

結局2時間以上経った後で新幹線が新大阪行きになってしまい、東京まで座って行けない可能性がでてきてしまいました。しかし、気分がよいときは面白い発想が出てくるもので、とりあえず混んでいる電車で帰ることはイライラが募るばかりで何の得にもならないから、大阪か京都あたりで物見遊山でもしようと思いつきました。

岡山からの移動中に決めようと思い、同じように列車が止まって困っている誰かや、京阪神に住む友人たちの顔を思い浮かべながら、3つの選択肢をFacebookに書き込みました。
 ・新大阪での飲む
 ・京都で飲む
 ・普通列車で東京に移動しながら飲む

嬉しいことにこれに対して、大阪と京都からだけでなく、岐阜と名古屋、そして一宮と浜松からオファーがありました。

結局、年末に少しだけ会えたものの、ゆっくりと話ができなかった浜松の清川くんと飲むことに。そして浜松行くぞーと言ったら、浜松出身で夏まで名古屋のコワーキングスペースのスタッフをしていた藤本さんも来てくれることになりました。

2時間ぐらい飲んだら帰るイメージでしたが、しゃべり始めたら話が止まらず、浜松駅前に最近できたスーパーあつみの旨い食材をつまみ、これでもかと言うぐらい出て来る質の高いオーガニックビールや日本酒を堪能していたら10時間が過ぎていました。結局、翌朝の始発で東京に戻りました。

ソーシャルメディアやインターネットのテクノロジーって、こんなことを可能にするすばらしいものなんですね。使っていてよかったと心から思いました。

また、僕は全然知りませんでしたが、特急料金って2時間以上遅れると全額返金されるのです。列車が遅れていることを見て、それを教えてくれた方がいました。遅れたことに今回は露ほどもネガティブな感情を持っていなかったので、全然かまわないんですが、浜松駅に行って券を提示したらキャッシュバックしてくれました。広島⇒浜松の移動にたったの7030円しかかからなかったことになります。ソーシャルメディアで随分いい思いをさせてもらった正月の出来事でした。

2014/1/6


人に必要とされる会社をつくる

三重の万協製薬の代表取締役・松浦信男さんが著した『人に必要とされる会社をつくる』( https://amzn.to/3TiChwR )という本を読みました。

阪神淡路大震災で被災し、立て直しを図ったものの誰からも支援を受けられず、会社が必要とされていないと知った著者が、三重県に工場を移し、会社と社会との関係を完全に構築しなおした方のお話。

印象に残る考え方がたくさんあったので、そのうちのいくつかをシェアします。

・顧客からの要求を飲み続けていたら、要求されっぱなしの社員は言われたことをこなすだけの「奴隷」になってしまう。
・万協製薬では、高くても一流の会社にしか機会の製造も資材の調達も依頼しないし、出された見積もりは一円も値切ることはない。「あなたが正しいと思う金額で見積もりをつくってください。そのままお支払いしますから」そうはっきり伝えると、協力会社の営業担当が逆に慌てて、一旦出した見積書を引っ込めて、進んで値引きを申し出てくれたこともある。
・社員は自分の仕事だけでは成長しない。社員の成長は、仕事以外のことで会社以外から認められることが必要。社会貢献することで、地域社会が社員教育をしてくれると言える。
・万協製薬の人材採用は「来るもの拒まず」人が足りなくなってきたらハローワークやホームページに求人を出す。応募してきた人を順番に採用。試験は「これまでの人生でいちばん楽しかった話を僕にしてください」。きちんと話すことができれば、その人はコミュニケーション能力があるということ。それさえあれば仕事はできる。
・高い生産性は組織やシステムで実現すればいい。個人に依存したら経営は不安定になる。能力やスキルは関係ないというわけではない。最初から完成した優秀な社員は求めない。社員を育てるのは会社の役目。
・一生懸命えり好みして採用しておきながら、入社後のケアをしていない会社のなんと多いことか。
・一番言いたくないのは「君がいないと困るから辞めないで」。経営者の敗北を意味する言葉だ。

会社を作り、面接に来てくれるといつでも採りたいと思っている時期が何度もありました。来てくれているだけでありがたいし、必要なときに必要な人が現れるんだなんて僕は言っていました。

最初のキャリアで富士通の新卒採用責任者をやったもので、いい人材を「選ぼう」という意識がどうしてもあるのですが、来てくれた人を「育てよう」という意識はもっと大事。万協製薬のように割り切れるかどうかは自信ありませんが、何人面接しても、正直言って全く分かりません。

またお客さんの言い値で買うというのも大いに賛同します。僕の経営方針もそれに近いものがあります。

著者の松浦さん、ダジャレビジネスマンです。「IQより愛嬌」「PDCAより喜怒哀楽」「話題より笑い」「正しいより楽しい」「頭突きより気づき」などなど。

その他、会議参加者に「ラストシーンまで決めて」参加するよう促すなど主体性を持って仕事をさせる仕組みが満載です。

2014/1/8


クーポンは自分で作ろう!

堀江貴文さんのメルマガのQ&Aコーナーの中で、「新しいクーポンビジネス」に関するものがあった。パクチーハウス東京では、2007年11月のオープンの瞬間から「クーポンは自分で作ろう!」というサービスを提供している。

(以下引用)
クーポンは自分で作ろう!
(1) ご自身のブログなどに店を訪ねた感想を書き、次回ご来店の際にそれをプリントアウトして持参して頂くと、お会計より5%オフ(SNSなどgoogleで検索されないものに関しては3%オフ)させていただきます。
(2) 旅先からパクチーハウス東京に葉書を送り、お名前と「○月に行きます!」などと“来パク”宣言を書いて頂いたお客様は、葉書到着後のご来店時にお会計より5%オフ(海外の場合。国内からは3%オフ)。
*クーポンはご来店時にお出し下さい。他クーポンとの併用はできません。
(引用終わり)

ぐるなびなど、印刷して出すだけで10%引くクーポンは、自分の店には絶対導入したくないと思っていた。たくさん営業の方が来てくれたけど、クーポンがあるから来店するような人とはおつきあいしたくないからだ。

もし割り引くとしたら、何かしてくれた人に返したいと思った。事業計画を書いているときに思いついたのが、この「クーポンは自分で作ろう!」だ。

美容院などで、初回に割り引いてくれる店がよくある。一度来てもらって、ファンになってもらえればまた来てくれるだろうからそういう仕組みが蔓延ってるのだろうけど、なんかオカシイ気がしていた。僕が今の地域に引っ越したころ、行きつけの美容院を作ろうと思ったのだが、初回半額の店がたくさんあったので、ずっと割引狙いで新規の店ばかり行っていた。

そんな体験もあったため、そういうクーポンは店をよくしないと確信している。

店のことを発信してくれたり、友達に伝えてくれる、そういう人に何か返したいという発想から生まれたのが「ブログ割」「ポストカード割」と呼ばれるこの仕組みだ。

書いてもらうことにより、ウェブサイトのランキングが少しも上がりやすくなるだろうし、食べたものや出会った人を帰ってから思い出してもらえればまた来たいと思ってくれるだろうし。そして、ブログやポストカードを提示してもらえれば、名前や顔をスムーズに覚えることができる。

「お客さんは神様のような遠い存在ではなく、 近くにいる大切な友人である」

これも事業計画を書く前段階で書いた言葉。クーポンを割引の手段としてだけでなく、そういうコミュニケーションを促進するための方法として使いたいと思っている。

2014/1/15


法政二高でキャリアデザインのお話

武蔵小杉にある法政二高に招かれ、まもなく卒業する高校三年生向けにキャリアデザインについてのお話をしてきました。法政二高といえば、昔高校野球でよく見かけたところ。自分が高校を卒業してからはほとんど高校野球を見なくなっているけれど、呼ばれただけでなんか嬉しかったです。

法政大学または他大学への進学がすでに決まっている生徒たちに、大学を出た後の仕事について考えさせるということで組まれたカリキュラムがあるようです。センター試験が終わったばかりというこの時期に、すでに進学が決まっている人たちがこんなにいるんだな・・・と思いました。受験している人とは境遇が全く違います。

担当の先生の一人が、僕の前職の同僚の妹の旦那さんということで、何度かパクチーハウス東京でもお話ししたことがありました。そんな縁で、呼んでもらいました。ほかにどういう方に学生の指導を依頼しているのかを尋ねたら、富士通の環境関連の部署に見学に行くという話もでていました。その方と知り合ったのは、「飲み屋で隣にいらっしゃったので」。世の中はこうした縁でつながっていくのですね。

僕は学生のころは旅をするという明確な目標に向けて嫌々ながらアルバイトをこなし、就職する気があまりないふざけた学生だったけど、さまざまな人の縁から企業に導かれ、就職でなく旅がしたいということを面白がってくれた富士通の人事部が僕を人事部に配属し、採用の責任者にしてくれて仕事の楽しみを知り、若気の至りで飛び出したくなって、安定した地位を捨てるのは怖かったけどやっぱり捨て…というキャリアの始まりがあり、その後いろいろな縁を紡いでいったので、キャリアデザインという意味では面白がられる話はできると思います。(どこでも行きますので是非呼んでください!w)

大学生に比べて適度に発言し、質問してくれるのが印象的でした。また、話をしている間に僕のtwitterを発見してくれ、そこに書いてあることを踏まえて質問してきた生徒もおり、僕らの頃とは全く違う時代背景に驚き、かつ彼らの将来に期待したいと思いました。

仕事や人生に前向きいや前のめりになることで「楽しみ」を見つけることができるということを、理解してもらえたかなと思います。時間が経つと忘れちゃうかもしれないけれど、仕事や人生に悩んだときに、僕が話した一言でも思い出してくれれば嬉しいなと思います。

2013/1/22


高校生からの感想

先週法政二高で進路に関するお話をしたときの、感想レポートが送られてきました。

ほとんどの人のまとめに、
「仕事はつまらない、つらいものだと思っていたが、自分の工夫次第で
それを楽しむことができると知った」
と書かれていました。授業の趣旨通りなのでちゃんと素直に理解してくれたということになります。予想通りではあるけれど、授業開始時の仕事のイメージはほとんどがネガティブで、「長時間残業」「脱税」「ブラック企業」「義務」という単語が出てきました。報道と教育により仕事についてこのように伝えられていることの現れでしょう。

このような古い労働観を持たされているためほとんどの生徒は会社を作るということに関しては、想像しにくかったと思いますが、(大学のサークルぐらいの)組織を作り、自分のしていることを的確に伝えるためにオリジナリティのある「肩書きを作る」ということについては共感してくれたようですし、実行に移す人も多いと思います。

・市場はすでに開拓し尽くされたと思っていたが、まだまだ世の中には可能性があることに気づいた
・旅は楽しむだけでなく、思考を深めるためのものでもあると知った
・人生に正解なんてないと思った。迷いなく積極的な行動
・バカ最高。他人に感謝
・考え方次第で世界が変わると思った
・キャリアをデザインすることの楽しさを知り、大学の楽しみがより明確になりました

 というような感想をもらいました


1万円起業

「コワーキングスペースという記述があったよ」と利用者の方から言われお借りしたクリス・ギレボー著『1万円起業』( https://amzn.to/49BTjMl )を読みました。

初期投資を極めて低く抑えることができる時代になったこと、やることによりしか結果は出ないことが書かれています。僕も時々起業の相談を受けますが、「結局やらない人」は何年経っても同じ状態で(勉強とかしていても)、時代が進んでいる分、相対的には後退してしまっていることに気づくことがよくあります。

低予算で自分のパッションを他人の関心事にうまく重ね合わせてきてビジネスを組み立てた事例が多数掲載されています。一つひとつの例はその人独自のものであり、参考にしてパクれるようなものではないですが、それぞれの観点における「幸せ」と世間的に見ると「成功」の両方を勝ち取った人が、どんな行動をしてきたかを知ることは、常識通りにやらなければいけないんじゃないかと思っている人に有意義です。

「やるかやらないか」 それだけですね。

2014/1/29


nikeの偽物をつかまされたかも

最近買った靴がもしかして偽物かもしれない、ということで記録。

いつも使っているランニングシューズがボロボロになってきたので、「NIKE AIR MAX TAILWIND 5」を年明けにアマゾンで注文した。

注文した直後、こんなメールが届きました:

・海外からの直送のためNIKEの外箱が凹んだり破損している場合がございます。
荷姿は箱が破損しないように配慮しており段ボールにガムテープをグルグル巻きにした包装としております。


グルグル巻きで届く宣言? 初めて聞いたよ・・・。

・こちらのスニーカーはナイキ中国正規代理店のお品で現在、順番に発送をしております。
また、ご注文からお受取りまでに2週間ほどお日にちをいただいております。


えっ、中国から届くんだ・・・。別にいいけどねと思いました。

この次のフレーズがすごい・・・、
中国と聞くと偽者なのではと思われるかもしれませんが現在までに数百足を販売しておりますが、本物ため一切の問題がございませんのでご安心ください。


そうなのか、でも偽物のこともあるのかー。そして偽物が出て来る可能性を認識しているんだろうなとここで初めて心配に。

そして親切にも、偽物の見分け方の解説:

本物と偽物の違いについては現在のところ7つ把握しており、
高さの違い、接着部分、メッシュ、デザインのバランス、エアー、ロゴ、nikeplus

と言っても、それぞれの項目がどうなのか、全然分かりません。

そして、親切すぎるご提案:

ご心配の方にはNIKEのお店へ直接お持込いただき鑑定してくださるようにお願いしております。


自分でやれってことか。


また、アマゾンより販売許可を得ていることはもちろんのこと通関の際に日本税関の認可を受けておりますのでご安心してお使いくださいますようによろしくお願い申し上げます。



「心配しろ」って言っているよね。

万が一、有り得ないことですが、偽物と断定された場合には商品代金の返金は当然の事ながら迷惑料もお支払いいたします。

偽物を送ろうという意図はないけれど、偽物が送られる可能性と、それで返金してもペイできる値段設定をしているのでしょうか?

注文を受けている会社は、今になってからの推測ですが、商品の発送には全く関わっておらず、情報だけをやり取りしているのだろう。

注文から約2週間後、商品が自宅に到着。受け取った妻から驚きのメールが届いて到着を知った。得体の知れない荷物が外国から届いた旨。上に引用したメールをいただいていたので、「大丈夫だよ、ランニングシューズだよ」と伝えた。

ちなみにホントに外見はひどいもので、テープはぐるぐる巻き、箱はひしゃげていた。予告通りだ。中身は綺麗だった。

初めてその靴を履いたのは、その数日後。自宅から経堂まで歩き、一日を過ごしたら何年かぶりで靴擦れになってしまった。しばらくずっとNikeの靴を履き、おろしたてでも靴擦れにはならなかったので、この靴との相性の悪さを感じた。そして、靴擦れが治るまで履かずにいて、昨日ようやく決心してこの靴を履いた。

靴ひもをしっかり締め、昨日は幸い靴擦れになるのは避けられた。しかし、パクチーハウスの営業に入っていた途中から、足が疲れてしょうがなかった。営業終了時には、なぜか足の甲も痛くなっていた。

途中で上に書いたメールの内容を思い出し、もしかして、偽物なのかなということが頭をよぎった。

こんな履きにくい靴は初めてだ。偽物かどうかは分からないけど、本物だとしても履き続けたくないというのが今のところの正直な感想。

そして、初めて履いたときも、2回目に履いたときも、共通していたおかしな現象があった。それは脱いだときに足の中指と薬指のあたりの靴下が黒ずんでしまうこと。それも両足。新しい靴で(古い靴でもか)そんなことあったことがない。少なくとも、粗悪品だ。

朝からちょっと調べたら、通販で偽物商品を送られるという事例は結構あるみたいだ。日本で便利にAmazonを使っていて、偽物をつかまないようにわざわざ考えていたことはなかったので、新鮮な驚きを感じた。

僕の今履いている靴が偽物かどうかは分からないけど、せっかくなので確認に行くかなぁ。すごく履き心地悪いし、雨だとツルツルすべることも分かったので、偽物であってほしい。

2014/1/30


手づかみで食べる楽しさ

日経MJの本日付15面に、標題の記事が載っていた。パクチー・ランニング・クラブのメンバーでもある日経レストランの戸田顕司・編集長による記事。

神楽坂にある「シーフードレストラン FINGERS」のことが書かれている。同店のFacebookページによると、2013年4月末にオープンしたようだ。運営のアブソリュート(東京・江戸川)近藤豊社長のコメントが紹介されている。

「当初はお客様に受け入れられるか、不安だった」

このコンセプトを思いついたときに、一緒に仕事をしている弟や料理人に理解されなかったそうだ。でも自分がハワイで同じ業態の店を見て、そこで感じた面白さを信じてオープンさせた。今では11坪で売り上げ400万円の繁盛店になっているそう。

僕は日本手食協会というFacebookページを持っていて、手で食事をする活動を細々と広めている。
https://www.facebook.com/NHK219

これを作ったきっかけは4年前にパクチーハウスのランチ業態として営業していた“地球を救うカレーライス”の手食推奨。浜松Bijaの清川孝男くんとのコラボで、彼が出していたコンセプト(地産地消・オーガニック・フェアトレード)のあるカレーを提供していた。カレーを「飲み物」として捉えたり、早食いの象徴と目されることに対抗して、ゆっくり食べてもらう方法はないかと検討して出たアイデアが、「手で食べること」。ランチ開始と同時に、お客さんに「当店は手食をオススメしています」を枕詞に話しかけ、手食の素晴らしさを味わってもらった。

店に来てくれたお客さんは、手食をとても喜んでくれた。しかし、経堂の片隅でひっそりやっているランチであり、お客さんの数は1日10-30人程度。手食が一般に広まりそうではなかった。そこで、たまたま別件で取材をしてくれた日経の記者に手食のことを伝え(そのときの本題5分、手食20分)、2月19日を「手食の日」にすることを思いつき、結果として日経MJが手食の特集を裏面一面使って組んでくれた。

パクチーハウス東京での「地球を救うカレーライス」は一年ほどで閉じてしまった。その後も手食に関する問い合わせがメディアから来たりもするので、Facebookページを立ち上げて、関連する情報が入ると更新するようにしている。

FINGERSという名前を付けたことと、手づかみというのを全面に押し出した業態が都心にできたことは、僕にとってとても嬉しいニュースだ。近々訪れてみたいし、勝手に応援しようと思う。

同店がハワイで見たことを新しい店のコンセプトにしたということだが、僕が3年前に半年で閉じた「鳥獣giga」(用賀)も、実はハワイで見た自分で焼くBBQのスタイルがヒントだった。BBQをするのは楽しいし、見知らぬお客さん同士が焼き場を譲り合ったり、BBQに詳しいおっさんが焼き方を指導したり(最初親切な店の人だと思った 笑)。 あのスタイルはいつかまたやりたいと思う。

というわけで、FINGERSをよろしくお願いします。

2014/1/31


武雄温泉より

佐賀県武雄市に来ています。昨日は武雄市役所を表敬訪問し、樋渡啓祐市長にもお時間いただき、パクチーの未来について語りました。

パクチーの可能性を強く感じるという感想とともに、「うちはパクチーと心中します」というありがたいお言葉も。いろいろコラボしていきたいと思います。

その後、パクチー農家の江口農園さんの圃場を3箇所見学。いつもパクチーハウスに出荷してくれている若い人たちにも会うことができ、また、パクチー生産の苦労話などを聞き、ありがたみを感じました。

夜は「このみ」にて飲み会。塩味の武雄風猪鍋は、あっさりとしてうまかったです。あの味に合わせられるのは猪肉の捕獲から流通までの管理により肉質が保たれているからでしょうか。21歳のイノシシ課職員にいろいろ教えてもらいました。

宿泊は 大正ロマンの宿 京都屋にて。Facebookで11月に連絡を頂いたのが縁でした。今朝は前田社長と市内を一時間半ウォーキング。旅館経営者と武雄温泉振興組合のトップとしての行動や考え方について聞かせてもらいました。

では、朝湯と美味しい朝食を済ませたので、これから八女へ向かいます。

2014/2/4


釜石訪問

一泊二日で釜石を訪ねました。片道6時間以上の行程。昔から旅慣れているので長い移動が全く苦にならないでよかったと思います。

今回訪問の目的は、ウルトラシャルソンについて釜石の方から協力を取り付けること、そして初訪問なので釜石を知ることでした。

陸前高田の久保田副市長(僕の大学の後輩)に紹介してもらった釜石の嶋田賢和副市長に会い、シャルソンとウルトラシャルソンの意義について説明し、釜石で復興の仕事をしている若き人達に市内を案内してもらいました。

釜石は駅の真ん前に新日鉄があり、まさに鉄鋼のまちであり、そして他の被災地同様、リアス式海岸沿いにいくつもの漁村があります。

復興は住民の意見がどうまとまるかがポイントで、釜石から車で数十分のところでも、震災直後から漁のための設備を建てられたところもあるし、ここ最近でようやくそれぞれの意見がまとまってようやく動き始めたところまでさまざまだそうです。

「釜石の悲劇」と呼ばれる鵜住居も訪れました。現場の防災センターは昨年夏に取り壊され仮の追悼施設ができていました。震災の一週間前に避難訓練をしたのですが、参加者を増やすために本来の避難場所でなく防災センターを仮の避難所と仮定して行ったことで、多くの方がそこにいけばなんとかなるという認識を持ってしまい、大津波にのまれてしまったそうです。

ここを案内してくれた青年によると、日本のいろいろなところで人を集めるため、政治家やテレビを呼びやすくするために同じようなことがなされているようです。

夜は市役所のすぐ近くに住む方の家で宴会を開いていただきました。なぜか参加者の半数がICU卒業生だったり、カオサン小澤さんの後輩がいたり、東大のギャップイヤー推進のための休学制度を利用している人がいたりで、濃い集まりでした。

スタート地点と想定している釜石の元気な人たちにウルトラシャルソンのことを理解してもらえたので、プランを進めて実行に漕ぎつけたいと思います。

梅雨時よりもそれほど暑くない8月下旬がいいよというアドバイスも受けましたので、時期についても再考します。

2014/2/13


雪ラン

雪の2日間、通勤ランをしました。計4回で15kmなので普段のランニングよりは短い距離なのですが、雪の中をずぶずぶ走ったり、滑らないように注意しながら走ったためか、足はいつもより疲れた感じがします。

雪の中を走ると、道行く人から二度見されます(笑)。歩いていても滑るので、なに走っちゃってるのという感じだと思います。よくわかります。でも、あえて言うと、歩くよりも小股で走る方が転びにくいと思っています。

歩いていても雪に足を取られ筋を伸ばしてしまうことありますね。でも、歩幅を狭くして走れば多少滑ってもすぐにリカバーできるし、身体が運動モードなので痛めたりすることがすくないのではないかと思っています。なんのセオリーにも基づいていませんし、真似して怪我をされても困るので特にオススメはしませんが。

雪で走ることに慣れたのは、昨年から始めた「Glocal Cialthon」によるところが大きいです。一定期間(1週間など)に89km走るというこの企画の主催者としてなんとしてでも達成しなくてはということで、(この期間中は)天候に関わらず走ることになったのです。第一回のGlocal Cialthonの開始直後に、昨年の大雪が降りました。それまでもちろん雪の中を走ったことはないですし、走ろうと思ったこともありませんでした。でもこのチャレンジのために、雪の上をおそるおそる走り始めたのです。

まず新雪のうちは、ずぶずぶと足を取られはしますが、滑るというより砂浜を走るような感じで問題ありません。降った次の日に凍ったりぐちゃぐちゃになっているときが大変でした。あまりスピードを出さないこと、歩幅を狭くすること、そして、やはり滑りそうと思ったら走るのをやめることを守りつつ雪上を走り続けたら、感覚的に随分慣れました。

昨年と合わせるとすでに100km以上は雪の上を走ったと思います。身体でなんとなくコツをつかみました。

来週もう一度雪が降るという話もありますが・・・。みなさん、気をつけてお過ごしください。

2014/2/16


世界遺産と平和

友人の青木宏和くんが「世界遺産×◯◯」という企画をやっています。

彼は僕がいた会社に所属しているということで、別の友人が一年半前に紹介してくれました。そのときはやりたいことがはっきりしておらず、というかもっというとやりたいことを明確にした上で行動に移せていなかったため、とてもモヤモヤした青年でした。

どうしたものか・・・。と正直思いました。

が、せっかく紹介してもらったのでというわけで、何をやりたいのかをいろいろ聞いていたら、やりたいことの中で大きかったのが、
・世界遺産をめぐりたい
・ランニングを広めたい
という二つだったので、つないでみました。

「世界遺産ランナー」

そう名乗っちゃえよと、まぁ適当なことを言った上で、そういう肩書きを作ることで見えてくる世界があるよねと、ブレスト的に提案してみました。

その後しばらく会わない時期があり、再会したら、別人になっていました。世界遺産ということで、ユネスコの地域支部とはコラボイベントを何度もしています。ユネスコの日本本部や世界の本部にもアプローチできそうで、具体案も見えて来たみたいです。面白いですね。

今では「世界遺産ランナー」としてやるべきことがありすぎて、いそがしいみたい。なかなか会ってくれませんw

そんな彼が最近始めた世界遺産インタビュー。「世界遺産×◯◯」を色々な人に書いてもらい、それぞれの世界遺産との関わりを語ってもらっています。これにより色々な角度から世界遺産を見つめ直す人が増えて来るでしょう。

佐谷恭(パクチーハウスオーナー)と世界遺産

世界遺産は人類が共有すべき普遍的価値。認識を共有し、ともに守っていくべきもの。僕たちが守るべき平和(ラテン語でPAX)は、目に見えないし壊れやすいけど、意思を持って維持し続けるもの。
世界遺産は、顕著な普遍的価値だから、目に見えるPAXだと思うのです。
世界遺産を愛でたり、世界遺産を走ったり・・・。世界遺産と人との関わりを通じて、PAXの輪が広がっていくことを願っています。


nikeの偽物をつかまされたかも2

最近、会う人の多くが「あの靴どうなった?」「今はいているのが例のヤツ?」と聞かれることが非常に多い。そう、「nikeの偽物をつかまされたかも」を読んでくれた人が思いのほか多いようで、その続きが気になるようだ。

販売元に問い合わせたら、いつも同じ答えが返って来る。というか完全なコピペ対応だ。


中国と聞くと偽者なのではと
思われるかもしれませんが

数年間で数百足を販売しておりますが
本物ため一切の問題がございませんので
ご安心ください。


これは必ず強調してくる。直送で情報だけ送っている会社だから見てないんだろうけどね。「本物のため一切の問題がございません」っていうスタンスだから破るのは難しい。

正規品を送り続けている中国の代理店が、あるときから偽物を混ぜたとしてもたぶんチェックすることはできないでしょうね。


ご心配の方にはNIKEの直営店へ直接お持込いただき鑑定してくださるようにお願いしております。

実際にお持込されたお客様はおられましたがまったく問題がございませんでした。


なんかヘンだよなぁと思う人は他にもいるんだね。持ち込んだ人のが偽物でないことは、別の商品を受け取った僕の靴が偽物でない保証には全くならないのに。



アマゾンより販売許可を得ていることはもちろんのこと通関の際に日本税関の認可を受けておりますのでご安心してお使いくださいますようによろしくお願い申し上げます。


アマゾンが偽物チェックできるわけないし、日本税関のチェックが完璧なら日本に偽物はないわけで。

「nikeの偽物をつかまされたかも」は、Facebookで二度シェアしました。

コメント欄にTNさんが書いてくれたものを紹介します。


商品が正規のナイキスペックと同一かどうかは別として、ブランドしては不正な横流しの品であることには間違いないなさそうですよね。私は自分の仕事柄、こういった不正な流通は押し留めたいところではありますが根深い問題もあるのでなかなか難しいところσ^_^; それにしても靴の輸入はかなり難易度が高いのですが、ちゃんとクリアしてるのかなぁ。サイトの文面が怪しいだけに危惧しちゃいます^_^;



アマゾンより販売許可…っていう文言もすごい気になる。検品して正規品だから販売許可するって仕組みになってるわけじゃないしね。店に持って行って見てもらえっていうのも「パクチーって書いてある三つ葉っぽいものをどこかで買ったんだけど、これってパクチーでしょうか?」って別の店に持っていって相談しろっていうようなことだしなぁー。


ちなみにこの靴が偽物かどうかは、販売会社とのやり取りでは解決しそうにないので、最初の2回履いたときに靴下にできた黒ずみの件をふってみたら、しばらく時間が経ってから、

NIKE正規中国代理店より連絡があり品物の状態を確認させていただきたいのでお手数ですが、黒ずみ箇所を数枚撮影して頂き添付をお願いしてもよろしいでしょうか。

靴の中の撮影は難しいなと思いつつ、かつ、数回はいているうちに靴下が汚れることはなくなったのだが、一応適当に靴の中を写して送ってみた。すると、

お忙しいところ写真を撮影していただき添付をありがとうございます。
お写真では黒い汚れが確認できませんでしたが次回にご購入の際には5%の値引きにてご提供をいたしますのでよろしくお願いいたします。

「黒ずんだのは最初の2-3回です。今は黒くなりません(7-8回はきました)」と書いたことは完全無視ですね。確認できないから、以上ということでした・・・。

その後、「商品自体が不良品の可能性は?」という旨を書いて送ったのですが、それに対しては本投稿の冒頭に書いたような形で返事をいただき、また振り出しに戻った感じです。

以上、なにやってんだろう。


2日間で89km走ってみた

2月22日(土)〜23日(日)の2日間で89km走ってみました。自分にとっては初めての経験で、大きなチャレンジでした。ランニングを始めてもうすぐ4年。昨年から一定期間に89km走るランニングイベントを立ち上げたことで、走力はかなり伸びてきました。そういう意味では少しずつ準備ができていたのかもしれません。なんとか走りきることができました。

6月1日には南アフリカのコムラッズマラソンに出場します。この日は1日で89km走りきらなければならないので、その前にいつ練習しようか(できるか?)と思っていました。1月末に長崎で、リコリタの真田武幸くんとシャルソンの話をしていて、22日と23日に神田と世田谷で2日連続のシャルソンとなるねーと。そのとき思いついてしまったのです。この機会に89km走ってみようと。初日に56km、そして2日目に33km走って89kmを達成しました。初日のラスト5kmと、2日目の中盤は、とても苦しかったです。

22日

まずは神田シャルソン会場まで20.02kmのランニング。世田谷通りと246を通り、渋谷と皇居の北側を経由。少し時間があったので神田税務署前を通り神田明神にお参りして会場へ到着しました。ランニングを始めてから、故障をしたことはありませんが、なぜか家から2kmのところで右足に痛みを感じて焦りました。今に至るまでなんともないですが、三軒茶屋ぐらいまでは少々不安なスタートでした。

神田シャルソンでは10.32kmを走りました。約6時間かけているのでペースは遅い遅い。半分はほかの参加者とともに歩いていました。日本橋の道標にまず行って、釣りの櫻井、スープカレーのカムイへ。それからセントベルナルデュス(1)、一軒め酒場(2)、モルタン(2)、ギークカフェ水道橋(1)、鉄道居酒屋(1)を訪れてゴール地点へ到着しました。

秋葉原の雑踏をかき分け、15:59に到着して16:00からシャルソンのトークライブです。マーチエキュート神田の運営会社のJR東日本ステションリテイリングの三井剛社長と神田画報の発行人たてやま西平さんと地域活性とシャルソンの魅力などについてお話させていただきました。

その後パーティに参加し(3)、たくさんの人から見つけたての神田の魅力を教えてもらいました。終了後、自宅とは逆の蔵前方面に2.72km走りました。ゲストハウス「nui.」(2)にて、つい先週PAX Coworkingを訪れてくれたミュージシャンUKiYOのライブです。立食パーティに続き、立ち見だったので実は足がとっても辛かったですが、オーガニックな歌声と約150人(?)の熱い歓声がとても心地よい空間となっていました。

翌日もあるのでライブ終了後、駒沢経由で帰宅。23.09kmでした。初日に距離を稼いじゃおうと走る前は思っていましたが、世田谷区に入る頃から随分疲労を感じていました。駒沢のブルックリンダイナーにシャルソンフラッグとゴールテープを届けました。大手町にいる頃は、大脇さんを誘って餃子でも食べてから帰ろうと妄想していましたが、ブルックリンダイナーに着いたときにはしゃべることもままならず、無愛想に帰ってきてしまった気がします。ごめん。

23日

翌朝、起きてみたらひどい筋肉痛ではありませんでした。でもまだ先が長いのでとりあえず歩いて経堂へ向かっていましたが、倉田くんから電話あり。
「参加者来てるよー。鍵開けて〜」
随分早いけど、来てくれたのだから急がねばということでランニングスタート。京都シャルソンのえーちゃんが「手伝うことあるんじゃないかと思って」と早めに来てくれてました。嬉しいね。3.26km。

早いうちに受付してくれた世田谷シャルソン参加者を見送った後、千葉の草間くんとパクチーハウス常連のみっちゃんを誘ってランニングスタート。下北沢OSSカフェから反時計回りに給水・給電スポットを回る計画で走ったけど下北沢以降は結構しんどかったですね。しかも、なぜかフル充電のはずの携帯充電器が全く機能しなくなり、電池をセーブするために地図をほとんど見ずに走っていたら、2回も道を間違えました!

赤堤のゴルフ練習場でランチを食べ、'cococi' Coworking Space、そしてBLUE TAMAGAWAヘ。一応歩くより走ることが多かったけど、長い道のりでした。そして、シャルソンの醍醐味コミュニケーションと休憩でそれぞれ長い時間を費やしたようで、和泉多摩川で16時を過ぎてしまいました。そこで会った丸ちゃんとともに経堂へ向かうことにしましたが、丸ちゃんも2日ですでに75kmぐらい走っていたので、スピード出ず。

ボケっとしていて計測も忘れ、狛江駅周辺でごちゃごちゃしているうちにRuntasticのアプリが落ちてしまいました(18.86km)。歩くようなスピードでジョグしていましたが、もう時間がないことが判明。喜多見駅で別れ(1.15km)、一人で小田急線に乗り経堂へ戻りました。最後の悪あがきで駅周辺を少しだけ遠回り(0.89km)。

17時からシャルソン総会を行い、シャルソン主催経験者や主催予定者と意見交換をしました。それぞれアイデアあふれる人たちなので、企画がある度に情報交換できればもっと価値があがるだろうなと思いました。

その後のパーティ(3)は非常にみなさんフレンドリーで盛り上がってくれました。最初の一杯目にメガジョッキを飲む人が多く、僕の分のメガジョッキがなかったのは、この日ばかりは幸いだったと思います。というのはこの時点で8.7km残っていましたので。安曇野シャルソンの篠原さんによる素晴らしい企画もあり、会場は大変盛り上がりました。

お酒はあまり飲みませんでしたが(飲めなかった!)、飲んでいるときよりも意識がはっきりしていないような状態でした。たぶん冴えない感じだったと思います。倉田くんに、今日はトークが冴えない!と言われましたw

参加者のみなさんを送り、スタッフに後を託して再び走り始めました。松陰神社や用賀を経由して、自宅へ(8.95km)。不思議と、最後の最後は走り続けることができました。

24日〜

翌日は身体中が炎症を起こしていたのか、身体が非常に熱かったです。風邪気味か花粉症か、鼻づまりも起こしていたのでランニングによるものよりほかで体調がよくないのかと思っていましたが、たぶん後遺症だったのでしょう。27日に起きたときに、やっと回復したという感じがしました。

初めてこれだけの距離を走ったので、途中進まないなぁと何度も思ったけれども、意外とひどい筋肉痛はありませんでした。また、心臓が苦しいということは全くなかったので、6月1日の本番もなんとかなるかな!と思っています。人間はいかなる状況にも次第に慣れていくそうなので、6月までにまた機会を見つけて長い距離を走ってみたいと思います。

2014/2/27


あれから3年

3月になりました。まだ寒い日もあるそうですが、花粉症も始まり、いよいよ春の気分です。

2月は元々営業日数が少なく、また、社員研修でさらに2営業日減らした上に、大雪の影響が3日間に及び、損益分岐点ギリギリ達成という状況でした。

とはいえ、雪の影響でパクチーがだぶつきまくり、一時的に40kg以上が店にあるという前代未聞の事態もありましたが(通常時の一週間分の使用量です)、「少しでもロスをなくしたい」という思いから5分で書いたブログが、7000近い「いいね!」が付くほどの拡散し、取りに来てもらうという条件にもかかわらず、2日で約14kgが完売してしまいました。

パクチー小売の方法を模索している最中ですので、この現象は正直驚きであり、かつ、勇気づけられました。

順調でも不調でも学べるのは、事業をやっている大きなメリットです。何が起こっても、やたらと楽しいですね。考え方次第なだけですが。

今月は最もキャッシュフローが苦しかった時期からちょうど3年経つ月でもあります。失敗が重なりその後について途方に暮れていたときの追い打ちのようなあの大きな揺れが、会社をたたむべきだというサインではないかと思った瞬間もありました。

しかし、急なガソリン不足など有事が報じられる足元で、世田谷通りや環八の空気が澄んでくるという現象に出くわし、物事を考え直すきっかけを持つことができました。

行動や経験は、それがうまく行こうと行くまいと、やればやるだけどんどん蓄積していきます。もしグラフを書くとすれば、減ることはないので絶対に右肩上がり!

あー、止めるんじゃなくて、やり続ければいいんだ、ってことですね。

では、今月もよろしくお願いします。


これから新幹線に乗って静岡へ行きます!

2014/3/1


静岡で得たもの

静岡マラソンを完走。出場の理由であるコムラッズマラソンの参加資格をゲットできた。それだけでも十分だったが、夜に入っていたパクチーハウスのシフトに行く前に2時間ほど時間があったので、飲食業つながりの友人と会って久しぶりに情報交換をしてきた。

これが大正解。

マラソンの前日、静岡駅から葵区役所の受付会場まで順路が出ていた。ほとんどが地下通路を通るものだったが、しばらく歩くと地上に出た。そこでチェーンの居酒屋ばかりでつまらない街にどんどんなっているのかなと感じた。

しかし、その中で輝いていた一軒のビアバーがあった。たったの6席。でもタップは8つほどあった。その店の存在自体が嬉しくて、いつか機会を見つけて行きたいなと思った。

その夜はウルトラランナーでありPAX Coworkingのメンバーでもある鷲巣大輔さんの実家に泊まらせてもらった。走る前の日なので飲まずにカーボローディングだけという話だったのだが、到着したら酒盛りが始まっていた。鷲巣さんのご両親のそのおもてなしぶりは近々メルマガで紹介したい。

翌日、朝から会場へ向かい、とにかく初フルマラソンを走った。そして、友人に連絡。軽く飲みましょうということで、店は地元の彼に任せたら「ビール飲みましょう」と。駅ビル内かどこかかなと思ったのだけど、前日と同じルートを取っていくことに気づき、もしやと思い訪ねたら!

その友人が僕に紹介してくれると言っていた人は、そのビアバーのオーナーでした。「AOI BEER STAND」。日本各地のクラフトビールが並ぶ素敵な店でした。しかもそのオーナーは昔の醤油蔵を改装してビール工場を造っている最中ということで、ビール醸造に使う機械を中国で製造してもらうときの話を聞かせてもらいました。

また、その話をしている途中に隣からパクチーの話が聞こえてきたので話しかけて見たら、2人組がパクチーハウスの話題をしてくれていました。僕がその店の中の人なのですと言うと、驚いていました。そしてその人は静岡でウィスキー製造を始めようという人。お酒を造ろうとしている人に2人も会えたのは貴重な財産になりそう。

しかも、タイミングを間違えなければ静岡は近いということを思い出しました。品川からならひかりで1時間を切ります。パクチー麺の企画会社も静岡だし、静岡にもっと縁ができたら面白いなと思って帰ってきました。

2013/3/4


静岡マラソン2014



静岡マラソン完走しました。初めてちゃんと走り続けたフルマラソンでした。今年6月1日に出場予定のコムラッズマラソンの出場資格を得るために5時間以内という記録が出ればよかったので、いつもの朝ランと同じぐらいのペースで走ってみたら、意外と最後までペースが落ちず走り続けられました。

25kmから32kmぐらいまでの海岸沿いは、向かい風が厳しく、しかもなぜか両側で4車線ある道路を2回折り返して3回通るというコース設定で多くの人が苦労したようです。

天候は概ね雨。開始後30分ぐらいで一旦ほとんど雨が止んだので、ほとんどの人はポンチョなどを脱いでいました。後半の雨がきつかったのでは? 僕は39kmぐらいまでポンチョを身につけたままで、その後世田谷シャルソンの
宣伝のためにTシャツをみせるべく、ポンチョを脱ぎました。「世田谷からありがとう」とお婆ちゃんに声をかけられて嬉しかったです。

Runtasticで計測していたのですが、ゴール後にiPhoneの電源が切れてしまいました。充電し直したときに43.0kmと書かれていたのでゴール過ぎるまでは稼働していたと思うのですが、間違えて「セッションを消去する」を選んで消してしまいました・・・。データは一応ウェブ上に残っているみたいですが。

以下、当日の結果です。

測定地 スプリット ラップ 通過時刻
Start 0:04:58 8:24:58
5km 0:33:54 0:28:56 8:53:54
10km 1:01:57 0:28:03 9:21:57
15km 1:28:35 0:26:38 9:48:35
20km 1:54:02 0:25:27 10:14:02
25km 2:20:10 0:26:08 10:40:10
30km 2:45:53 0:25:43 11:05:53
35km 3:12:28 0:26:35 11:32:28
40km 3:39:38 0:27:10 11:59:38
Finish 3:50:58 0:11:20 12:10:58
(Net Time) 3:46:01

2014/3/5


酔熊亭のおもてなし

静岡マラソンの前夜、静岡駅からほど近い、鷲巣さんのご実家に宿泊させてもらいました。メドックマラソンしか経験のない僕は、鷲巣さんに「前夜祭はどのぐらい飲むんですか?」と聞いたところ、「結構みなさん真面目に走るので飲むとしたらうちの親父と佐谷さんぐらいじゃないですか」という答えをもらいました。

前夜は翌日へのエネルギーをためるためのカーボローディング食。酒は飲まずお腹をゆるめる可能性のあるものも摂らない。フルマラソン出場前はそんなものなのかぁと思いつつ、最初にして最後の真面目フルマラソンかもしれない僕はその方針に従いたいと思いました。

マラソンの数日前、鷲巣さんからご実家の住所や行き方などを説明したメールをもらいました。そこに実家の別名として《酔熊亭》と書かれていました。

当日、パクチーハウスで昼間のイベントがあったので、他のみなさんから一時間半ほど遅れてご実家に到着。みなさん、ビールを飲みながら談笑していました(笑)。

本音としてはホッとした僕は、「とりあえずビール」をいただき、乾杯をした後、一枚の紙をもらいました。

「2014静岡マラソン・出走記念前夜祭???」

タイトルにはこう書かれていました。そして

「本日はようこそ 酔熊亭にご来店いただき誠にありがとうございます。久しぶりに大勢のお客様ということで、亭主の腕がなっておりましたが、大事なレース前は、あれはダメ、これもダメと宮内庁並みの食材制限があるとのことでしたので、今回は・・・」

「お飲物は各種取り揃えておりますが、その昔当店には『駿府マラソン酔熊亭伝説』なるものがあり、以後その筋のお達しにより、レース前のランナーにはアルコール類の提供は一切自粛させていただいております」

「が・・・ どうしても・・・という方がいらっしゃいましたら、ご相談に応じます」

以下、ビールから酔鯨、竹鶴まで、魅力的なドリンクメニューが!!!

かくして、お酒の進む飲み会へと発展していきました。器にもお酒の内容にも随所にこだわりがあり、それを買い求めたストーリーもご両親がお話ししてくださいました。

結構飲んだとはいえ、ほんの少し酔いが回りすぎない控えめな段階で翌日に備えて風呂に入らせてもらったり、歯磨きをしたり・・・。

そして僕も汗を流してご両親にお礼とおやすみなさいの挨拶をしたら・・・また美味しい日本酒を、各地で買い求めたおちょことともに勧められ、気づくと他の方々とこたつで日本酒を飲むに至ったのでした。

細部にまでいろいろな心配りをしてくださっていて、ものすごくリラックスした至高の時間を過ごしました。人を迎え入れるときの態度や考え方として
とても学ぶことが多かったです。

2014/3/7


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パクチー(P)コワーキング(C)ランニング(R)を愛する、PCR+ な旅人です。 鋸南(千葉県安房郡)と東京(主に世田谷と有楽町)を行き来しています。