凪にしか漁に出てなかった僕が、台風の荒波を喰らって、一回死んだ、日
凪・nagi(風がおさまり、海面に波の無い状態のことを意味する。)
ふるさとの実家は海に面した丘の上にあり、朝起きてカーテンを開けると、目の前に広がる太平洋がいつもの優しい挨拶をくれる。
学校で辛いことがあった日の帰り道の夕方、ふと海の方に目をやると「どうしたの?」と、大らかに広く深いオレンジ色が話を聞いてくれる。
僕にとってのもうひとりの母親が、人間の母のほかに居るとしたら、それはふるさとの凪いだ海だった。
僕の人生は、海岸で波が静かに打ち寄せるような、静寂の中で流れていた。
というか、常にそうあるように子どもの頃から意識して努めてきた感覚がある。
田舎の村での静かな日々。小さな学校での少人数の生活(全校生徒18名の小学校)それらは僕の心を安全な場所に包み込んでいた。
僕は臆病な性格だった。周囲とのコミュニケーションを避け、自分の世界の中だけで生きることを選び、場面緘黙症という壁もあり、そんな小さなコミュニティでさえ、外の世界に向けて声を出すことが幼い頃から苦手だった。
常、暗い海面の中の見えない外敵・肉食アザラシに怯え、氷の岸から飛び込む勇気のない臆病なペンギン。
それでも年を重ねるにつれ、なんとか他人ともコミュニケーションが取れるようになり、同性(男性)に対してなら『ひょうきんモノ』を演じ、道化師イルカになることで生き延びられるようにはなった。
だが思春期に突入してから、ある日突然。自分にとっての『外敵肉食アザラシ 』は→『同世代の女子』になっていた。怖い。いつになっても怖くてまともに喋れない。何気なく女の子に話かけられようもんなら「ア…アウアウアウ!」とイルカののような声を出すばかりで、人間の言葉を失ってしまう。それを見て同級生の男友達は、いつも僕の真似をしてからかった。
凪いだ波の中の恋
そんな僕も18歳のとき、初めての恋愛を経験する。
自分で書いていて本当におこがましいが、当時『学園No.1の美少女』と呼ばれていた同級生、伊藤 紗栄子からある日、僕は告白を受けた。
その日の朝、学校に着くなり、自転車置き場で同じクラスの松原麻衣子から
「ぺいちゃん、今日は紗栄子が放課後、教室で待ってるってぇー。」
と突然伝えられ、僕の隣にたまたまいてそれを聞いていた友人の村本が
「、、うわぁぁああ!スクープ!スクープ!」
と奇声を挙げ、どっかに走って行った。と思ったら朝のホームルーム後の休み時間には、学年中全員に知れ渡っていた。
伝言ゲームが勝手に『告白』に仕立て上げたようにも思えた。
「何か壮大なドッキリか、イタズラやろ…」
疑い全部で放課後を迎える。まったく気が向かない。しかも、仮にも告白を受ける側だっていうのに、僕の足はガクガク震えていて、呼吸も荒くなって息がしずらい。正常に臓器が反応して「ここから先は、危険だ!」と信号を送っているのだ。
約束の時間に教室に行くと、紗栄子がポツンと1人で椅子に座っていた。
「あ…。ありがとう。呼び出して、ごめんね、どうぞ…そこに座って。」
ああ、可愛い。確かにあなたは評判通り可愛い。
だけども可愛いければ可愛いいほど…、なぜか怖いぃ。と感じてしまう僕。
意外だったのが、紗栄子も少し緊張しているようだったことだ。
彼女の誘導にしたがって、僕はオドオドとしながら前に置かれた椅子に腰をかける。ヤバい。息が詰まる…。しかも、なんか、面接みたいな雰囲気だ。
「あの、ちょっと前から、好きになりました…。付き合ってください…。」
獰猛な肉食アザラシは、いきなり投げて来た。
「え? …。あぁ、い、い、今はサッカーが大事だから…。大事で、ゴメン。だから…、あの、無理で…。」
何回も心の中で練習した断るセリフを、なんとか言えた…。
事実、高校サッカー生活最後の大会の予選も控えてあったこともあり、その理屈も考えやすかったし、チームメイトも「女よりサッカーを取った!やるな!エライ!」と称賛してくれるだろう。何より、女の子と付き合うなんて、まだ、怖い…。
僕の返事に、紗栄子は少し淋しそうな表情を見せた。
「そっか…。最後の大会…、頑張ってね!」
「あ、ありがとう…。」
僕はそそくさと逃げるように教室を出た。
「(ドッキリとかではなかったっぽいな…。ま、いっか。)」
とも思った。
そのあと、部活の練習が始まる時間だったので急いで部室に向かうと、同級生らが僕を待ち構えていた。
「で、どうなったよ??」
「断ったよ。」
「はぁ?? お前の分際で、なに断っとんじゃ!! 調子乗んな! お前からもう一回、告ってこいっっ!今すぐ行けっ!」
と全員から集中砲火を受けた。
「ええー…」
躊躇しながらも渋々、情けない足取りで、しかたなく紗栄子のいた教室に戻った。
すると驚いたことに、紗栄子が泣きじゃくっていて、松原(朝、自転車置き場にいた女)が慰めている…。
「ウソやろ…」
僕は気まずさでおかしくなりそうになりながら
「あの、やっぱり、あの…付き合ってほしいです…。」
と告白した。
紗栄子は戻ってきた僕を見て、一旦は驚きはしたが、告白返しには喜んで
「はい。」
と涙目に笑顔で答えてくれた。
彼女に
「…僕の何を好きになったの?」
と聞くと
「一生懸命、掃除をしていたところ。」
と言ってくれたのを、今でも覚えている。
その話を後日、弟にすると
「ボクも掃除、しよ。」
と言っていた。
紗栄子は僕が知らなかったあらゆる初めてのモノ・コトを教えてくれた。
結局、高校サッカー生活最後の大会のことなんか腑抜けにされてしまうほど、僕は紗栄子にどっぷりハマってしまった。
「女性を経験する」ことの幸福を目一杯感じさせてくれた。
しかし、その恋も遠く離れた遠距離恋愛で、静かな波の中に埋もれてしまう。
高校卒業後に彼女は東京で、僕は岡山に進学した。
苦しい遠距離恋愛を続けて半年が経ったころ、紗栄子から
「遠距離はもう嫌だ…別れたい。」
と言われ
僕の初めての恋愛は、1年ちょっとで終わりを告げた。
荒波への突入
20歳の冬。紗栄子にフラれてから2年が経とうとしていた。
誰かから人づてに、紗栄子にはもう、東京の新しい彼氏がいることを聞いていた。
僕は自動車整備士の資格を取得した後、地元の父の工場で将来の後継ぎとして働いていたが、『絵の仕事で食っていく』という夢をいきなり&無理やり捏造し、父の工場を飛び出し、上京した。
本当の目的は、紗栄子の近くに行きたかっただけなのだ。
とは言え、それらしい理由と計画は、わりとちゃんと周囲に「見える化」を果たせていたと思う。
『東京の江戸川区で新聞配達をしながら寮に住み込み、お茶の水のデザイン専門学校に2年間通う。学費も生活費も自分で賄う。卒業してデザイン事務所か広告代理店に勤め、生計を立てていく。』
上京を反対する父に対して、僕は偉そうにこう宣言したのだが、心中の98%の本当の目的は、未練たらしい…フラれた女に会うためのものだ。口が裂けても『紗栄子』というワードは、周囲の誰にも漏らさなかった。漏らすわけにはいかなかった。
その年の春に僕は計画通りに上京し、新聞配達奨学生をしながらデザイン専門学校に通った。
グラフィックデザインコースのクラスの同級生は高卒ルーキーがほとんどだったが、中にはそうでない年齢の者、僕のような20代〜30代の者も多くいた。色々な年代の、色々な志を持った者達がギラギラとした眼差しで一つの教室にひしめき合っていた。
僕のように「元カノに会いに来た」目的で学校に通っている人間がいたかどうかは、定かではない。
東京の、田舎とはあまりにも違う生活速度と人間性質に、最初こそ物怖じしたが次第に慣れ、僕はそこでも「道化師イルカショー」を演じることで、自分の居場所を確立していった。
人生で初めて頭を金髪にし、見事に『田舎モンの東京デビュー』が出来上がっていた。デザインの作品以外の何かで自分の存在を示すために、それくらいのことしか思いつかなかったのだ。
仕事と学業の両立にもなれ始めた秋頃、早くも僕の本来の目的が動き出した。
紗栄子から連絡(Eメール)が来たのである。
「ワタシの友達と、3人で飲まない?」
その時の僕は、もうあの頃の僕ではなかった。
もう田舎で「アウアウ」言ってる僕じゃないぞ、と。
告白返しをして、意味わからん状況を生み出すような男じゃないぞ、と。
「うんいいよ。新宿で飲む?思い出横丁よく行くけど。」
僕はなるべくサラリとした文章になるよう配慮し、連絡(メール)を返した。
約束の日の夜。
3年ぶりの紗栄子との再会。新宿駅西口。僕はこの夜の為に生きてきたとハッキリ思った。隣に連れてきてくれた紗栄子の友人のことは、申し訳ないが、全く見えていなかった。
「((やっぱりめちゃくちゃ可愛い…))」
通ってる専門学校にも、東京の街中を見渡しても、紗栄子以上の女は見つけられなかったのだ。
3年越しの夢が叶った嬉しさと、紗栄子のあまりの美貌に、意識が遠のきそうになるのを堪え、僕は二人を、行きなれた焼き鳥居酒屋に案内した。
思い出横丁を3軒ハシゴした後、ゴールデン街にも足を伸ばし、3人ともわりとベロベロになって、楽しく並んで肩を組んだりなんかして歩いた。
まさに完全試合だった。
非の打ち所がないパーフェクトゲームな夜。
気がつくと終電の時間に近づいていた。
僕の帰りは中央線。
紗栄子たちは小田急線。
改札口まで3人でヘラヘラ、フラフラとたどり着いた。
僕は満足だった。楽しかった。やり切った。「結果は残せた」そう思った。
今日の時間のような積み重ねのタネが、未来の花を咲かせるんだ
と、一人納得して
星の見えない夜空を見上げていた。
『ワタシも中央線乗る!』
紗栄子が突然、僕の左腕にしがみついてきた。
『え…、えぇ!?』
おそらく、僕が驚いたのと同時に、紗栄子の友達も僕と同じ声をあげていた。
紗栄子「もう、いいもん。今日は、行くもん。」
僕「…」
友達「も〜、知らないよっっ(ニヤリ)」
紗栄子の友達はそう言って、ひとり小田急線の方に消えていった。
その夜。新聞配達の寮の4畳半の部屋で、紗栄子と寝た。
3年ぶりの、紗栄子との交わり。
僕は微妙な感情を2つ、抱えていた。
「…なんか、別人になっちゃったね。なんか、…凄い。まぁ、もちろんいい意味でだよ。」
つい言いたくなって、口にしてしまった。
「どういう意味? もぅ、やめてよ。」
紗栄子は照れ笑いしながら頬を膨らませた。
僕のほうは3年間もずっと一人で我慢してたんだけどな。…というひがみは胸に留めておいた。
ともあれ、思いがけない。もはや想定外の、結果以上の結果を生んでしまった夜に、僕は動揺して朝まで起きていた。間違いなく幸せだった。幸せではあったのだが…
微妙な感情のもう一つ、
紗栄子には彼氏がいる。
僕は、彼氏がいる女性と寝てしまった。
凪だったはずの波模様が、少しずつ変わって行く。
じんわりと嫌な静けさの中、夜の暗い海の向こうから、怪しげな気配のようなものが近づいてくるのを、背中に感じた。
悲劇の果てへ
紗栄子と翌週、再び会った。
「彼氏と、ちゃんとお別れした。」
電車のドアの隅に身をめり込ませ、視線を床に張り付かせたまま、彼女が言う。
「そっか…。じゃあ、また、付き合おうか。」
「うん。」
3年ぶりの復縁。
ぼくらは総武線の電車の中、目を合わせることなく、それ以上の言葉もなく、再契約した。
しばらく「ガタンガタン…」と電車の音だけが響く。
初めて付き合った時とは全く毛色の違う、ただただ冷たい質感。
田舎から出てきたまだ若い2人には、扱いきれない感情だった。
嬉しいのに、幸せじゃない。
紗栄子と復縁した僕だったが、相変わらず朝と夕方の新聞配達、昼間は学校、夜は課題にと、毎日の忙しさに追われ、なかなか恋人との時間をつくれない。
紗栄子は新宿の百貨店での仕事を終えると時々、僕の狭い部屋に泊まりに来てくれた。
泊まりに来てくれた日は、朝刊の配達の時間が来るまで、紗栄子を抱く。
そんな実りの薄い日々を1年弱の間過ごした。
そうしている間にまた夏が来て、僕は22歳になった。
学校は夏季休暇になり、ぼくは新聞配達の仕事を3日間、誕生日休暇をもらい、紗栄子と北海道旅行に出かけた。
久々の、日常から離れた、紗栄子と2人だけの時間。北海道での初めてのグルメ。夏の北海道の美しい景色。つかの間の時を噛み締めた。
旅行から戻り。
後日、僕たちは寮の部屋で友人たちに渡す北海道旅行のお土産を選別していた。
「これは地元の誰々に。これは誰々のお母さんに。」
お互いの地元が同じということが、とても幸せに感じられる瞬間だった。
すると紗栄子のケータイの着信音が鳴る。
「〜☆♪*〆♪♪…」
紗栄子はチラッとケータイに目をやるが、電話に出ようとはせず、僕に向かって話し続ける。
はて?
と僕は思いながらも、紗栄子が話かけるので、それに応じる。
やがて着信音は止み
またすぐ再び、紗栄子のケータイに着信が鳴る。
「〜☆♪♪…」
「電話、 出なくていいの?」
さすがに僕も気にして聞いたが、紗栄子は
「いいの。」
とだけ答えた。
やがて着信音は切れ、紗栄子はそれから真顔のままでしばらく考え事をしていた。
あまりにも不穏な顔つきだったので、ぼくは紗栄子が心配になって
「…どうした?」
と声をかけた。
「…」
無言のまま、表情を変えない紗栄子。
「…?」
僕が紗栄子の肩に触れようとした瞬間
「ゴメンッ、、…。 …、浮気。…しちゃったの!」
と言って彼女は両手で顔を覆い、泣きだした。
「…??? ふへぇ?」
面食らった僕は、すかしっぺみたいな音を、喉の奥から出した。
ディープインパクト
「電話の相手は…誰?」
どうやらさっきの着信が、浮気相手からのモノだったようだ…。
僕はできる限り落ち着きを装い、静かに紗栄子に聞いたものの
” 浮気相手は元カレだな ”
と勘ぐった。
「…、あなたの、知らない人…。」
紗栄子は答えながらも涙が止まらない様子だった。
「会える時間が少なくて…淋しくて、…つい、誘いに負けてしまったの、ごめん、ごめん…。」
その返答は僕にも理解できた。
理解に努めようと必死に頭を冷却した。長い時間が経ち過ぎて、凍ってしまうんじゃないかと思うくらい、僕はしばらく無言で考えた。その横で紗栄子はひたすら泣き続けていた。
「…大丈夫だよ。…紗栄子を責めれないよ。」
チューブの残りカスを絞り出すように、言葉の塊を押し出した。
「別れたくない!!もう一回やり直したい!」
紗栄子はそう叫んで、まだ泣き止まない。
「それは、…。少し考えたい…。」
僕はそう返事した。
気まずい空気が流れ続けるのが嫌になり
気を取り直して、午後から予定していた銀座デザインギャラリーのアート鑑賞にとりあえず向かおうと、僕は紗栄子に提案した。
重い部屋から外に出ると幾分、気持ちが楽になった。
僕たちは無言で歩きだした。
紗栄子は駅までの歩きの道中も、電車の中も、僕の手をいつもより強く握りしめていた。
デザインギャラリーに展示された前衛的な作品たちは、若くひ弱な僕の陰鬱を馬鹿にするかのように額縁の中で踊り狂って見せた。
しかしどう頑張っても、今はそんな気持ちになれない。アバンギャルドでビビットな赤と青のポスター作品は、枯葉色に見えている。
紗栄子は…。
一方、紗栄子は、完全に正気を取り戻していた!
アバンギャルド・ポスターに目を輝かせ、感性が溢れんばかりに、いつでも彼らと踊れるよ、という感じだった。
僕は唖然とした。一気に白けてしまった。
いくつかギャラリーを後にし、帰りの銀座駅のホームで電車を待っている間も、紗栄子はまだギャラリーでの興奮が覚めないという感じで、作品たちについて何かを熱く語っている。いや、今思うと、もしかすると、そう取り繕っていただけなのかもしれない。
「今日は、泊まりに、来る…?」
紗栄子は急に声のトーンを変え、僕の手、ではなく、僕の股間をギュッと握ってきた。
…。何してんねん!
別れる。無理。
僕はそう吐き捨てて、紗栄子の方を振り返ることなく、当てもなくまた銀座の街に引き返し、歩き出した。
着実にスピードを上げて近づく台風
「ふざけんな…、ありえへん…。」
早足で、ボソボソと何かを呟きながら、さっき二人で歩いてきた銀座六丁目の通りを巻き戻す。
おかしい、おかしい
どこで道を間違った? 何を食ったらそんなおかしくなった?
同じ田舎で、同じ海を見て育ってきたキミが、なんでこんな思考回路になるんだ? なんでだ、前は絶対こんな子じゃなかった、理解できない!!
22歳の若造は、たった22年で作り上げた自分の小さな小さなワクの中に彼女を押し込んでタコ殴りにした。
心の中でどれだけ罵倒しても、答えが返って来るわけがない。
浮気相手が紗栄子の元彼だったとしたら、それは僕にも完全に責められる話でもない。
そもそも僕自身も、この間まで紗栄子の ”ただの浮気相手” だったのだから…。
ひたすら歩き、気がつけば陽は落ちていて、あたりはポツポツとオンレンジ色の優しく温かい、大人達が好む景色に彩りはじめていた。
銀座の街は、これからディナーを予約してくれているカップルたちを招き入れるための準備で忙しく、ワクワクしているようだった。
街はどこも、明るい未来に向かっている人々の成功を応援している。
急に阻害された気持ちになって、心細くなり、僕はトボトボ…寮に帰った。
寮に戻ると、同じ寮生活の配達メンバーが男4人で夕食の支度をしていた。
支度とは言っても「なに食おう…。」と言って相談しあってるだけだ。
料理が好きだった僕は、いつもメンバーの炊事係だった。
「あ!ぺいちゃん帰ってきた! ぺいちゃんごはん!」
僕は、ごはんではない。
僕の心境もしらずに…。
と、ウンザリした気持ちになったが、わずかでも求めてくれている人がいることに、なんだかほんの少し、気持ちが明るくなった。
皆 年齢はまちまちだったが、配達の仕事と、それぞれの夢に向かって励まし合う兄弟のような仲だった。
「僕、今日、失恋したんだ。浮気された。悪いけどメシなんて作る気力ないよ。」
「え!? 紗栄子さんが!? うそだろ…。」
紗栄子は寮によく泊まりに来ていたし、皆にも紹介していた。器量がよくて愛想もいい紗栄子はすぐにみんなに慕われていた。
なのでメンバーも驚きとショックを僕と同じくらい感じてくれていた。
「今日、みんなに奢るからさ。飲みにいこうよ。僕の失恋慰めてよ。」
え!! いっぇーい!! とは言わなかったが、彼らの頭の上からは、確実に声が漏れていた。
最後の晩餐
彼らメンバーは本当にうまそうに食って飲んだ。
「ぺいちゃん!もう忘れようよ〜。東京には他にもいい女いっぱい居るって!」
寮の近くの行きつけの、新小岩駅前の焼き鳥居酒屋。その日、この店一番のおすすめメニューが、僕の失恋話だったのだから、それを肴に酒も進む。いや、むしろコイツらはもうそんなことどうだっていい。単純にタダ酒タダ飯は最高に旨いだけの話だ。
僕自身も、グデングデンに酔った。
次の日も朝刊の配達があるため、いつもならそろそろ帰って寝て酒抜かなきゃぁ となるのだが、その日はそうはならなかった。
「次、行こう。カラオケ。」
新小岩クッターナビル7階のカラオケ歌広場に、メンバー全員を道連れにして雪崩れ込む。
アホほど失恋ソングを歌いまくった。
思いつく限りの失恋ソングの数々。
期待もしていなかったが、あんまりキズに効果はなかった。どの歌も、今、リアルに僕が経験している失恋とはマッチしているものがなかったからだ。
どの医者に頼っても、薬はない。
初めから分かってはいたことだ。
日付が変わっていた。
そろそろ配達所に戻らなきゃ、やばい。
僕はカラオケルームの隅のソファに体を寄せて、デンモクとマイクから距離を置いた。他のメンバーはまだまだ元気に熱唱している。
少し気持ちは落ち着き始めていた。
まぁ、こんな経験もあるか。
デザインの勉強、学業に集中しよう。
とりあえず、メンバーのおかげで気持ちはそこまで持ち直していた。
隣でメンバーの一人が酔い潰れて寝ている。
一番後輩で、出来損ないの綾部だ。
彼は僕より1年あとに宮古島から上京した19歳の男で、僕が初めて上京した頃よりもさらにオドオドした、沖縄弁バリバリの田舎っぺだった。
東京の人間と新聞配達の仕事が肌に合わず、先月、配達の仕事をクビになっていて寮でニートしていた。
僕は、そんな彼が入所した頃から親近感を持ち、仕事も一生懸命教え、遊びも買い物もよく一緒に行った。僕が作ったご飯を一番多く食べてくれた。海外サッカーが好きなところとも同じだった。ファッション業界に憧れをもち、夢を語る彼の顔を、ニヤニヤしながら見るのが好きだった。
僕は彼を「東京の弟」と呼んでいた。
「おーい、綾部ぇ、綾部くぅん。ケータイ鳴ってるよー。」
綾部のケータイがさっきからブンブン鳴っているのに気付き、彼を起こしにかかる。が、ぜんぜん起きない。まぁいいか、こいつは配達、ないんだし。
そうするとまた綾部のケータイに着信が入る。もー、しゃあないな、と再び綾部を起こしにかかった時、綾部のケータイの光る部分に、ふと目が入る。
『紗栄子』
着信の相手を知らせる表示だ。
「ん?」
一瞬僕は、自分のケータイなのか? と勘違いした。
ぼんやりしている間に、着信音は切れる。
だいじょうぶ。間違いない。これは綾部のケータイだ。
迷うことなくケータイを開く。ロックもかかっていないケータイは着信履歴もメールの履歴も、どうぞご自由にと言わんばかりに残ってある。
綾部の中に、紗栄子がいた。
紗栄子の中に、ずっと綾部がいた。
メールの履歴によると、3ヶ月も前から。
暴風域の荒波
タンスや机の引き出しをひっくり返して金目のモノを荒らし回るギャングのように、僕は綾部のケータイのあらゆる履歴を隈なく見漁った。
そこにあったのは
綾部が紗栄子と初めて交わった後に、メールを送り合った卑猥な文章。
僕が眠気に耐えながら課題に打ち込んでいる間に、綾部と紗栄子が待ち合わせをやり取りしたメール。
僕たち二人で行った北海道旅行の間も随時、紗栄子は綾部にメールを入れている。『寂しいよ』『会いたい』 …『好きだよ』の数々。
ひと通り履歴を見終わってお腹いっぱいになった僕は、一呼吸置き、綾部のケータイを手に握りしめたまま、カラオケの部屋を飛び出した。
メンバーは僕が出て行ったことには気づかず、まだまだ盛大に酔っ払いながら歌っている。
僕はニヤケが止まらなくなっていた。クククッ…。込み上げてくる笑い。口を押さえていないと周囲の人に怪しまれるくらい、ツボに入って抜けれなくなった思春期の女子くらい、止めれない笑い。本当にどうにもならなかった。
興奮してドーパミン放出によるモノだったのか…。だとしても、『快楽のホルモン』ではないのかドーパミンは。僕は『快楽』を感じたのか。理由はわからない。
カラオケ歌広場のフロントを早足で突き抜ける。
「ありがとうございま…」
フロントスタッフの声掛けには目も合わさず、エレベーターに乗り、ビルの屋上まで上がった。
屋上からは、本当に綺麗な、繁華街と住宅地の街の灯り。そして夜空に星がキラキラと広がっていて、東京に来て、初めて見た星だなと、ふと思った。
綾部のケータイをポケットから取り出し、着信履歴から『紗栄子』を選んで発信ボタンを押した。
呼び出し音が3秒くらいしたあと、聴き慣れた声が聞こえてくる。
「はい、もしもし」
あまりにものん気な声に、僕は思いっきり吹き出してしまった。
ドッキリ大成功。
「ハハハッ!!…誰かわかってんの??」
「・・・。」
「すげぇーこと経験させてくれるなぁ、びびったよ!アハハハッ!」
「・・・。」
「まぁいいや…。これからお返しにすげーもん見せてあげるから!じゃーね!」
「ごめん…まっ」
電話を切った後、綾部のケータイは屋上から繁華街の方にぶん投げた。
そこから僕は、ターミネーター2の悪役キャラ「T-1000」(ロバート・パトリック)にでもなったかのように、ターゲットをロックオンし、目的達成に向かう。
エレベーターで再び7階のカラオケ歌広場まで降り、7階でエレベーターを出るとそのまま無言で歌広場のフロント受付を通過する。
「いらっしゃいま…」
フロントスタッフを無視して通過したら、ドリンクバーで大きめのグラスを手に持ち、自分がいた部屋を目指す。扉を開ける。
メンバーが全員、酔っ払って寝ている。
綾部は
綾部がいない。
部屋を出て、廊下を探す。
居ない。
あ、居た。
トイレから出てきた。
ダッシュでターゲットに近づき、間髪入れずに綾部の頭めがけて思いっきりグラスを振り下ろす。
「ガッ!」
綾部がゴロンと目の間に転がる。不意を突かれ、何が起こったか分からない顔を一瞬し、うずくまったが、僕の顔を見て状況に気付き走って逃げ出した。
「ご、ごめんなさい!!」
僕は逃すまいと、綾部の背中に飛び蹴りを入れた。
綾部がまたひっくり返って、歌広の「ガチャガチャ」に突っ込む。
僕は綾部に馬乗りになって、トドメを刺そうと何度もグラスを綾部の頭上に振り下ろす。
ガードする手の上から何度も打ちつける。
何かの液体が顔面に飛び散ってくる。
歌広の店員が血相変えてどこかに走っていくのが横目に見えた。
知ったこっちゃない。
「ちょっっつ!ぺいさん!!何やってんすかっ!?」
他のメンバーも騒ぎに気付き駆けつけ、一番体のデカイ佐藤が僕の背中を掴んでひっぺ替えそうとする。
「ぺいさんケーサツ来ます!!ヤバイですって!とりあえず逃げましょう!!!」
無理矢理メンバーに引き剥がされ、エレベーターに押し込まれた。
「なにしてんすか!? なにがあったんすか!!?」
エレベーターに同乗してくれた佐藤が必死に訳を聞いてくれても、僕は、えづきながら泣くばかりで何も答えられなかった。
「とりあえず走って逃げてください!!!」
1階にエレベーターが到着すると同時に佐藤が叫びながら僕を突き飛ばした。
走った。なんか、知らない間に裸足だった。それでも走った。
走りながら、カンケーのない居酒屋の看板を蹴り破りながら、笑いながら走った。
ひたすら走って、路地裏に入り、暗いゴミ箱の隅の方に隠れて
ブルブル肩を震わせて泣いた。
怖かったんじゃない。止められたのが悔しかった。
今からでも戻って、さらに綾部に手を加えたい。
どうすれば復讐はゴールに到達できるんだろう。
ゴミの中でひたすら考えていた。
表の道で、数人の警察官がチャッカチャッカ音を立てながら走り回って行ったり来たり。僕を探しているのを何度か物陰から見える。
それから1時間くらい経っただろうか。
いつの間にか寝てしまっていた。
あ、いけね。配達の時間とっくに過ぎてら。
そう思えるくらい、少し落ち着きを取り戻していた。
とぼとぼ配達所まで戻ると、さっきまで一緒だったメンバーらはすでにしっかりと配達に出動していた。
「すげーな」
流石に今の僕は無理だ。配達なんか行けない。
もうどうでもいい。流石にこんな時間だ。
誰か代わりに行ってくれたんだろ。
そう思って事務所の中を見ると、僕が配る新聞が600部ほど、まだ台の上に残されていた。
まじかよ。
所長が立っていた。
「なんかあったらしいな。でも仕事には関係ない。行け。」
その言葉は、至極当たり前のことだが、キツかった。
泣きながら配った。
配達中に警察に捕まるんじゃないか? と思ったが案外大丈夫だった。
配達を終え、事務所に帰ると
「よう頑張ったな。 明日と明後日、2日くらい休め。」
と所長が言ってくれた。
所長にも紗栄子のことは紹介していたし、紗栄子のことを可愛がってくれていた。
だからこそ深くは聞かず、「とりあえず休め」とだけ言ってくれたことが、本当に身に沁みるくらい嬉しかった。
「ぺいさん、生きて帰って来れたんすね、よかったっす。あと、コレ。」
後輩の佐藤が、現場に落ちていた僕の靴を渡してくれた。
血だらけになった靴を見て、昨夜のことを思い出し、またしても怒りが蒸し返され、溢れてきた。
「綾部は、綾部はどうなった?」
「あぁ、とりあえず救急車で運ばれたけど、すぐ帰されたみたいっす。あと、警察には『自分でコケた』って言ったみたいですよ。よかったっすね。」
ふざけんな。良いワケないだろ。アイツは勝手に僕をかばったつもりか?
逆に怒りが込み上げてくる。
二日間の休みが、更なる憎しみの味を漬け込む漬物石となり、僕の体の上に重く重くのしかかる。
僕は綾部を探す旅に出かけた。
______________________________
綾部の部屋を飛び出したあと、行く宛もなくさまよった。
するとたまたま10mほど前のバス停にバスが止まった。
バスの扉が開くのを待っていた年配の主婦の方が、僕のことをチラリと見る。
僕は後を追うように思いつきで飛び乗った。
「あ、やべ。また靴履いてない。」
バスの一番後ろの席に腰を下ろし、すすだらけの自分の素足を見てから、初めて気づいた。なんなら少し切れて血が滲んでいる。
そういえば、昨日の昼から服も着替えてなかった。
これは、流石にやっっべぇ…。
気に入ってヘビロテしていた、黄ばんだヨレヨレの「3ピース」のロゴ Tシャツが、リアル人血による真っ赤な血飛沫のアートデザインに施されてしまっている。
昨晩の、あの時のやつだ。
まぁ幸い。僕の頭髪が、限りなくホワイトに近いゴールド色だったので
「パンクロックの兄ちゃんが乗ってきたな」そんくらいにしか、周囲の乗客たちは思ってなさそうな、そんな顔をしてる。みんな、興味がない。
でも流石に…。これはもう着れない。
そうだ、原宿行こう。
新しい靴と服、買おう。
行き先も決めずにバスに乗ってしまっていた。
穏やかに晴れた昼下がりの住宅街。代々木一丁目から出たバスは、『裸足のパンクロッカー』を乗せて、神宮の杜(もり)ルートをのんびりと進む。
「『信じる』って言葉は、僕の頭の中の国語辞典からは無くなった。」
と、しばらくの間、周囲の人にカッコつけて話していたが、なんとなく、言葉としてしっくりとはきていなかった。「だからどうした」という部分が解決されていなかった。
それがなんなのか、深く考えることをやめ、年月が過ぎていた。
ある日、一人の女優さんが、その問いから開放してくれた。
この言葉で、あの時の僕は、やっと安らかに眠ることができた。
台風は去った。
しかし僕は、今も故郷の凪を思い出すことができないでいる。
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません
👇後日追記
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