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動けない間に、みんな遠くなっていった。なぜ未だに動けないのか。

周りの人たちが、どんどんステージが進んでいる感覚を強烈に感じる。

自分だけ何も進んでいないと思ってしまう。少しは進んでいても、進み方が人より遅すぎて、何もできていないのと同じように見える。

TOEICも、一度受けて恥ずかしい点数を取ってから離れてしまった。かろうじてDUOLINGOアプリをやって、アプリと会話するだけの日もザラだ。もう余生なのか。

数少ない友人知人は、遠方でがんばっていたり、子育て中で忙しかったり、自分の目標に向かって邁進していて、それぞれ人生を謳歌している。みんな、しっかり努力と行動をしている。

生きているな、かっこいいな、と思う。

輝きがとても眩しい。眩しすぎて、また友人のSNSが見られなくなる。おすすめ機能がない、昔のシンプルなSNSが懐かしい。

SNSでは、良い出来事を出力していることが多い、というのも分かっていても、自分の停滞期が続きすぎて認識がおかしくなっているのだと思う。在宅仕事で人との関わりが少ないと、意識しないと本当に引きこもりになっていく。


年々、人と会える時間が限られてくることもあって、より「明るく話せるネタができるようにしなきゃ」、「前より変化して、せめて、がんばっている途中経過にしなきゃ」と、思えば思うほど泣けてきて、人と会いたいけれど会いたくない、矛盾した気持ちが増幅する。

「今年で寿命終わるならどうする?」と考えて、後悔のないように生きようと決めたのに、また私はうだうだ言って、ああもう、とにかく動きなさいよ!!!!!と自分を強烈に罰しているのに、全然動けない。

私の場合は怠け癖があるだけで病状ではないと思うし、自分で尻をたたいて、動かないと。ただメンタルが不安定なだけだろうと言い聞かせて自分なりに対処してきたが、結局モヤモヤと半泣きが続いて収集がつかなくなり、久しぶりにnoteに書きなぐることにした。

ネット上でマイナスなことを書かないように、書くならアナログの日記で終わらせるようにと意識していた。ネットは見る専か、もうアカウントを全部消すか悩んで、でもまだ勇気が出なかった。
書くことがデトックスになると、四柱推命で診断してもらった言葉で、思いとどまってしまった。

よく言われるけれど、やっぱり自分を変えられるのは自分しかいないと、改めて痛感する。 
でもこんなに長い間元気が出ず、行動できなくなってしまったことが、心底恥ずかしくて情けない。現状維持バイアスが強すぎるのか。親のサポートを考えると自分の時間がいつ無くなるか分からないし、こんなにダラダラしてる場合ではない。親のことも、行動のストッパーにしてしまっている気がする。

昔からずっと欲しかった安心は確かにあるのに慣れてしまって、からっぽな人間になってしまったのか。目標に突き進む元気をつくらないといけない。

もう少し落ち着いて、アナログの日記に書き込んで深掘りを続けて、自分の本当の本音や欲を取り戻していきたい。
良い事を書き出して振り返っているのに、まだマイナスの認知が強すぎるのか。
早く行動できるように、まだできなくても、せめて明るく笑って話せるようにしたい。


隣人が、朝も夜も、何かを叫んでいる。家にいる時に限って叫ばれる。こっちだって出来るなら泣きわめきたいわ。これもある種の欲なのかも。

叫び声や物音、大型車の音も気になるため、四六時中ラジオとか流してないと自分がダメになりそうで、今は本当にラジオに助けられている。
でも、そこでインプットを増やしすぎて、楽しいのに鬱々としてしまうことがあり、それも悩みの一つだったりする。インプットのバランスを取らないと。


今の私には、お金を出してでも、良質な一人時間と、とにかく無心になれる行動が必要なのかもしれないと感じた。お金減らしたくないけれど、少しだけカフェに行ってこようかな…。


この吐き出しだけで1,000文字とっくに超えていて、重たい溜息が出た。読んでくれた方がいたら、本当にありがとうございました。

社会と隔たりがあるように感じる今の私には、この雑記を読んでもらえただけでも、生きた心地がするのかもしれない。

今日も、おつかれさまでした。ゆっくり休めますように。

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