保育者の立場

保育施設で、いわゆる「先生」と呼ばれる立場で仕事をしていますが、私は自分のことを先生だとは思っていないし、先生という立場も、先生と呼ばれるのも嫌いです。

「先生」とは
①先に生まれた人。年長者。
②学芸に長じた人。学者。
③ 医者など、その道の専門家、指導的立場の者などを敬っていう語。
④師として教える人。現代では、特に、教育にたずさわる人、学校教員をいう。また、自分が指導を受けている、あるいは受けた師。教師。師匠。
⑤ からかうような気持で、他人をあなどっていう語。やっこさん。大将。
⑥ (代名詞的に、接尾語として) 相手とする師や、教員、医師、議員などを尊敬して呼ぶ語。

出典:コトバンク

教育現場における「先生」は、上の例からすると④の「師として教える人」でしょう。実際、勉強のことや社会生活のことなど、幼稚園や保育園、学校などで先生から教わる・学ぶことはとても多いです。

ここで疑問に思うのが、そもそも誰が「先生」と呼ばせているのか、ということ。

例えば芸術や芸能などを極めた人に弟子入りしたり、伝統工芸品の職人に弟子入りしたり、ある学問分野を牽引するような大学教授の研究室に入って学んだりと、教えられる側のほうから「この人に教わりたい!」と思って、先生と生徒・師匠と弟子という関係性になるのであれば、そこでは純粋な敬意をもった「先生」という呼称が使われますし、そうあることが自然です。

対して教育現場はそうではない。

たまたま同じ時代、同じ場所に育った子どもたちが集まって、たまたま彼らを担当することになった大人がいる。それだけの偶然的な関係性にもかかわらず、さも当たり前のように「先生」と呼ぶことを強いられ、「先生」に従うのが普通だと思わされる。

子どもたちにとって「先生」とは「幼稚園・保育園・学校にいる大人」を指す用語であり、それ以上の意味はありません。敬意なども当然ありません。たまたま同じ空間に集まっただけ、相手の人となりなども一切わからないのに、学校に勤める大人というだけで「先生」となり、子どもたちとの上下関係が生まれてしまっている。

子どもたちには一人ひとり人格があり、意思があり、可能性がある。
それは大人も一緒。年齢が違うというだけで、人間としての本質は何ら変わりありません。
子どもも大人も同じように考え、行動し、成功し、失敗し、反省し、経験し、生きている。大人は子どもよりも少しだけ知識と経験が多いので、先を予測したり、過去の失敗を踏まえて行動したりすることはできるけれど、それでも人生の正解を知っているわけじゃない。子どもたちに「○○すると△△するかもしれない。」とアドバイスを送ることはできても、「○○するのが正しい。□□は間違いだ。」などと言って従わせる権利はありません。

極論ですが、もし相手より知識や経験が多いだけで先生と呼ぶのであれば、
3歳児は4歳児を先生と呼ばなければならなくなります。
それに人生を通して培っていく知識や経験は一人ひとり異なるのに、それを多い少ないと比較すること自体がおかしいとも言えます。

私の勤める認定こども園では、「先生」という呼称を極力使いません。
(「極力」と言ったのは、対外的には便宜上どうしても「先生」という言葉が必要だからです。保護者や関係先に対しては「職員」「スタッフ」という用語を使うこともあります。)
子ども一人ひとりに名前があるように、大人一人ひとりにも子どもたちが親しみを持って呼べるような呼び名をつけています。これは子どもとの距離感を縮める意味もありますが、互いが互いに対等な関係性であることを象徴する意味合いが強いです(そのためここでの呼び名はあくまでも愛称であり、あだ名や蔑称になってはいけません。子どもたちは職員との距離が近くなってくるとあだ名で呼ぶようになりますが、そこはやんわりと否定します。)。
大人は子どもにさまざまな言葉をかけますが、指示は極力減らし、問いかけを重視しています。問いかけは子どもの思考力を育み主体的な発言を生み出しますが、指示は思考を止めて服従させてしまうからです。

指示と問いかけの違いについては、以下のような記事もあります。

子どもは決して未熟で劣った存在ではなく、子どもなりに考え、子どもなりに行動し、子どもなりに社会をつくっています。周囲の大人はそれに対してあれこれ言いたくなる気持ちも理解できますが、大切なのは「先生」になって指導することではなく、子どもの社会に目を向け、耳を傾けること。

社会も文化も異なる国に対し「我々のほうが正しい」と宣戦布告して征服するより「どうしてそのような考え方・行動をするのだろうか?」と歩み寄り、問いかけを重ねて適切に外交したほうが平和であり、互いに互いを学んで成長することができます。

ただし、大人が「先生」として子どもを従わせてもいい場面がひとつだけあります。

それは「子どもの生命に危機が迫っているとき」。

子ども同士のケンカがエスカレートして大きなケガや事故につながりそうなとき。
災害が発生して一刻も早く身を守らなければならないとき。
子どもに問いかけて思考を促す余裕のないときだけは、強制力のある手段に訴える必要が出てきます。

それでもそんなときに要となるのは、やはり普段の子どもたちとの関係性です。

普段から子どもに指示ばかりして従わせてばかりでいると、やがて子どもは反発しますし、本当に聞き入れるべき指示とそうでない指示との区別がつかなくなってしまいます。
子どもたちと普段から対等で良好な関係性を築いていれば、いざ緊急事態になったとき、子どもは周囲の大人の普段と明らかに違う様子を明確に察知します。「今だけは絶対に言うことを聞かなければならない」という緊張感をもち、冷静に指示を受け止めて行動することができます。


少し脱線しましたが、結局のところ、私はあくまでも子どもたちと同じひとりの人間であり、他者を教え導くような存在ではありません。子どもたちと同じように社会のなかであれこれ模索している、ごく普通の人間であるからこそ、私は自分を先生だとは思っていませんし、先生と呼ばれる立場にはなりたくないと思っています。

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