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【52歳から自分らしく生きるために】生涯忘れられない、15年前のアフリカ初出張の話

アラフィフ責任世代のあなたへ、

今日もお仕事お疲れ様でした。

突然ですが、あなたがこれまで仕事をしてきた中で、
強く印象に残っている仕事は何ですか?

強く印象に残っている仕事、社会人初出張はザンビア

私は、26年前に東北地方の国立大学の大学院を修了してから、
2回の転職を経験し、合計3つの会社で働いてきました。

この26年に亘る会社人生において、私にとって最も強く印象に残っているのは、15年前に社会人になって初めての海外出張で渡航した、

アフリカ南部に位置するザンビア共和国(以下、ザンビア)という国の仕事です。

ザンビアは、アフリカ大陸南部、南半球に位置する旧イギリス領の内陸国で、コンゴ民主共和国、タンザニア、マラウイ、モザンビーク、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラ、ボツワナの8カ国と隣接しています。

ザンビアと言えば、世界遺産好きの方ならご存じかもしれませんが、国の南端、ジンバブエとの国境に位置する、世界三大瀑布のヴィクトリアの滝が有名です。

私は、のちのち国際協力事業として実施された、地方の村落のために社会インフラを整備するプロジェクトの計画を作るためのチームの一員として派遣されたのです。

この案件は、私が海外MBA留学から日本に帰国した翌年、海外事業を担当する部門に異動となった直後に担当した初仕事でした。

そして、その初出張がいきなりアフリカ地域というのも、かなりハードルの高いものでした。

そもそもザンビア出張は、会社にとっても初のアフリカ案件ということで、まだ現地の状況も熟知しておらず、情報収集も手探りな状況だったのです。

私はこの案件が開始してから二回目の現地調査のタイミングでチームメンバーに加わりました。

私の役割は、プロジェクトチームのロジ(庶務全般)担当で、チームメンバー全員(計10名分)のフライト、宿泊先、現地レンタカー契約、現地事務所準備、セミナー会場予約、プロジェクト運転資金管理、食事会場予約等の雑用全てでした。

前任者が別のプロジェクトの担当となったことから、私が後を引き継ぐこととなったので、業務引継を受けましたが、この会社に入ってから初めての海外の仕事ということで、やらなければならないことを頭に入れるのは大変でした。

それでも当時はまだ私も30代半ばと若かったこともあり、今よりも気力も体力もありました。

人間関係に問題のあったプロジェクト

現地への渡航は、乗り継ぎ2回、成田~香港~ヨハネスブルグ(南アフリカ)~ルサカ(ザンビアの首都)の経路を取り、総所要時間は30時間以上掛かったと思います。

このプロジェクトでは、合計4~5回の現地調査のための渡航が予定されており、一回目の現地滞在期間は50日となっていました。

私が所属していた海外事業担当部署は、東南アジア地域のプロジェクトを数多く実施していたのですが、それらのプロジェクトでは1回の現地渡航期間は長くとも3週間程度というのが通例でした。

このため、50日間という長期出張は異例の長さでした。
実はこのプロジェクトチームには色々と人間関係の問題があり、とある人物が上長を差し置いて自分勝手に出張工程を作り上げてしまい、強引に出張稟議を通してしまったのが原因でした。

この人物が作った工程表通りに業務を進めるにはかなり無理があり、一つの地方都市の滞在日数が極めて短く、更に数百キロという都市間を結ぶ未舗装の道路を1日で移動するような強硬スケジュールとなっていました。

もう自分はだめかと思った、生涯忘れられないアクシデント

これが原因で、私が恐らく生涯忘れることのない大きなアクシデントに巻き込まれることとなりました。

それは、複数の地方都市を点々と移動し、ワークショップを開催するための移動中に起きた出来事です。

北部地域にある都市から300kmほど西にあるもう一つの都市への移動中、私達プロジェクトチームメンバーが分乗していた、現地人ドライバーが運転している車2台が、ほぼ同時刻に別々の場所で事故を起こしたのです。

私達のチームは、合計3台の車両に分かれて乗車し、車は土埃の上がる未舗装の赤土の道をかなりの高速で走行するため、約1kmほどの間隔を開けて走行していました。

しかし、粘土質の赤土の道路は、雨季に出来た轍が乾燥した上に細かい赤土の粉末が堆積しているせいで、一見何も溝のない平らな道に見える道路の下に乾燥した轍が走っていました。

そのような道を時速100km以上で飛ばしていた2台のレンタカーの現地ドライバーが、偶然、それぞれ別の場所で、車両のコントロールを失い、1台は横転、もう1台は道路脇の灌木が茂るブッシュに突っ込みました。

私は事故発生当時、ブッシュに突っ込んだ車の助手席に乗車していて、長い移動時間を利用してノートパソコンで仕事をしていました。

急に車が蛇行し出したのでふとパソコンの画面から視線を上げ、前方を見ると、ドライバーがコントロールを失った車のハンドルを必死に切りながら体制を立て直そうとしていました。

しかし、スピードが出過ぎているのと、タイヤが砂の下の見えない轍に取られ、停止しきれずに細い木をなぎ倒しながらブッシュに数十m突っ込んでいく光景を、スローモーションのように見ていました。

もしかして、自分はこのまま死ぬのだろうか・・・。
これが、走馬灯というやつだったのでしょうか。

深い砂にタイヤが埋まり、ようやく車が停止しましたが、自力では脱出できず走行不能になりました。

乗車していた私ともう一人のチームメンバーには、幸いケガはありませんでした。

また、不思議なことに、周囲には人が誰もいないようなサバンナの間の道路を走行していたにも関わらず、知らない内に何処からともなく現地の住民たちが出てきて、私達が乗っていた車を道路まで押し戻すのを手伝ってくれまいた。

同時刻に別の場所でも事故が起きていた!

こちらは何とか走行可能となったので、別の車に乗っているチームメンバー達に状況を知らせようと衛星携帯電話で連絡して初めて、もう一台の車も自損事故を起こしていたことを知りました。

そこで、私達は事故現場まで移動してみると、屋根がひしゃげて、リアガラスが割れて無くなっている車が路肩に止めてありました。

社内の助手席には、我々チームに同行していた現地カウンターパートのスタッフが頭にケガをした状態で座っており、後部座席に乗っていた私達のチームメンバー2人の内、一人は車から道路に放り出され、打撲はあったものの出血を伴うようなケガはしていませんでした。

しかし、もう一人のメンバーは、指を骨折していたようでした。

海外出張初めての自分が何故かテキパキと動けた不思議

その後、私はロジ担当として、衛星携帯電話で事故の状況をクライアントである国際機関の現地事務所に連絡し、東京の会社の上長にも報告しました。

ここからの対応で、私は今では

「なぜあの時、あんなにテキパキと動けたのだろう。」

と不思議に思うほど、次から次へと必要な対応をしていきました。

  • 同行した現地スタッフに依頼して警察を呼んでもらうと同時に最短距離にある総合病院への怪我人搬送のアレンジ

  • 国際機関現地事務所のプロジェクト担当者と調整し、応援車両の派遣を要請

  • 契約を結んでいた緊急移送サービス会社に連絡し、南アフリカ共和国からの怪我人の飛行機による緊急移送の手配

  • 病院からの支払い請求に対して海外旅行傷害保険の緊急サービスに連絡し、対応を依頼

その夜は、何処のホテルに宿泊したか覚えていませんが、約10時間後、首都から派遣された国際機関の応援車両が到着し、負傷者以外のチームメンバーは、その車両で首都に帰還しました。

会社からは、現地での出国準備が整ったら、一刻も早く帰国するよう指示が出されました。

国際機関側のサポートにより、私達プロジェクトチームのために急遽フライトの手配が整いましたが、私はその搭乗時刻ギリギリまで、現地の銀行口座に現地通貨を全額預金する手続きなどの後始末で追われ、危なくフライトに間に合わないかと思うほどでした。

負傷したメンバー2名も、首都の外国人専用の病院で必要な治療を受け、同じ飛行機で帰国することが出来ました。

このように、初出張、それもアフリカという特殊な地で大きなアクシデントに見舞われるという稀有な経験をしたことで、私は15年が経過した今でも、当時の事を鮮明に記憶しています。

今日は私の若い頃の思い出話をさせて頂きました。

あなたは何か、自分の若い頃の仕事で印象に残っているものはありますか?


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