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理系女、文系をあきらめた出来事

文系を謳うnoteに興味があって、読もうと開くも文章ながながで、断念した話を皮切りに、昨夜旦那と会話を楽しみました。

最近、旦那に成田先生を紹介したら興味を持ったらしく、成田先生のYouTubeを見まくったようで、布教活動が成功を収めました。

さて、昨日、旦那になぜ私が理系になったのかの話をしたんです。

高校1年生の現国の授業がきっかけでした。

現国の教師が、作者がどう思ったのか作品を読み解く質問をし、皆で考える授業があったのですが、その問いに、答えがあったというオチだったんです。

作品を読んで個人が感じるのを楽しむのではなくて、現国では、偉い先生が研究した結果、作者はこう考えたと答えを強制される現実が、自分には受け入れがたかったのです。

だから、現国の授業が嫌いになって、文系ではなく、理系を選んだという話でした。

娘が小学生の時に、中学受験で有名な進学塾の国語の教材に興味を持ったことがあるのですが、もう、国語って、文章の読み取りに、テクニックしかなくて、細かいテクニックの羅列で頭が痛くなった経験があります。

旦那も読書家なのですが、作品は、個人の感じるままに楽しむのが良いという結論になりました。

また、小説はこうあるべきという分岐点があった話も旦那としました。

若い頃、同僚に、村上春樹の『ノルウェイの森』が面白かったから読んでみたらと、その本をいただいた経験があるのですが、

その後、『1Q84』なども読んだのですが、わかりづらい文章が高尚であるかの如く思っていた時代がありました。

高学歴の人は、わかりづらい文章を書きがちと頭の良い人の象徴として考えていたのですが、早稲田大学卒の恩田陸の作品に出合った時、その誤解に気が付いたのです。

分かりやすい文章で、その作家のワールドを楽しむことが、本来の小説の楽しみ方なのだと。

だから文系と謳っているわかりづらい文章で書いてある作品には、もう魅力を感じなくなってしまいました。

もちろん、ありがたみも感じなくなりました。

いくら頭が良くても、万人に理解できない文章をいくら書いたところで、万人には、伝わりません。

万人に理解を得たいならば、よりいっそう、わかりやすい文章で書く必要性があると思います。

いつもネタで理系女とか謳っていますが、読書も好きですし、決して、偏った思想を持っているわけではありません。

理数系科目を解くときに、国語力も必要ですし、

でも、理系女と謳って、文章力の不備から逃げている点は否めない。


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