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“嫉妬心”を因数分解する

 お恥ずかしながら、学生時代の私はとんでもなく嫉妬深い人間だった。
 特に、見た目が綺麗な人、世間で活躍している女性有名人にめちゃくちゃ嫉妬していた。女優、アイドル、アナウンサー、フォロワーが何万人もいるインスタグラマー、あとは容姿は関係ないけどイラストレーターさんの投稿を、嫌っているくせにネットで舐め回すように見ていた。羨ましくて羨ましくて、気になって仕方なかったんだと思う。

 雲の上の有名人だけじゃなくて、美人のクラスメイトにも嫉妬していた。清楚で大人しくて学年のマドンナだったYちゃんを意識しすぎて、仕草から見た目から寄せていた猟奇的な黒歴史についても、別記事で以前白状した通りである。
 自分がそんな苦悩に満ちた精神状態だったので、Yちゃんを「可愛い、可愛い」と愛でて持ち上げる、周りの女子たちの感覚が全く、ちっとも、少しも分からなかった。
「自分も“女の子”なのに、Yちゃんの付加価値をわざわざ高めちゃって、自分の存在価値を相対的に下げることにならないのか??」「もしかして、素直に『Yちゃんは可愛い』と認められる自分のことが、性格も良くて可愛い、って、コト…!?」
と思っていた(思考回路が最低オブザイヤーですいません)。この思考の根底には、
・女の子の絶対的価値は可愛さで決まる
・その価値は相対的に評価される
という、ディストピアすぎる価値観も潜在していたのだろう。そんな風に世界を捉えていたら、そりゃあ生きづらすぎて死にたくなるはずである。というか、いつどこでどうやって、こんな地獄の価値観インストールされちゃったノォ、、!?!?

 私と違い、Yちゃんを無邪気に愛でていた彼女たちは、Yちゃんの可愛さをただただありがたく鑑賞していただけなのではないか。つまり、Yちゃんを愛でる時、自分自身はあくまで観察者であり、比較対象ではないのではないか。例えば、色とりどりのマカロンや、ふわふわのぬいぐるみ、流行の洋服の可愛さや美しさを純粋に愛でて楽しむように。まさかショッピングに出かけて「このマカロンと私、どっちの方が可愛いだろう…」「マカロンは可愛くて良いな…私もマカロンになりたい😢」なんて比較をする人は、世の中そういまい。
 他方、当時の私は、頭の中にいる私ではない第三者の目線で、Yちゃんと私自身の両方を観察していた、というのが状態に一番近い説明な気がする。自分自身が観察者になり得ず、永遠に“対象”である感じ。…うーん、この感じ、アウトプットするのかなり難しいな。
 この第三者はYちゃんと私を、なんの根拠もない偏ったモノサシで勝手に比較しやがったあげく、「“みんな”アンタよりYちゃんを選ぶよ」「“みんな”アンタよりYちゃんのことが好きだよ」と脅し、「愛されたいなら、アンタもYちゃんの状態であるべき」と、“私が私であること”をひたすら否定し続けてきた。そして当時の私は、なぜかその声にひたすら従順だった。

 …可哀想や、自分…。ずっとずーっと脅迫されてたんや!!苦しかったねぇ、よしよし…なでなで。いっぱいハグ!!もう大丈夫だよ…!!私がついてるからね。
 今は、
「まず、そもそも選ばれるとか、もうそんなのどうでも良い。自分自身だけは、ありのままの自分を肯定するし、選び続ける」
「仮に本当に世界のみんながYちゃんを選ぶとしても、それは私にはどうしようもないこと。私は世間から選ばれなくても、自分自身に選ばれたからもう充分幸せ。」
と思える。(疲れてると、時々暗黒世界に戻る時もあるけど(笑))
 …精神の成長、すごくないか!?

 嫉妬に苦しむ人全員に当てはまるかは分からないけど、誰かと自分を比べちゃって苦しい…という人は、意地悪な内なる自分に観察者の立場を奪われている可能性大なので、急いで奪い返そう!!!!「アーラアタクシに稽古しろですってぇ!?失礼しちゃう、アタクシは踊り子じゃなくってよ!ホラ、そこはアタクシの席よ!どけなさい!バシッッ(席を横取りしていた内なる自分を豪快にどける音)」「オホホホ、こんなに素晴らしいもの(美しい人/可愛い人/華麗な仕事術/素晴らしい学歴etc)を無料で間近で鑑賞できて、アタクシってなんて贅沢ざますの〜✨✨」って感じで、オペラ座の特等席に座っている貴族の気分で日々を過ごそう。あなたは貴族。あなたの周りに広がる素晴らしい舞台を、ぜひ楽しんで鑑賞してほしい。

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