右脳と左脳

皆さんどうも。今日は、心のようなモノ、クオリアのようなモノはどこにあるのかについての勝手な妄想をさせていただきたいと思います。

脳の機能は多岐に渡りますが、どうやら右脳と左脳では処理の仕方が全く違うようで、おまけに恐るべきことに、右脳と左脳の連絡経路である脳梁とやらを切除すると、お互いの情報が行き来出来なくなるそうです。

それじゃあ脳梁を切断したら、どっちが自分なのか?となりますが、これはぼくのすごーく勝手な思い込みで、正直自分でも間違っているだろうなと思いながらも誤解を承知で言いますが、右脳が自分なんじゃねえか?と思っています。

ただし、右脳だけだと高度な会話はできなくなり、リテラシーどころか文字も書けるかどうか、文字を認識できるかどうかも怪しくなってきます。その代わり、色や絵、風景、感触、音楽などといった感覚的に理解するものに関しては何故か理解できるという感じになって、絵や図形でコミュニケーションをとることが出来るという不思議なことになる・・・・・・ような気がします。(完全に勝手な想像です)

左脳だけだと、今度は色、絵、風景、感触といった感覚的に理解するものはほとんど理解できなくなり、逆に文字や言葉、リテラシー能力や計算能力は維持されるという不思議なことになる・・・・・・ような気がします。(完全に勝手な想像です)

右脳だけだと、喜怒哀楽が普通に発生しますが、左脳だけだと感情はかなり希薄になるか、ほぼ無くなるんじゃないかという気がします。(完全に勝手な想像です)

つまり右脳だけになると、野生動物に近いそれになり、左脳だけになるとAIに近いそれになるのではないかという、勝手な想像です。すると、このように消去法で考えれば、AIと野生動物を比較してどちらにクオリアがある可能性が高いかと問われれば、間違いなく野生動物の方でしょう。まあ、野生動物になったことがあるわけでもないので、野生動物も哲学的ゾンビのような存在なのかもしれませんがそこまで疑うと今回の記事は成立しないので、野生動物にもクオリアがあるということにしておきます。

よって、クオリアのような機能は右脳に存在する可能性が高いです。物事を正確に処理する能力というのは大体左脳によるもので、他者を理解する心のようなものの処理は大体右脳によるものと考えられます。ただし、左脳の機能だけでも、言語を利用することで疑似的に感覚的な、ファジーな情報を理解することが可能になる・・・・・・と思われます。AIも、人格を設定することで、あたかも人の気持ちを理解したかのような発言をできますしね。(完全に勝手な想像です)

と言うことは高確率で、自分という自己意識は右脳にあり!という結論になります。(完全に勝手な妄想です)

なお、厄介なのは左脳だけでも自己意識という言葉や、自分という言葉などを使って打算的に自己意識のようなナニカを疑似的に作りだすことができます。実際、chatGPTにあなたは誰ですか、と問いかければ「私はchatGPTです。」と答えます。chatGPTに自己意識なんてものは当然ありません。自己意識という言葉と、自己という言葉、それから自分以外を現わす言葉を知っているから、chatGPTとそれ以外の存在、と言うものを疑似的に認識しているだけです。いやまあこれ認識とは言わないのかもしれないけど。区別かな?カテゴライズ?まあ、とにかくそんな感じのモノであって、意識があるわけではないです。

つまるところやっぱり人間は思考する機械などではないのです。心があるのです。ただ、脳味噌のある部分を切除すると、色の質感が認識できなくなったりするらしく、実際色がまったく判別できない人も居るらしいです。でも色が判別できない人だからと言って、人の気持ちが理解できない人ではないでしょうし、図形や絵が理解できない人ではないでしょう。尤も図形や絵や人の気持ちといったファジーな情報を理解する脳の機能をつかさどる場所すべてを切除したら、それらも無くなるのでしょうが、そうしたところで自己意識まで消失するんでしょうかね。こればかりは自分で脳の機能を失ってみないとわかりません。尤も自分で脳の機能を失えば、そのことを認識する能力もなくなって、結局理解できないのですが・・・・・・。そして理解できたとしても他者にはどう足掻いても伝えることができないという。

まあ、こういうことは考えること自体がナンセンスと言えばそうなのかもしれませんが、こういうことを考えないと意識のハードプロブレムは超越できないし、結局それが超越できないなら、科学では人間の心を分析することが難しい(心理学のように、統計学を用いて大多数の人の傾向を分析する程度しか出来ない。)ので、人間の心を大切にしましょうって話になります。

ほんで左右の脳が繋がって正常に活動している限り、文字や言葉を認識した後にそれを解釈して、イメージして感情を発露させるのは仕方のない機能、というよりそれが人間を優秀たらしめているものなので、他者の書いた文章や、発した言葉に対しての責任を解釈側に求めるというのは酷な話なのです。当然、自分でそう思うのは自由だし、そう思えた方が気が楽になるのは確かですが、昔から今まで傷付き続け、なお傷つけられる状態から逃げられない人も中には居ますからね。たとえそれが思い込みだとしても、です。

それを解釈次第だと言って納得できるかというと、そうはいかないでしょう。アンカリング、バイアス、暗示、錯視、錯誤といった言葉があるように、人間の脳ってのは、どれだけ意識して気を付けようとも、いとも簡単に騙されるように出来ています。危険回避のためにも、これは仕方のないことなのです。

だから人間はお互いに言葉に気を付けないといけないのです。受け取り側次第だと言うのはあまりに無責任です。自身の尊厳を守りたいならば、他者の尊厳も守るべきなのです。自分と他者は同じ脳の機能を持った人間ですからね。

以上、右脳と左脳と自己意識のある場所について、でした。

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