悩める方へ

悩めるあなた、まずはゆっくり休んでください。身体を落ち着けたら、目を閉じて、可能であればそのまま眠りについてください。ゆっくりと休めたら、散歩に行っても良いし、自分の好きなことをしても良いでしょう。

何も考えずに念仏を唱えたり、写経をしたり、あるいは聖書を音読しても良いし、何なら好きな芸能人、アニメキャラ、推しのホロライブキャラ、推しの歌い手、推しのボーカロイド、推しのボイスロイド、推しのボイスボックスキャラでも何でも良いので、それらを思い浮かべて妄想するのも良いですし、何も考えずに小説、漫画、アニメ、ゲーム、ホロライブのスパチャ、歌い手ボカロ、ボイロ、読み上げソフトのキャラ等の動画を観る等するのも良いでしょう。

自然に囲まれた場所で日光を浴びて深呼吸するのも効果的です。

そして少し落ち着いたら、自分の状況について考えてみましょう。一体何が自分を思い悩ませているのか。

もし生活している上で他人との関り合いが原因なら、その問題となっている人から離れるのも手です。

親兄弟であれば家を出て一人暮らしをする、未成年であれば流石にこれは難しいかもしれませんが、出来るだけ外出するようにするという手もあるかもしれません。友人の家に泊まりに行くというのも手です。他者の家というのは、自分の家とは全然価値観が違っていて、学べることが多くあったりします。

学校であれば、これはなかなか難しいですね。しかし本当に苦しいのであれば、話のわかる教師に相談するなり、親に相談するなり、それも難しいなら児童相談所に相談に行くなり、真剣に自分の切迫した状況を伝えればどこかしら頼れるところがあるかもしれません。

職場であれば、上司に相談するなり、上司が問題であれば更に上の上司に相談するなり、先輩や同僚の中にも聡明な方はどこかにいらっしゃるでしょうし、職場内の相談室や、組合等に相談するのも良いでしょう。ユニオン等外部組合に頼るのも手かもしれません。人権団体のような組織にも、相談に乗ってくださる方が居るかもしれません。いよいよ手段が無くなって追い詰められるようなら、思い切って転職するか、退職して休みましょう。確かにこうすると将来的に収入減となりますが、会社に所属して働くしか収入を得る方法が無いというわけでもないですし、心や身体を壊すよりはマシでしょう。

既にもう身も心もボロボロで、まったく眠れないし毎日倦怠感や不安が止まらないようであれば、精神科、神経科、心療内科、メンタルクリニック等を訪ね、診察して貰った方が良いでしょう。流石に神経伝達や受容体に問題があれば、気持ちの問題ではなく脳や神経の問題なので、治療が必要です。しかし心掛けるのは、どこまでいっても最終的には、精神的な問題は自己の内側にしかないので、薬や医者やカウンセラーはあくまで下支えです。下支えで少し力を取り戻したら、精神的に安らげるよう自分で行動し、自分で考え方を整えるようにしましょう。

さて、そうとは言え、そんなこと言われなくても大半の方は理解されているでしょう。成人であれば猶の事、よくわかっていらっしゃると思います。

イエスやゴータマシッダルタといった聖人と呼ばれる人たちは、人間の精神についてかなり深いところまで理解しているようです。

イエスは思い悩むことに対してこんな言葉を伝えました。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

聖書「マタイによる福音書6章25~34節

「神」というのがどういうものであるかは、聖書が示すならYHVHであったり、父(YHVH)、子(イエス・キリスト)、聖霊であったりしますが、無神論者であれば、「神」を好きなように解釈して構いません。スピノザの汎神論が指し示す「神」でも構いませんし、ニーチェ哲学のように、「力への意志」を以て、自分を神とするのも良いでしょう。過去記事「ペルソナシリースで学ぶ無我の境地」で書いたように、自分の中に神や物語の英雄といった存在のペルソナを作り出し、それを神としても良いのです。

神の国とは楽園のことをさしますので、死後のことはともかくとして、肉体を持ち生きている間は、世界を認知するのは自分自身であるので、自分で認知を変えて、世界を都合の良いように見れば良いのです。そうすれば自分を変えることが出来ます。あとは、現実との整合性が付くように折り合いをつけていけばそれで完璧です。他者の語る歪んだ世界に惑わされないようにしましょう。尤も、他者の中には優れた世界の見方が出来る者も居ますので、良いなと思ったら参考にしても良いです。

とにかくイエスもまた、思い悩んだところで何も変えられないので、悩んでいる時は考えずに、神に委ねよ語っています。

東洋思想の原点であるゴータマシッダルタや、その弟子たちは、悩みというものは煩悩から来ており、煩悩は思い込みのようなものだから捨てなさいと語りました。ただし、捨てなければならないと思い込むのもやめなさい、と語りました。少し難しいですが、結局言いたいことはイエスの「神に委ねよ」と同じことなのです。悩む時は、思考停止すれば良いんです。思考停止したあと、何か思い浮かぶことがありますが、これをわざわざ打ち消そうとしなくても良いです。思い浮かんだこともそのままにして、穏やかに佇んでください。

そのうち思い浮かんだ中に、自分の問題を解決するような閃きが突然浮かんでくることもあります。これが悟りとなります。

そもそも思考とは、脳の機械的な働きに過ぎません。即ち思い悩むということは、脳の機械的な働きによって生じた、形の無いノイズを勝手に具象化して、それに怯えているに過ぎないのです。これを煩悩と言いますが、もっとわかりやすく言うなら、悪魔、悪霊、怪物と言って良いでしょう。ペルソナシリーズやユング心理学を知っているなら、シャドウと言えばわかりやすいと思います。

脳の機械的な働きによって生じたノイズが、姿の無いモンスターとなってあなたに襲い掛かってきている。それが思い悩みの正体です。このモンスターは倒そうとしても倒せません。それどころか、モンスターを攻撃しようとすると、自分が傷ついてしまうのです。方法は一つ、モンスターを生み出しているスイッチを切ることです。このモンスターを生み出しているのは思考なので、思考を停止すればこのモンスターの動きは止まります。そして、次に思い浮かんでくる思考をそのままにしておいて、でも気持ちは穏やかにしていれば、やがてモンスターが発生する真の原因に気付くかもしれません。

般若心経では、このモンスターを無無明尽という言葉で表しました。「明」とは明るい、即ち「理解する」「見える」という意味になります。「無明」とは、暗い、即ち「理解できない」「見えない」という意味になります。無無明とは、無明など無い、即ち、「理解できない、見えないものは無い」という意味になりますが、これは、「理解できる、見える」という意味ではありません。

「理解する」ものも「見える」ものも、「理解できない」ものも、「見えない」ものも、何も無いということです。

目に映るものは、光の波長が屈折したものを網膜が映し出しているだけの幻に過ぎず、それを見て理解したというのは、何もない空間を指さして「これ俺の彼女、可愛いだろw」と言っているのと同じで、妄想に過ぎないのです。

目に見えないものもすべて、人間の感覚で感じているだけで、それは実体があるわけでは無いし、何らかの物理作用はありますが、それだけです。

つまり、思い悩み「煩悩」は周囲の何かが生み出しているわけではなく、自分の思考が発生させているということです。

と、ここまで頭で理解したとしても、大体の人は結局悟ってはいません。だから口を開けば愚痴や、他者の批判ばかりして、自分の中の意見を主張して他者が理解しないことに辟易したりしています。暴力に屈するのも悟っていない証拠です。とはいえさすがに筆者も暴力には屈する程度の悟りですが。

煩悩を無くせたかどうかは、他者と接すればわかります。他者と接して他者の意見や主張に反応して反論するようであれば、煩悩が残っている証拠です。自分の意見を主張して、反論を受け入れないのであれば、それも煩悩が残っている証拠です。

「自分の考え」も「他者の考え」も「言葉」や「文字」だけでは動かせません。「行動すること」「体験すること」が必要です。

自分の考えは自分だけのもので、しかも実体は無い「空」です。他者の考えも然りです。皆、「空」について語り、「空」について、理解しているだのいないだの言っているのです。

つまり空気を指さして「これ俺の彼女、可愛いだろw」と言っている人に対して「どこに彼女なんかいるんだよ、妄想乙w」とか言って、さも自分は妄想の世界に住んでいないかのように思い込んでいます。空気で出来た彼女が居ないならば、金も銀も銅も鉄も犬も猫も兎も鳥も居ません水素もヘリウムもリチウムもベリリウムもホウ素も炭素も窒素も酸素もフッ素もネオンもありません

それらはすべて、人間が認知によって分別した名称に過ぎず、実体なんてありません。目に見えるものも、目に見えないものも、すべて人間の認知によって、便宜上区別しているものに過ぎないのです。物質はすべて、量子という目に見えない粒だか波だかの集合体ですが、それすらも実体とは言えません。人間が五感という曖昧なもので認識した幻のようなものです。電子顕微鏡だの電子放射銃だの観測器だのといったものも、所詮は人間の五感や手足の範囲を拡大しただけに過ぎません。

感情もすべて神経伝達物質が生んだ気分に過ぎず、存在しません。よって自由意思も存在しません。自由意思が存在しないので、責任も存在しません。

逆に、存在しないから自分で自由に妄想して作りだしても良いのです。そう、世界はあなたのものなのです。すべてはあなたのものなのです。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。

人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

ルカによる福音書6章20~26節

持たざる者は持たざるが故に物質に依存できないため、真実について思考し、そして苦痛を体験する機会が多いがために悟りやすいのです。一方、物質によって満たされている者は、物質に依存しているために真実について考えようとせず、より物質に満たされるように思考します。そのことをイエスは言っているのです。

尤も、物質によって満たされても何一つ満足できなくなれば流石に悟りますが。どんな刺激も慣れれば飽きますからね。物質によって満たされてもそれに満足できず、そこまで行っても悟れなければ人はいよいよ薬物等に手を出し、精神が壊れるまで辞められなくなります。

ボロボロになったところで悟ってももはや手遅れ、神経伝達や脳が壊れれば、妄想モンスターは勝手に湧き出して、思考停止して閃きを得ても、圧倒的な物量のモンスターに圧されて敗北してしまいます。これをイエスは「悪霊にとりつかれた」とか「サタンに支配された」という風に表現しました。

世界はあなたのものです。あなたの思考が世界を作り出していますので、好きなように世界を作りかえてください。ただし、他者には他者の世界があります。自分の世界を他者に適用しようとするのだけは辞めましょう。

無明、無無明、無無明尽、世界が何であるかは理解できないし、そもそも理解する必要はまったくありません。あなたの人生を、あなたの思うがままに生きましょう。やがてくる老いと病と死すら、幻なのです。生きるということ自体が妄想の世界なのです。だから、好きなように生きましょう。


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