依存体質の僕たちは

18歳で初めてディズニーのエレクトリカルパレードを見た時、涙が出るほど感動した。これほど美しいものが世の中にあるのかと心が打ち震えた。

その次にディズニーへ行った時には、ハロウィンのパレードが催されていた。これにもやはり感動した。

しかし数回目に見たパレードで、ある異変に気がついた。

パレードを見ても感動していない。

楽しくないわけではない。
しかしあの時の涙が出るほどの感動はなくなっていた。

最後にパレードを見てからもう10年以上が経ったが、1番強く心に残っているのは、1番遠い記憶であるはずの最初の体験だ。

結局のところ、最初に味わった感動に2度目はないのだ。
それどころか回数を重ねるごとに、原液に水を注いでいくかのように感動の厚みは少しずつ薄れていく。
それでも私たちは最初に得た強烈な感動、あるいはこの上ない心地よさをいつまでも忘れられずに、それを求めて同じ行動を反復してしまうようだ。

たとえばゲームの課金やギャンブル。それに酒や煙草、覚醒剤などの精神作用物質がそうだ。
最初の高揚感、多幸感、興奮や快楽に病みつきとなるが、繰り返すごとに最初の感動から遠ざかっていく。
次に量や回数、あるいは人数を増やす。セックスなど他の快楽と併用する。
そうして薄まっていく原液がすっかり水になる頃には、肉体と精神は深刻な状態に陥っていることだろう。

子供の頃に言われる「かわいい」もそうかも知れない。
子供に向けられる「かわいい」は無条件で、しかもコストもリスクもなく得られていたはずだが、大人になった今ではそうもいかない。時間と金をたっぷりかけなければ得られない高級品となってしまった。
化粧や整形を施し、肌をギリギリまで露出し、あらゆる加工と労力を尽くしたうえでようやく得ることができる。それでもその「かわいい」は、子供の頃とは異質なものだ。「薄められた原液」に過ぎない。
無条件下でたった1人、あるいはほんの数人から貰えさえすれば満ち足りていた心地よい体験は、2度と得られない。
「承認欲求」とはつまりそういうことなのだろう。

手に入れた瞬間から2度と手に入らない。この矛盾を一生をかけて追い求めるのもいいだろう。きっと皆そうなのだから。
逆にそろそろ依存体質から脱却して、手放す努力をしてみるのもいい。そうすれば新しい景色が広がるのかもしれない。

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