プラス1000円の魔法
私たちが本当に欲しいものは後からやってくる。
これは普遍の法則である。
「今すぐ貰える1万円と、1年後に貰える1万1000円」
あなたならどちらを選ぶだろうか。
多くの人は「今すぐ貰える1万円」を選択するのだそうだ。
これは行動経済学の話で、要するに人は「今を楽しむこと」を優先しやすいというのだ。
もちろん「今を楽しむこと」が悪いということではない。
しかし1年後に貰えるプラス1000円の中には、時として1000円という金額では説明がつかない魔法のような価値が生まれることがある。
たとえばあなたがダイエットを決意したとき、食事制限や運動など、中長期にわたる忍耐と努力が必要不可欠となる。
もちろんその途中で挫折を味わうことにもなるだろう。
自分の計画に準拠し、一本道を歩くというのはたいへん難しいことだ。
なぜなら「今すぐ貰える1万円」の誘惑は、いたるところに張り巡らされているからだ。
あなたが何度断ったところで、敵はあの手この手であなたに1万円を握らせようとしてくる。
そしてひとたびそれを受け取ってしまえば、その金を使い切るまでは元の道に戻れなくなってしまう。
それでも諦めずに継続して、ようやくあなたがダイエットの効果を実感できるのは数ヶ月先、あるいは1年先の話だ。
意識しようがしまいが、あなたが「1万1000円」に手を伸ばしたとき、それを掴むまでには忍耐と努力と相応の時間が必要となる。
これは「今すぐ貰える1万円」にはないリスクだ。
反対に「1年後に貰える1万1000円」にしかないものがある。
それは目的を達成したことによる幸福感や喜び、成長といった、結果とは別に得られる特別報酬のようなものであり、これこそがプラス1000円の魔法なのだ。
これはわざわざ説明するまでもなく、大なり小なり誰もが体験してきているはずだ。
自転車に乗れるようになったとき。
受験に合格したとき。
別に縄跳びでも鉄棒でも、なんだっていい。
それまで費やしてきた努力と忍耐、時間を補って余りあるほどのプラス1000円をあなたは受け取ってきたはずだ。
そのような体験は私にもいくつかあるので、そのうちのひとつを具体例にさせていただく。
当時働いていたバイト先で、新しく入ってきた若い女性と付き合うことになったのだが、すぐに別れることになった。
彼女の不誠実さに嫌気がさし、私から別れを切り出したのだが、彼女はそれが気に食わなかったらしい。
その後社員を含めた3人の男と立て続けに関係を持つことになる彼女は、私を逆恨みするようになった。
私に関する悪い噂を周囲に流し、私の陰口をたたき始めたのだ。
彼女はどうやら私から居場所を奪おうと画策しているようだった。
ある日のこと。
私が出勤すると、奥の控え室から「きたきた」と笑いを押し殺すような声が聞こえてきた。
控室に入り、彼女と何人かのバイトに向けて挨拶をすると、その挨拶は無視された。
気のせいか軽蔑の視線が私に向けられており、その中心にいた彼女はにやにやしながら私を見ていた。
そのまま私が更衣室に入ると、抑えていたような笑い声がどっと聞こえてきた。
この状況にはしばらく悩まされたが、まもなく私の中で決意が固まった。
彼女の不誠実を明るみにして、その嘘と陰湿な企みを論破すれば、立場を逆転させることは簡単だったはずだ。
ただしそれをしたところで、私が幸せになれるかどうかは甚だ疑問であった。
彼女を泣かせて、居場所を奪い、悔しがりながら辞めていく様子を見ることができれば、間違いなく憂さは晴れるだろう。
「自業自得だ馬鹿女!」と彼女の背に向けて罵ってやれば、さぞかし気持ちが良かったはずだ。
ただその時の私は、そんなネガティブな行為の中に私の幸せはないと確信した。
酷い仕打ちを受けてはいるが、だからといって彼女を傷つけるつもりはなかった。
彼女が欲しいものと私の欲しいものは違うのだと感じていた。
思えばこの時に私は「1万1000円」を無意識に選んでいたのだろう。
とにかく自分よりずっと年下の彼女が、自分の居場所を求めて必死になっているのなら、やりたいようにやらせようと結論に至ったのだ。
私の決意から1ヶ月以上が過ぎた頃、同じバイトの男性と2人で店の締め作業に入っていたときのことだ。
彼は50代で、本業の傍らでバイトにきている真面目そうな人だった。きっと彼も、彼女の企みに毒されているのだろうと私は思っていた。
彼は洗い物をしている私の隣にくると、突然こう言った。
「私、りょうさんのこと凄いなぁと思います」
しみじみとした彼の声に反して、思いもよらない言葉に困惑していた私は、「何がです?」と聞き返すと、彼はこう続けた。
「だってりょうさんはあいつにあれだけ好き勝手言われてるのに、りょうさんはあいつのことなんにも言わないじゃないですか。言い返さないじゃないですか。それってなかなかできないことですよ。だからほんとに凄いと思って」
彼がそう言い終わる前から、私の全身には飛び跳ねずにはいられない電撃のような喜びが駆け巡っていた(実際に飛び跳ねはしなかったが)。
まさにこの時が、思いも寄らずに「1万1000円」を手に入れた瞬間だった。
目の前にいるふたまわり以上年上の、酸いも甘いも噛み分けたであろうこの人が、若輩者を認めて評価してくれたのだ。
プラス1000円の魔法は、私がこれまで苦しんできた状況を帳消しにしたばかりでなく、「今すぐ貰える1万円」などでは比較にならないほどの喜びを私にもたらした。
一方の彼女はどうなっただろうか。
「今すぐ貰える1万円」の方を選んだ彼女は、それを使い切る頃には男たちに見放され、周囲には誰もいなくなり、バイトに来る回数も減るようになっていた。
結局私は彼女より先に辞めることになったのだが、辞めていく間際に彼女は私のところへやってきて、しおらしく言った。
「他の人たちは結局わたしの体が目当てなだけだった。本当に私と向き合ってくれようとしたのはあなただけだった」
この時の彼女の真意を私は知らない。
心からの言葉だったのかもしれないし、おためごかしかもしれない。
「父親からひどい暴力を受けている」
彼女の嘘をあの時の私は信じてしまい、夜中に彼女の家へタクシーを走らせた。
電話口で怒鳴ってくる父親は確かにひどく暴力的であったため、父親から彼女を守るつもりで、私は自分でも珍しくいきりたっていた。
真相はなんてことはなく、娘を家に帰そうとしない、どこの馬の骨ともわからない男に怒りを向ける真っ当な父親がそこにいただけであった。
その後冷静に話し合った結果、彼女が言うような暴力の事実はどこにもなかったことがわかったのだ。
最後には娘のために飛んできてくれたことに感謝をしてくれて、付き合うことを正式に認めてくれるようになった。
私は彼女の嘘を責めることはしなかったし、それ以上そのことについて話すことは、少なくとも自分からはしなかった。
しかし彼女は自分の思い通りの結果にならなかったことが不満だったようだ。
それからバイト先で公然と、他の男とただならぬ関係を匂わせるようになった彼女に別れを切り出し、先に述べたような嫌がらせを受けることになったのだ。
職場から去ろうとする私の目の前にいる彼女はしおらしく、恐らくは私との関係を取り戻す気を向けてきていた。
彼女の都合の良い期待に応えることはできなかったが、彼女の最後の言葉も私にとっては「プラス1000円の魔法」に他ならない。
もしも違う選択をしていたなら、彼女を痛い目に合わせようと仕返しに執心していたとしたら、きっと彼は私のことを白い目で見ていただろうし、彼女の最後の言葉もなかったはずだ。
あの時の1万円はとうの昔に使い切ってしまったが、1000円だけは消費されずにいつまでも心に残っている。
どうやらこれが富というものらしい。
もちろんこれまで「今すぐ手に入る1万円」を何度も選んできた。
人をいじめるのは楽しいし、人をからかったり、悪口や陰口をたたけばスカッとする。
快楽に溺れることはとても簡単で、楽で、すぐに手に入る。
でも何も残りはしない。
だから次から次に同じことを繰り返さなくてはならない。いつまで経っても満足度はできない。
そのうちに心身に不調をきたすことになるだろう。
それで幸せになれるならいいのだが、果たしてどうだろうか。
今すぐ貰える1万円と、1年後に貰える1万1000円。
自分はどちらを選ぶべきか。常に意識しておくと少し違った人生になるかもしれない。
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