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ルールについて考える〜固定化・絶対化、独裁化を越えた〝動き〟として捉える視点についての一考察〜

ルールってなんだろう…。学校現場と放課後の現場の双方を経験している立場から、その難しさに直面することがあります。今回のブログでは、ルールが固定化・絶対化されている状況と、表面的にはルールがない状況との比較をした上で、私自身が持っているルール観を、こどもたちとの遊びの事例や、レッジョ・エミリアの「権利 diritti」という価値観を通してまとめていきたいと思います。今回もかなりの長文なので、もし読み進めるのが大変でしたら前半2パートは読み飛ばしていただいても差し支えありません。

固定的・絶対的なルールがあることの息苦しさ

固定的・絶対的なルールによって支配されることの苦しさは、おそらくイメージしやすいのではないでしょうか。例えば少し前に「ブラック校則」が話題となり、こどもたちの生から切り離された理不尽な決まり事を打ち立てて管理・支配することの問題点が浮き彫りになりました。また、多忙化のうねりの中で「スタンダード」という発想が生まれ、探求のプロセスにおける不確かさやそれぞれの場で生まれる豊かな文脈の”違い”は排除され、一律であること・画一的であることが求められるような風潮が生まれてしまっているように感じます。その中で「黙食」「無言清掃」という取り組みがコロナ禍の文脈以前から生まれ始めました。私が教員をしていた学校でも「給食を時間内に食べることができるように」という思いからなのか「サイレントタイム」というものがありましたが、他の学校で「今月の目標『無言清掃』をしよう」という掲示を見て愕然としたことを覚えています。「無言清掃」をすることが「目標」になってしまっていることへの違和感を抱いたとともに、それがこどもたちや先生方の心を締め付けてしまってはいないか、苦しい気持ちになってしまいました。

ルールがなければ幸せなのか?

では、固定的・絶対的なルールがなければ幸せになるのでしょうか?私は以前、「『ガッコウ』のようにはしたくない」という思いを抱く上長がいる放課後の場で活動したことがあります。確かに、おやつや掃除の時間などは「時間割」のような形では決められていませんでしたし、その日の活動などは表面的に見れば「プログラム」化されていませんでした。しかし、果たしてそれが幸せに繋がっていたかというと、とてもそうは思えない状況だったように私には感じられました。

例えば、目安となる時間がない代わりに、おやつや遊びなどの開始時間は、実質的な決定権を持つ上長をはじめとした声が大きなオトナ(※以下「オトナ」)のその日の気分次第で決められていました。オトナの側の言い分としては「その日の状況を見て判断していた」「『ガッコウ』みたいにチャイムで動かすのはどうかと思う」というものでしたが、その実態は「はい、片づけておやつにするよ!食べないなら他の部屋に行って!」「今から○○するよ!近くにいない人は知らない!」「公園に行くよ!…(何分間、選択して良い時間が与えられているのかも提示しないまま)はい、締め切り!もう後から行きたいって言っても無理だからね!」などのオトナの一方的な指示や声掛けによってこどもたちが振り回され続けているというもの。本来であればのびのびと過ごすことがはずの放課後の時間。当然ながら、こどもたちはそんなに急にはそれまで行なっていた活動を中断することができません。宿題をしていたり、遊んでいたり、ちょっと休みたかったり…。けれど、オトナの指示通りの行動をすぐに行なわない場合には、こどもたちは「遅い!」「早くしなさい!」「おやつ食べないの!?」などと叱責され、場合によっては「この子は、やりたいことしかやらないワガママな子」という負のレッテルを貼られたり、「遅かったから、○○させない!」と罰を与えられてしまったりすることも少なからずありました。果たしてオトナたちは、自分たちが仕事終わりや休日に好きなことをして過ごしている時、こどもから「今から公園に連れてって!」「お腹空いた!ご飯まだ!?」などと言われ、「ほら、早く!」「遅い!いつになったら始めるの!?」「はい、あと10秒で来てね!」と急かされたら、快く・素早くその通りの行動ができるのでしょうか。また、もし快く・素早くできなかったら「こどもの声を聴けないなんて、最低!」「罰として、お酒抜き!」「スマホ没収!」「昼寝やテレビの時間を1時間カット!」という負のレッテルや罰を与えられたら、それに対して傷ついたり理不尽だと腹を立てたりすることなく淡々と受け入れることができるのでしょうか…。このように、目安となる時間がないことは、自由とはかけ離れたオトナの独裁的な雰囲気を生み出してしまう危険と隣り合わせであるということを、身をもって知ることができました。オトナたちは、「ここは、いつ、何をやるかが急に決まる場所から、ちゃんと指示を聞いててね」としばしばこどもたちに向けて話されていましたが、これは暗黙のうちにこどもたちをオトナの支配下へと位置づけ、選択・決定・行動・失敗・工夫…の機会を奪うことを正当化することへと繋がります。そこに負のレッテルや理不尽な叱責が加わることで、こどもたちは「学習性無力感」とも言えるような状態に陥ってしまいます。果たしてこれが「自由」であると言えるのでしょうか。

活動の内容が表面的には決まっていないということも、ともすれば決定権を持つオトナやその近くにいる一部のこどもたちによる支配を強めることに繋がるように思います。オトナとしては「『ガッコウ』と違って要求を叶えてあげたい」という善意から、近くにいるこどもの「声」をそのまま採用しているのかも知れません。しかし、全体への共有・相談・対話がなく突発的に活動が決定・実施されることにより、その他のこどもたちや職員、保護者の方々は困惑し振り回され、場合によっては「活動に必要なものを持っていないために参加することができない」「休んでいたため聞いていない。もともと別の予定が入っていたため、急には調整が効かない」という状況を生み出してしまいます。
また、こうしたことが常態化することにより、決定権を持つオトナの近くにいて上手にコミュニケーションがとれるこどもたちとそうでないこどもたちとの間には明確な格差やギスギスした対立関係が見受けられました。本来であればこどもたちの自治の場であり、様々な”違い”を生かし合いながら協働して生活する場であるはずなのに、こどもたち同士の間で「差別だ!」「なんでオレたちはダメなんだ!」「ズルい!」などの声が飛び交ってしまう状況は、なんとも心苦しい…。さらに、このような格差は決定権を持つオトナとそうでない職員の間にも生じていたように思います。例えば、事前の打ち合わせで決められていたはずの活動内容や約束は、オトナと一部のこどもたちによる秘密裏の話し合いによって平気で破られることが少なからずありました。それを知らずに事前の打ち合わせで決まった内容を遵守した職員は、突然変更する活動内容や約束に対して困惑し振り回されるだけでなく、こどもたちから「ウザイ!」「なんでお前が決めるの?」「すぐダメって言う!」「ほら!○○(決定権を持つオトナ)はこういったじゃん!」「嘘つき!」などのような鋭い言葉を向けられ、一層精神的に消耗するような状況へと追いやられていきました。こうして、「声の大きな人が勝つ」「先に言ってしまったもの勝ち」という文化が暗黙のうちに形成されていくのです。

「学校は縛りが多くて苦しい」「学校外の場は自由で良い」という声をしばしば耳にします。しかし、おおよその活動の目安やルールがないことは必ずしも「自由」とは結びつかず、ここまでまとめたような閉鎖的・独裁的な雰囲気が漂う場を生み出してしまう危険性を孕んでいるということを、ここで強調しておきたいと思います。

「笛吹けど踊らず」という言葉があるけれど、果たして悪いのは踊らなかった踊り手なのだろうか。踊ることができるような笛を吹くことができなかった吹き手の側には、何一つ問題はなかったのだろうか。そもそも吹き手ー踊り手という構造を越えて、即興的なアンサンブルを楽しむという発想を持つことはできないのだろうか。

こどもたちの遊びに見るルール観〜遊びを動かすものは何か?〜

ここまで、固定的・絶対的なルールによる苦しさ、表面的ではないけれど暗黙裡に独裁的なルールが存在する苦しさの双方を見てきました。どちらにも共通するのは、ルールの形成に当事者(その場にいる人々)が参画していないという点、そして決められたルールは明文化されている・いないに関わらず固定的・絶対的なものと見做され、ルールそのものを見直して改善していくことが許されていないという点です。では、このような状況に陥らないために、どのようなルール観を持てば良いのでしょうか。 

このことを考える上で私が大切にしているのは、「ルールはそれぞれの人々の間に存在し、生成変化する”動き”の中で対話しながら変容していくものである」という考え方です。この発想は、こどもたちが即興的に生み出す「ごっこ遊び」の〝動き〟とも重なります。

こちらの投稿ではコロナ禍におけるこどもたちの遊びの”動き”についてまとめました。その中にまとめたごっこ遊びの場面では、他の職員さんとの間で展開していた遊びの文脈に「謎の方言」が加わることで新たな遊びの文脈が生まれ、そこに別の遊びをしていた子のアイディアや「病いとケア」のストーリーなどが混ざり合う…という”動き”を見て取ることができるかと思います。この「ごっこ遊び」を成立させたのは、明文化された「マニュアル」的なルールでも、一部の人の独裁的な支配でもありません。そうではなく、多様な要素を混ぜ合わせながらそれぞれの参与者が提案し合い、「Yes, and…」のようにそれぞれを生かし合いながら、協働で都度新たな文脈を構築・再構築していくような”動き”そのものによって遊びが成り立っていたように思います。
より分かりやすい別の事例をあげましょう。例えば遊びの中に存在する木の枝は、「剣」にもなれば「魔法の杖」にもなり、「地面に絵を描くための棒」「食器」「食べ物」「動物」など、遊びの文脈の中で様々なものへと変容していきます。同様に、公園にある遊具が「レスキュー基地」「消防車」、「宇宙基地」「自分たちの家」へと次々と変化していくような光景は、学童保育現場で働く中でしばしば見られます。鋭い方は、もうお気づきかも知れません。つまり、(明文化されている・いないに関わらず)絶対的・固定的なものとしてのルール観から、「ごっこ遊び」におけるテーマや遊びの中で用いられる「木の枝」「遊具」などのように、参与者の真ん中(誰かが主導権を握るのではない形で)に位置し、参与者同士の対話の中で都度変容し深化していく”動き”としてのルール観への転換が求められるのではないか、というのが私の主張です。

遊びを動かすのは、「ルール」でも「独裁者」でもなく、〝動き〟そのもの。

このようなルール観のもとでは、例えば「おやつの時間は、何がなんでも16時。逆らったらペナルティがある」「時間は固定されておらず都度変動する。常にオトナの指示通りに動かなければならない」という価値観は自然と薄れていくように思います。そして、「おやつは何時から食べ始めようか?」という相談や、「今日は16時からおやつだったけれど、どうだったかな?」という振り返りの対話「そもそも一斉に食べる必要ってある?」という新たな価値観を生み出すための議論などが生まれていく可能性があります。
このような機会を創ることは、「オトナの庇護のもとでしか生きていけない未熟な存在」という従来のこども観を打ち崩し、同じ「いま、ここ」を生きる市民として、協働しながらより良い社会を創っていく仲間としてこどもたちの存在を捉え直すことにも繋がるのではないでしょうか。

ルールが「ある」ことやそれを「守る」ことの大切さは繰り返し教えるのに、協働でルールを創る方法や、対話になってより良い形へと創り変えることができることはどうして教えないのでしょうか。

レッジョ・エミリアで学んだ「権利 diritti」という概念

3年前に参加させていただいたレッジョ・エミリア現地研修。その中で、どの幼児学校の入り口にも「diritti」と書かれた看板が掲げられていることに気付きました。直訳すると「権利」となるこの言葉。私は「権利」と聞くと、「○○権」などの形で条文化されているもの、あるいは「権利が欲しけりゃ義務果たせ」のようなイメージを持っていました。このような権利観を持った上で現地の先生に「レッジョ・エミリアにおける『権利』とは、どのようなものですか?」という質問をさせていただいたことを記憶しています。この問いについて初めに答えてくださったのは、レッジョの教育事情にも詳しい日本人の通訳さん。「そもそもレッジョでは、そのような権利観を持っていない」ということを教えてくださいました。それに呼応する形で答えてくださった現地の幼児学校の先生は、「diritti」のプロジェクトを行なった事例を紹介してくださいました。「自分たちが持っている権利って何だろう?」と問いかけると、こどもたちは
pensieri…思考する権利
liberta…自由になる権利
desideri…意思を持つ権利
amichi…友だちと仲良くする権利
sentimenti…感情を持つ権利
giocare…遊ぶ権利

など、自分たちが持つ多様な権利を表明したのだそう。ほかの幼児学校では、「外に出る権利」「外で遊ぶ権利」「楽しくなる権利」「つまらなくなる権利」などがあがったということも併せて紹介してくださいました。権利は当然ながらこどもたちのみならず、先生、親、地域の方々…全ての人が持っているもの。この差異は互いに排斥し合うものではなく、「権利」という概念を真ん中に据えて対話することでそれぞれの権利観が混ざり合い、1人ひとりが認められるような新たな価値観やより良い社会が創造されていく原動力となるー。そのようなことを、レッジョ・エミリアでは幼児学校、すなわち6歳に満たないこどもたちが学び、対話しながら未知の価値観やより良い社会を創造する術を感覚的に身に付けているのです。

「レッジョ・エミリアのこどもたちだけがすごい」のではない。日本のこどもたちも、本来であれば生まれながらにして研究者・探求者であり、市民として生きる力を持っているはずだ。それなのに、生まれた場所が違うだけで、かたや市民と見做され、かたや未熟な存在として見做されてしまう理不尽さ。こんなことが許されて良いのだろうか。

このような権利観をもとにルールについて考えてみると、次のようになります。
・「ルール」とは「権利 diritti」と同様、それぞれの人々の真ん中に存在する概念である。
・その概念をきっかけに、対話を通して個々人の価値観が引き出され、生成変化する”動き”が生まれる。
・このような対話的・協働的・共創造的な〝動き〟の中で、ルールは常に生成変化していく。

まとめ

以上、かなり長文になってしまいましたが、私のルール観についてまとめてみました。このようなルール観が広がっていくことにより、オトナの庇護・支配下に位置付けられる未熟な存在としてのこども観を打破できるとともに、真に民主的な社会へと近づいていくのではないでしょうか。このような点において、教育は哲学や政治(特定の政党を支持するという意味ではなく、市民として自分たちで社会を築いていくという意味)と切っても切り離せないように思います。
根深い価値観を一朝一夕に変化させることは確かに難しい。でも、だからといって「難しいよね」の一言で片付けてしまうのは違うと思っています。こうして発信することによって、こどもたちを取り巻く社会が少しでも良くなるような波紋を生み出せたら嬉しいですし、私自身も引き続き実践・研究・発信を重ねていきたいです。

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