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「い」…いかだ、居酒屋、いけちゃん、石、椅子、意味、いるか
いかんせんこんなもんだから、私という人間はまったくもって信用ならない。自分自身にそう感じているのだから他人から見た私はピエロだ。笑いモノ、というわけではなく正体不明、生きているのか化け物なのか、泣いているのか笑っているのかもわからぬだろうと思う。答えを言うと、笑っている。

先週社長のお嫁さん、可愛言い方をしました、パートナーが切り盛りする脱毛サロンのモデルをした。ホットペッパーの広告に出るらしい。パンツ一枚にバスタオルで撮影に挑んだ。正直そこまで薄着すると思ってなくて、社長の伴侶の前でそんな姿、しかも見ず知らずのホットペッパーの会社のカメラマンの中年男性の前で霰もない姿になると思ってなかったので、んぎゃ、となった。んぎゃ、これはなんなんだ、と。

でもイメージ写真みたいなものも予めもらっていて露出するもんだとは知っていた。なので腹を決めた。友達が言っていた。出来る、と出来た、は違うよね、という言葉。
私はなんでも大丈夫、と思っていたがいざ見ず知らずの男性の前でパンイチバスタオル、しかも寒いからちょっと嫌な話、乳首、がピコン、となった状態で写真を撮られるのには多少驚きがあり、乳首、いいえ、ちくピ(乳首ピコン状態)を見られたくないと羞恥心は生まれた。

だが女性の裸なんて小学校の保健の授業で教科書にもなっている。仕事。これも仕事なのだ、と思った瞬間なにもかも大丈夫になり結果としてやはり別になにもかも大丈夫だった。出来る、が出来たになった。変な成功体験だ。酒も飲んでないし、その後静かに仕事をした。私は非常に静かだった。

私が私でいることが少しずつなにもかも大丈夫になっていくのは少し理由がある。理由というのはすこしの周りの人たちへの思いで、少しの周りの人たちのことへの大きな思いで、それは少しのことじゃない。今日だってそれがたくさん重なっている。

いけちゃん。
私が何もかも大丈夫でいるのは、少しの人たちに対する大きな気持ち。
会っていた人も会っていなかった人も、毎日少しだけ思いだしている。
とおいとおいあの寂しい海へずっと何にも持たず消えていったあなたは誰でもない人。
このフレーズを聴くたびに出会ったことのない、出会うこともないかもしれない人のことを思いだして大丈夫にもなっている。


正直助かります、とても