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北根室ランチウェイ(KIRAWAY)の歩み(ダイジェスト版)

(話す)佐伯雅視
(訊く)小田康夫

  1. 〜第1章~なぜ、いま、道(トレイル)なのか

  2. ~第2章~道は『世界』につながる~

  3. ~第3章~道は『人」をつなぐ~

  4. 〜第4章~道は『芸術』につながる~

  5. 〜第5章~事業成熟段階の問題点、解決の手法~ 

  6. 〜第6章〜中標津の歴史と佐伯さんの生き方~

  7. 〜最終章~道は未来に繋がっている~

  8. あとがきにかえて(逆質問)

  9. 編集者兼著者小田康夫のあとがき(地元の高校生に向けたメッセージ)

  10. 佐伯雅視のあとがき(地元の高校生に向けたメッセージ)

KIRAWAY(た根室ンチウェイ)事業を10年以上、継続していた佐伯さん。
苦労や失敗も多かったと聞きました。
時には、そんな経験が若者にも勇気を与えると感じます。

「失敗してもいい」
「挑戦が大事」
「面白いことを自分もやってみよう」
 
地方の街と地方の街をつなぐロングトレイルという事業そのものは、世界的には有名な取り組みであっても、地方の街で、それも数人の仲間だけでやってみよう、と思い立ち、70㎞以上の道を構築し、維持管理を長年継続したのは、佐伯さんくらいではないかと思います。ありそうでなかったクリエイティブな発想で、少人数でも、できる取り組みを継続的に実践してきた人がこの街にいる。ロングインタビューをしたら、なかしべつ町の魅力や可能性がなにか見えてくるのではないでしょうか。

〜第1章~なぜ、いま、道(トレイル)なのか

(「中標津町と弟子屈町を結ぶロングトレイルを創設しよう」という大きな夢を語り、それを実現させた佐伯さん。その距離、なんと、71.4km。ロングトレイル創設という夢になぜ挑戦したのか。)

(小田―以下略)なぜ、いま、トレイルなのですか。
(佐伯)「効率性に追われる時代だからこそ、自分を見つめ直しながらゆっくり歩く旅のスタイルが大切になっています。」

(佐伯)「欧米では『歩く旅』が一番リスペクトされています。長く歩いて旅をする行為が人間にとって足の裏から脊髄を通って大脳を刺激する事がいかに心理的に良い作用するかが分かっているからだと思います。」

最終的には何を目指しますか。
(佐伯)「道東3空港のトレイル構想の実現をしたいと思っています。道東と呼ばれる地域には帯広、紋別を含めると5空港あります。とりわけ、近くの釧路空港、女満別空港、中標津空港は100㎞前後の位置関係です。この3空港を結ぶトレイルが出来たなら日本各地はもとより世界からハイカーが来るようになると思ったからです。」

そもそもロングトレイル構想を思いついたきっかけを教えてください。
(佐伯)「弟子屈町の山奥に森の中の出版社『バルクカンパニー社』の編集長伊藤肇さんとの出会いでした。」

具体的な話はいつからですか。
(佐伯)「2005年秋から道東地区に『歩く道を』を作るべきだと伊藤肇さんと構想を練って、開陽台から佐伯農場までと、モアン山周辺を探索しました。2006年5月スコットランドエジンバラに住む女性の縁で英国のフットパスを歩きに行くことになりました。」

モアン山というのは、標高356メートルの低山ですね。

(佐伯)「『モアン』とはアイヌ語で『静かな川』という意味です。モアン山を歩く人のために開放しようという動きがあり、そこも通って、中標津空港と弟子屈町美留和駅を結ぶ全長70キロに及ぶフットパスができないかと考えました。」

(佐伯)「伊藤肇さんは、自身の雑誌『East Side』の記事のネタに、『歩く旅』の啓蒙と人の歩くことの必要性を感じていました。彼と私は意気投合し、雑誌の取材も兼ねた視察旅行に、2006年5月、英国へ出かけました。」

なぜ英国(イギリス)なのですか。
(佐伯)「英国を選んだ理由は、世界の中ですべてとは言いませんが、ほとんどの文化やスポーツは英国が発祥の地だからです。」

中標津の近くにも、根室フットパスがありますね。
(佐伯)「当時、北海道で先行していた根室フットパスには私も何度も出かけました(ちなみに手書きの地図を自分が担当しています)。」

「そういうやや短いフットパスも点在しているのですが、なかなかそれらが結びついていません。歩くために道東にまでやってくるという場合、フットパスだけじゃやはり物足りない。フットパスのほかにロングトレイルとして長い一本道を作りたかったのです。」

ランチウェイのほか、佐伯さんは新たな取り組みをされていると伺いました。
(佐伯)「サバイバルキャンプ場『Camp siteむそう村』をオープンさせました。アフターコロナ時代、人間がしぶとく生きるための技術を習得することをコンセプトにしています。」

~第2章~道は『世界』につながる~

(夢を語るのは誰でもできます。実際に夢を実現するプロセスはどんなものだったのでしょうか。ランチウェイ事業を創設した人だからこそわかる、具体的な事業構築の方法論を探ります。)

KIRAWAYのコンセプトは、「小さな町から小さな町へ」ですが、それはどのような想いからつけたのですか。
(佐伯)「道東地域は豊かな自然と、広大な大地には農作物があふれ、牧草地が広がります。諸外国には歩くためだけの専用道が様々なかたちで存在し、歩く文化も成熟しています。それに比べると日本はまだ『歩く旅』への理解は少ないと感じます。クルマ優先の社会にあっても、せめて1本、歩くためだけの専用道がほしい。それが私たちの願いでした。道は歩くための、歩く旅としての道です。中標津の中心部から北根室の広大な牧場(ランチ)地帯を通り、摩周湖の外輪山をほぼ半周して弟子屈町のJR美留和駅まで、そんな構想でした。」

北根室ランチウェイ、通称KIRAWAYというロングトレイルを創設した当初のことを教えてください。
(佐伯)「KIRAWAYは全部で6ステージに分かれていてステージ5は環境省の管轄なので草刈りはしなくても歩けます。残り5ステージを1年に1ステージずつ、5年で全線開通させる予定で始めました。」

(佐伯)「当初、酪農家は僕一人で、皆さんそれぞれ職場があり、休みの時にルート探索、シルバー人材センター(編集者注―公益社団法人中標津町シルバー人材センター/HP:https://www.nakashibetsu-sc.jp/)の力を借り、手の作業でした。2009年ころより、高校の同期の長正路君が加わり、乗用型の刈り払い機を購入して画期的に作業効率は上がっていきました。」

事業は順調に進んでいったのですか。
(佐伯)「最初から順調であったわけではありません。少しずつ延伸して5年でやっとつながったのですが、誰も来なかったのでいっそのこと辞めてしまおうかと思ったんですけど、6年目くらいからポツポツと歩く人が来るようになりました。さらに、僕の知り合いで朝日新聞の論説委員の浜田陽太郎君というのがイギリスのシェフィールドの大学に留学していたとき、毎週ウォーキングを楽しんでいたところ、僕のところにしばらくぶりに遊びに来たら(彼は子ども時代に夏キャンプで佐伯牧場に来ていました。)、佐伯さんがそんなのを作っているなら面白いから新聞に載せてもいいかと朝日新聞の『窓』というコラムに、2011年、載せてもらったきっかけで全国的に知られるようになりました。」

(佐伯)「2013年10月に日本ロングトレイル協会全国ロングトレイルフォーラムin中標津が開催されました。」

(佐伯)「2014年5月、元『山と渓谷社』のライターでフリーランスの堀内一秀氏の紹介で、プロのトレイルランナー奥宮俊祐氏が全国からトレイルランナーにお精鋭たち7人を連れてKIRAWAYにやってきました。」

(佐伯)「事業発足当初の時期に、看板づくり、マンパスの制作と設置を行いました。KIRAWAYのメンバーは酪農家、公務員、学芸員、雑誌編集者、看板業、民宿経営者、自営業それぞれ持ち場持ち場で仕事のできる人が集まってくれました。看板業の佐藤秀男さんは青年時代からの付き合いで映画館の前の大きな看板を描ける日本でも一番若い画家兼看板屋でした。彼は北根室ランチウェイには欠かせない存在でした。道標の作り方、看板の埋め方、看板の作り方のすべて(糸のこで切り取る、カッティングシートでの抜き取り、ステンシル)を彼からすべて教わりました。KIRAWAYのイメージカラーのエンジを基調にデザインを考えいろいろな看板を作ってきました。師匠の彼は北根室ランチウェイにたくさんのハイカーが訪れることを見届けず、若くして僕より先に逝ってしまいました。」

KIRAWAYのえんじ色の看板は印象に残ります。
(佐伯)「マンパス(牛はくぐれないが人は通れるくぐり戸)や川にかかる橋、廃物を利用した道標など、KIRAWAYのデザインはえんじ色に統一しました。僕自身がスコットランドに行ったとき、不安になった人間は、ふとそこにある標識に救われることに気が付きました。KIRAWAYにもそういった歩く人に寄り添う道標をつくりたいと思い、統一感のあるえんじ色にこだわりました。」

KIRAWAYには多くの人が集まり、歴史を刻んできました。
(佐伯)「KIRAWAYは次世代の子供たちのために造ったのが本当の狙いでした。北海道大学メデイア観光学院木村宏(きむらひろし)教授の生徒が過去4年間、毎年現地研修でKIRAWAYを研究テーマにしたそうです。」

(佐伯)「KIRAWAYという道の利用頻度は増してきていた矢先のコロナでの2020年の当面閉鎖でしたが、その後、完全閉鎖となってしまいました。このコロナ禍の後に一番先に復活するのはこのようなアウトドアでしょう。」

~第3章~道は『人』をつなぐ~

(ゼロからイチを作ってきた佐伯さん。災害が多く、毎年のように異常気象がニュースになっている現代で、何が必要なのか。アフターコロナの時代に求められる生き方とは何か。佐伯さんが現在創り出している空間(むそう村を含む。)の現在のカタチに迫りました。)

佐伯さんのフェイスブックを見ていると、なんでもラクラク軽く作ってしまうことにびっくりしました。
(佐伯)「むそう村には、サウナ小屋も作りました。工法は荷物をリフトで持ち上げる時に使うパレットの組み合わせ、誰でも作れますよ。同じ寸法のパレットがあると作りやすいです。」

キャンプサイト「むそう村」には、「サバイバルキャンプ」というコンセプトがあるも伺いました。温故知新、それを体現されている。
(佐伯)「まさにそれがサバイバルキャンプ場を作る意義ですね。2011年の東北大震災に始まり、新型コロナ、毎年のように豪雨による大災害、人がいかに傲慢に生きていたツケが、今、降りかかってきているような気がします。自分の子供の時の体験や大正、昭和、戦前に生きて来た先人に学んだ事は僕の人生で最大の武器です。この事を次世代の子供たちに少しでも教えていかなければならない。そんなコンセプトで、このキャンプ場を作ろうと2020年3月頃から考えていました。焚き火の火の付け方から、薪で煮炊き、水はポンプで汲み上げるボットントイレ、どんな時代にも対応出来る子供たちを育てる意味合いもあります。」

コンセプトも発想もありそうでなかったものですね。
(佐伯)「サバイバルキャンプ場『Camp siteむそう村』のコンセプトは、
① 焚き火のできるキャンプ場
② ガスは持ち込み禁止、薪で煮炊き
③ ボットントイレ
④ ガチャポンプでの水の汲み上げ
⑤ ファイヤーのできるキャンプ
⑥ テント泊が基本
⑦ 不便な体験を授業料として支払い

どんな利用客が多いですか。
(佐伯)「意外かもしれませんが、女性のソロキャンパーが多い印象です。海外からもキャンプをしに来る方もいらっしゃいます。」

キャンプサイトができる前から、「むそう」「むそう村」というものがあったと聞いていますが、「むそう」について教えてください。
(佐伯)「1974年から佐伯農場の一角で首都圏の子供たち、学生の夏キャンプが始まりました。主たる目的は高度成長期の日本、コンクリートジャングルに暮らす子供たちに少しでも不便な生活を自然の中で1カ月近く寝食を共に体験してもらいます。」

(佐伯)「都会で仕事をする中で、無駄と思われるボーっとした時間がいかに次の仕事にいい影響を及ぼすか。そして自然の中の生活がいい発想と想像力を生み出します。」

むそう村のコンセプトは、アフターコロナの時代の生き方や世界が注目するSDGs「持続可能な社会」にも共通していますね。
(佐伯)「佐伯農場がもつ立地条件を活かすワーケーション。ワーケーションとは『働くと遊ぶ』を合体した造語だとか。コロナがあっても何か面白いことができるはずです。焚き火の出来るキャンプ場、マウンテンバイク用のコースも完成しました。自然災害が増えている時代やコロナ禍があっても、やれることはあります。先を見越して、畑地を何にでも活用出来るように高額な測量代をかけ地目変更をしました。総務省の事業で過疎地域への光回線の設置申請もしています。アフターコロナ時代に向けての準備を着々と進行中です。」

〜第4章~道は『芸術』につながる~

(佐伯牧場につくと、芸術が出迎えてくれます。芸術や自然が調和した世界に魅せられ、吸い寄せられて、人が集まってしまう。そんな世界を創り上げてきた佐伯さんに、芸術について聞いてみました。)

ランチウェイは「一つの芸術作品」として成立しています。
(佐伯)「この道を歩きに京都から来たシンガーソングライターTOMOKOさんが、うちにある建物のひとつ『マンサードホール』でひょんなことから佐伯農場のスタッフたちと音楽セッションをしました。道が音楽もつなぎ芸術になる。KIRAWAYスルーハイク後、偶然に宇登呂に行ったときにTOMOKOさんとばったり会って、もう一度佐伯農場に寄って行きなよと声掛けして、お酒が入った勢いでまたもや音楽セッション。TOMOKOさん自作の『ありがとう』という曲がとても気に入りました。僕が詩を書くからTOMOKOさん曲をお願いしました。冬に京都トレイルにトレランのお手伝いに行った際に詩を持っていき、できたのが『みんなの一本道』でした。京都、関西方面でのTOMOKOライブでは『みんなの一本道』を唄ってくれているそうです。」

※編集者注―北根室ランチウェイ公式チャンネル(YouTube)「みんなの一本道」
↓↓↓

佐伯さんの芸術の原点には、どんなことが関わっているのですか。
(佐伯)「父が開拓団でこの地に入植し、開拓者たちの子供たちの教育をする為、開拓農家の一員として農業を営む松本五郎氏に教師をお願いし地元の校長になってもらいました。私の小学と中学の計9年間、ずっと同じ松本五郎校長というのも不思議な縁です。版画や図画教育を主にした西竹小中学校は松本五郎氏が創設したといっても過言ではありません。松本五郎氏は旭川師範学生時代に生活図画事件で不遇の体験をした方です。」

(佐伯)「それと、佐伯農場は、私の父の時代、だいたい1970年代から東京の子供たちの夏キャンプを受け入れていました。多い時には学生、子供合わせて50人以上が佐伯農場の一角に1ヶ月近く生活する体験です。そんな自分が、『むそう村』の人と付き合うようになったのは短大を卒業してからでした。40年以上続く佐伯農場むそう村は、その時々の学部の違う大学生で構成されていましたが、芸術系の学生の影響力が大きかったようです。ちなみに、むそう村が長年引き継いでいたのは摩周湖へのロングハイキングでした。この地に車が普及し始めた頃からもむそう村は歩くことへのこだわりがありました。2005年、北根室ランチウェイという歩く道が生れたのもこれがきっかけです。」

(佐伯)「地元に活躍する版画家や恩師、松本五郎氏の作品を展示する『荒川版画美術館』を2002年に開設したのを機に、地元の学校に赴任して子供たちの写真を撮り続けた前田肇氏の写真を展示した『帰農館』や、『ギャラリー倉庫』という施設も開設しました。こちらは彫刻家宮島義清氏との縁によるものです。隣町標津町で創作活動を10年、佐伯農場に展示創作を始めて12年もの間の現代アート作品を展示しています。」

佐伯さんは、若いころに海外に行った経験が、KIRAWAYや今の「むそう村」、美術館開設などの挑戦につながっているということでした。
(佐伯)「若い時、といっても25歳くらいだったかな。『地中海青年の船』という全国から青年を募集し40名くらいの団体旅行に参加しました。1ドル360円に限りなく近い時代に46万円以上の渡航費の半分を町の財政から支出して旅行に行かせてくれました。地中海沿岸の国々を船で訪れ、その地方の文化に触れる旅は私の人生に大きな影響を与えてくれました。当時、欧州に行くには北回り北米アラスカ州のアンカレッジ経由でした。ロンドン、ローマという経路でイタリアに到着。イタリア半島の付け根の部分のジェノバの港町からナポリ、シチリア島、アテネ(ギリシャ)、イスタンブール(トルコ)、イズミール、マルセイユ(フランス)各港に到着するとすべて自分たちで自由にその町を散策します。船の中はたくさん外国人が一緒に乗っています。イタリア語も少し覚えて楽しい時間を過ごしました。芸術の都フィレンツェは特に印象深く残っています。フィレンツェからローマまでの列車の旅も楽しかった。すべての見るものが初めて。数千年の歴史の中に都市が形成され、侵略や戦争を繰り返しながら成熟した国々がそこにありました。歴史、文化、芸術、人々に会い、触れ合ったことが今の自分の財産です。文化活動の支援、美術館、芸術家との接点、北根室ランチウェイという歩く旅のできるロングトレイル、すべてがこの旅が発想の原点になって、佐伯農場の今ある姿はこの旅で培われたといっても過言ではありません。」

〜第5章~事業成熟段階の問題点、解決の手法~ 

(課題にぶつかった時、佐伯さんはどうしてきたかを聞きました。ランチウェイを含め複数の事業を複数進めてきた佐伯さんには、挫折もあったはずです。その挫折を解決するには何が重要だったか。本当の課題は何か、教えてもらいました。)

KIRAWAYについてですが、事業を継続することはやはり大変な道のりですよね。
(佐伯)「毎年春から相当なエネルギーを使って地権者の交渉、草刈り、道標の架け替えをしてこの地域からのKIRAWAYに対する要望事項を解決してきました。春から総延長10km以上の変更をするなどです。酪農家の庭先はすべて通らないルートと農作業に支障がある農道は極力避けるルートを地権者と綿密に打ち合わせ選択しました。率直に、『存続を希望する観光協会や町はどのようにしてこのトレイルが作られているのかを理解しているのだろうか』とは思っていました。」

事業が軌道に乗って新たな問題も発生してきたという事ですか。
(佐伯)「一定の予想はしていましたが、予想以上の問題が発生していました。少ない人数だと勝手にやっていればいいのだろうという段階から、目につく人数になってきたということが実感です。農家さんにとっては、団体が歩いているとこれはなんか変だぞ、これは自分たちにとっては何も得な事がない、作業の邪魔になる、そういう状況になってきてしまいました。そんな状況になっていても、行政に何でもかんでも解決してもらうというという気持ちはありませんでした。私たちの団体に対してきたクレームは出来る限り私たちで対処していくという姿勢が重要です。継続的に農家に対する説得、説明はしていました。現実的には気休めかもしれないですが、消毒槽を作りました。道路標識など自分たちで作っていましたが、相当な費用がかかっていました。観光振興に使うのであれば多少その費用をどこかで捻出してもらえればありがたいとは思っていました。中間のカーヘルパーについては鍵をどこに置くかという問題もありました。開陽台のところに預けておく等が有効ですが、それはできませんでした。ひょんなことから縁があって、旭観光さんにタクシーでやってもらいました。そういう産業が成り立つのはいい事だと思います。また、トランスポート(荷物を次の目的地に運ぶサービス)というサービスをやっていますが、それも例えば運送業者に委託する事で新しい産業が成り立ちます。若い人たちの働き場としてはガイドや宿泊施設が生まれてくればいいかなと思っています。地権者とトレイルを歩く人の熟成が少しずつ進めばいいですが、急に進んでいくと軋轢を生むことにもなります。」

完全閉鎖前に、一度「閉鎖宣言」をしたこともあったんですよね。
(佐伯)「2016 年くらいから町への要望事項として酪農家さんたちからたくさんの怒りが示されました。要望事項の中には、『農作業の邪魔になる』とかマナーの問題とかいろんな問題が提起されました。それも受けて一度、閉鎖宣言をしたのですが、辞めるのも大変だしやるのも大変という状況でした。それだったらあと何年か頑張ってみようということで、再開を決断しました。それでルートを大幅に変更して、酪農家の庭先は歩かないルートで新設してみました。苦情が出たときはすべて対処してきたつもりですが、それでもなかなか酪農家のメリットがないんですよね。こういう農場内では作業車両の後方には近づかないでください。農場主は自分の農場にはどこに何があるか分かっているから後ろもみないでバックしちゃうんですね。人がいたということがたくさんあって、そこでもし事故が起きたらお互いに大変です。」

事業を継続するには、やっぱりお金が必要ですよね?
(佐伯)「KIRAWAY事業の費用としては3000万円くらい投資したでしょうか。」

KIRAWAYでは、クラウドファンディングを成功させたという話も聞いています。
(佐伯)「北根室ランチウェイの道の整備は、自分と高校同期の長正路(ちょうしょうじ)清さんの2人でそのほとんどをやってきました。整備の際に2人で弁当を食べながら『2人であと何年できるかな。このあと誰か受け継いで整備をする人いるかな』『こんなことやる人誰もいないべ』という会話になることが増え、当時は2人とも67歳。『頑張ってもあと2~3年かな』と思い始めていたところです。」

(佐伯)「そんな折、40年程前から佐伯農場に夏になるとキャンプに来る団体『東京むそう村』の一団から連絡が来ました。『自分たちは40年もの間佐伯農場にお世話になってきました。今、都会では北根室ランチウェイのように長く歩いて旅をする需要が年々増えてきている。是非長く続いてほしいと思っています。』ということで色々な方法を考え、支援を申し出てくれたのです。それは高齢な私たちを見かねてのことだったかもしれません。」

(佐伯)「最初、2人ともこの申し出には『みんなの世話にならなくても何とかなるだろう。』と思っていました。しかし、その前年、2人ともちょっとしたところから落ちて怪我をするなど体力の衰えを実感しているところでもありました。そこで二人相談の上、この申し出をありがたく受けることにしたのです。」

※執筆者注→Makuake(マクアケ)HP:「おじさんたちが拓いた北海道の歩くための道70km『北根室ランチウェイ』を未来に」
↓↓↓

KIRAWAYは面白いコンセプトで自然と調和した生き方を広める価値もありました。しかし、現状、完全閉鎖となり、永続的な事業になりませんでした。そこには何か根源的な問いがあるように思います。
(佐伯)「関係する人々に『歩く旅』について医師の疎通ができなかった部分があります。山の管理者、酪農家、周辺施設や行政。多くの人々と関わり、調整を試みてきました。人間が歩いて美をすることの大切さをもっと伝えていきたかったし、理解してもらいたかったのです。どんな生き方をしてもその多様性を認め合う社会であってほしいと願っていました。欧米では歩いて旅をする人たちが一番リスペクトとされています。そういった文化をこの土地でも根付かせていきたかったのです。」

「しかし、街の人に『歩く旅』の魅力がうまく伝わらなかったのが大きな誤算でした。」

「ちょっとみなさんに問いかけなんですけど、この道が中標津の町民にとって将来の財産として必要なのかどうかと言うことも考えていただきたい。それからたくさんの人が中標津に歩きに来ることをどう思っているか。そのことが町に有益なのか迷惑なのかそのことを僕は問いたいと思います。海外では歩いて旅をすることが一番尊敬されていると言いました。歩いて旅をすると、その街には『トレイルエンジェル』というのがいて、道ばたにお茶を出したり、町に買い出しに行ったり、そういう文化が育っています。そういう文化を育てるには相当な時間がかかると思います。『歩く旅』がもっともっとリスペクトされるようなことになっていければ、ランチウェイも持続するのではないかと思います。」

2020年10月のKIRAWAY完全閉鎖にあたって、『もったいない』と思っている方が少なからずいます。
(佐伯)「やはり、歩く文化をつくっていかないと存続は難しいのかもしれません。あとは、何がこの地方で必要な資源なのか、官民が共同で考えていく必要があります。」

〜第6章〜中標津の歴史と佐伯さんの生き方

(佐伯さんの歴史に触れる前に、まず、中標津町(及び周辺の標津町、別海町)の歴史について、時系列でまとめました。)

※参考 北海道 標津町 

※参考 “北海道を探しに行こう”をコンセプトにする北海道マガジン「カイ」│特集│「鮭の聖地」の物語~根室海峡1万年の道程

〜最終章~道は未来に繋がっている~

(未来は若い世代が作り上げていくといっても、実際どうしたらよいでしょうか。誰かに任せず、民主主義の担い手として自ら考え、自ら形をづくっていくには何が必要なのでしょうか。自ら考え自らいろいろな事業を創設継続してきた佐伯さんの原動力は何なのでしょうか。)

改めて考えると、人間にとって歩くという行為は「生きること」と同義ですね。オフィスワークが多くなり、意図的に歩かないといけない。歩かないということはより生き方ではないように感じます。
(佐伯)「人間は本来歩かねば脳は退化していくし、大都市圏には自然の中を長く歩くという要求があります。この前、一人歩きの女性がKIRAWAYにきました。『女性が一人で歩くなんてとんでもない』という事をこの地域の人からよく言われます。女性に限らず、男性も一人でKIRAWAYを歩きに来る人が多いのはどうしてなのか。たぶんこうです。自分自身のペースで歩ける。一人で黙々歩くことが自分を見つめなおすことができる。一人のほうがより達成感を実感できる。」

(佐伯)「地方がますます疲弊し人口減になる中、都市とどうすれば融合できるかという事は、都会の人に、より自然と向き合う時間を与えてあげることかなぁ~とも思って北根室ランチウェイを作りました。沢山の人混みの中に暮らす都市の人が自分自身と一人で自然と対峙することがいかに必要かを問われている時代だと思います。結果的に地方により沢山の人が来て賑わいを取り戻せたらなおさらいいと思います。ちなみに一人歩きの女性は『スペイン巡礼の道』を歩いた方でした。」

歩く旅は巡礼の旅、つまりもともと宗教的な意味合いが含まれていました。宗教的な聖地巡礼の発想がない場所においては、歩く旅を「文化や哲学」に押し上げる必要があるように思います。
(佐伯)「まずは、道東に歩く文化を普及させるという大きな目標を持つべきです。その結果の後に観光振興につながるという順序が大切です。」

佐伯さんのフェイスブックによると、KIRAWAYの事業も数度のルート変更に迫られてきました。批判にも屈せず、事業を継続できたのはどんな思いからでしょうか。コロナ禍の影響で、アフターコロナ時代も含めて、観光業には大きなダメージが残るものと思います。しかし、佐伯さんは今も「新しいコト」を始めたり、「新しいモノ」に挑戦し続けています。

(佐伯)「KIRAWAYについては15年の歳月の間に中標津町が『ロングトレイルを基軸に観光振興を』という観光庁の事業がありました。中標津町を知らなくても全国の方々は北根室ランチウェイを知っています。全国でも行ってみたいトレイルの上位にランクされています。もう、広報宣伝活動しただけで全国からたくさんのハイカーが訪れてくれるこのトレイルの魅力を再確認したらと思います。もちろんコロナ禍後に一番先に復活再生するのはアウトドアー関連の観光産業でしょう。現在は、大人のキャンプ場、自然学校『camp site むそう村」』に熱量があるので、あと2、3年頑張ってみます。」

今の10代の子どもに送るメッセージってありますか。私は弁護士なので、10代や20代の若者が犯罪者集団(オレオレ詐欺の犯行グループなど)に安易な気持ちで入ってしまうのはなぜだろう、というところがありますが、佐伯さんはどのように思いますか。
(佐伯)「難しい設問ですね。あたってるかどうかわかりませんが、自分のやりたい事がないのかもしれませんね。ですから、安易に高校を卒業して一流大学を目指せばその先に何かが待っていてくれるような。」

「僕が今考えているのは、デンマークにあるフォルケホイスコーレ(大人の学校)です。進路を決める前に何カ月でも自然の中に身を置いてみて自分を見つめなおす機会を持てます。そのあとで大学に行くか、自分の好きな専門学校に行くか、それともそのまま就職か考えればいいと思います。」

※編集者注―「一般社団法人IFAS」のHP
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(佐伯)「コロナ禍後の日本の生活様式、レールのひかれた就職活動、すべてが変わるような気がします。以前にも書きましたが地方に若者が働く環境をつくることを、大人たちが真剣に考えるべきですね。東京の某企業とも、現在、サテライオフィースやワーケーション、研究機関のラボ的なものを佐伯農場の今改築中のクラブハウスでやろうかなんて夢のある話も進行中です。そのような話が具体的に実現していくと中標津に住む若者の夢と希望を与えられるのではと淡い期待を持っています。」

あとがきにかえて(逆質問)

(佐伯)なぜこの企画をやろうと考えたの。久しぶりに将来のことや町の未来を考える若者に出会ったような気がするけれど小田君はどうして僕に興味を持ったのか聞きたい。

(小田)「言葉は悪いですが、中標津って、否定的な意味で、よく『なんにもない』と言われていて、私もそう思いながら、小中高と中標津で生活してきました。その後、札幌や旭川、埼玉県、釧路の生活を経て、2018年、中標津にもどってみると、いつも変わらないこの雄大な自然、が私の原風景で、その美しさや、自然があふれている世界、そこから導かれる精神的な余裕のようなものが、私の一部を構成していることに気が付きました。そして、そんなことを事務所のコラム(http://www.ak-lawfirm.com/column/1181)にも以前、書いていて、数年たって、今年、青年会議所の委員長(会社の事業部長のようなもの)に就任して、改めて、ランチウェイを調べていくうちに、佐伯さんに行きついたのです。佐伯さんとコラボして何か企画ができないかと思いました。私の職業柄いろいろな分野の方に会いますが、『なんにもないを活かす』『自然と調和する社会を作る』という、まずこんな発想ができる方、思考が自由な方ってあまり出会いませんでした。加えて『自然と調和する』なんてのは、言葉にするのは非常に簡単ですが、それを事業として現実化してしまうのは、並大抵のチカラでは足りません。その熱量、エネルギーにびっくりしました。」

(佐伯)若者が「こんな大人になりたい」「こんな爺さんになりたい」と思うようなことを実践すると、より良い町になるような気がするけど小田君は?

(小田)「そうですね。私は、若者の手本となるような中身のある人間かはわかりませんが、『中標津町出身』であっても、つまり、大都市東京から離れている北海道出身の人間でも、かつ、北海道の中心都市札幌から400キロ以上離れている過疎地からでも、『工夫次第で面白いことができる』というメッセージは、届けたい。特に、中標津や弟子屈、別海、根室、羅臼などの道東地方に住んでいる若者は、場所柄、公共交通機関が脆弱で、かつ、高等教育機関も乏しく、他の文化に触れる機会が相対的に低いと思います。そんな若者に『どんな場所でも面白いことはできるんだ!』というメッセージを届けたいと、いつも考えています。」

(小田)「よりよい街にするためには、まずは自分の頭で考えることができる人が多いことが必要条件であると思います。自分の頭で考えるには、やっぱり一番大事なのは、『教育』です。大人は、子どもたちの教育の「環境」を整える責任があります。環境を整えるには、まずは、自分が面白い・楽しい事、そして地域のためになることをやって、人生って、面白いということを身をもって、表現すること、それができれば、若者も勝手に自分で考えて、自分の道を切り開いていけるのかなと思います。」

(佐伯)「反実仮想」という言葉知ってる?もしこうなったら次はこう考える、常に次の事態を想定しておくことなんだけど今の首長や議会議員さんには創造力がないような気がするけど小田君はどう思う?

(小田)「ごめんなさい、今調べました。『プランA』の後に、仮にそれがだめだったときに『プランB』を考えておくことに言い換えることができるでしょうか。コロナの対策でも、医師の書籍で、日本にはいつも『プランBがない』という話が書いてありました。話は飛んでしまいますが、第2次世界大戦で、日本が、アメリカを戦争に巻き込んでしまえば、必ず戦争に負けるという事態は(特に海軍なんかは)わかっていたはずなのに、米国と戦争を始めてしまいました。歴史の本なんかを読むと、当時は、世論、つまり日本国民の大多数が、米国への開戦を支持していたようです。当時も今も変わりませんが、政治家は、当然、大衆迎合的な政策をします。戦争開戦に向けて政治家が意思決定を下すのは民主主義的に見て当然の判断だったという流れになってしまう。政治の世界は、弁護士の世界とは異なり、どうしても、当選のために『人気取り』が必要ですし、選挙で勝てるかは、死活問題ですから、国民の声を無視するわけにはいきません。政治家自身『最善の道は何か?』を考え、明確に「米国との開戦は回避しよう!」と持論を打ち出すことは、当時の世論からすれば、『逃げ腰!』などと糾弾されて、現実的にやりにくかった、という側面があるように思います。」

(小田)「以上を前提にすると(このような時代認識が誤っていたら、ご指摘いただきたいのですが。)、議会議員や首長に何か独自のリーダーシップを期待することは、過剰な要求なのではないか、という気持ちがあります。よく言われることですが、政治家の能力が低いのは国民の能力が低いから、ということで、私も含め、社会や政治に興味を持ち、政治家といわば『一緒になって』プランBを考え、それを発信する、ということが必要なのではないかと思います。SNSは、それを可能にしました。あと必要なのは、市民側が危機感をもてるかですね。『政治家任せ』というのは世界中の国で起こっていることのようですし、結局同じ回答に行き着いてしまいますが、『どうしたら若者に政治に興味をもってもらえるか』、より抽象的には『政治家任せ(=他人事)ではなく、自分事を増やしていくか』、そういう環境をみんなが悩み、考え、構築していく継続的な努力が必要です。そして、やはりそのためには「教育」が重要であると思います。

(佐伯)中標津の若者が今考える「町の将来を担うこと」ってどういうことでしょうか。短期的なことと長期的なことを分けて考えるべきだと思います。小さな積み重ねの上にしか、成功の道は少ないと思います。種をまかねば芽は出ない。成長して実をとりたい人はたくさんいます。

(小田)「どうしても、人口が少なく、他の市町村とも物理的な距離が遠いですから、手に触れることができる身の周りにある『世界』が狭くなりがちです。狭い世界では、自分の殻に閉じこもりやすく、偏狭な自分の世界を『世界のすべて』だと思ってしまい、『井の中の蛙』になってしまうのではないでしょうか。旅をして世界を見る、中標津町以外に街に居住してみる、留学する、そんな選択肢が身近にあれば、自分の『世界』を広げることがもっともっと簡単にできるようになります。もっと若い人が外に出るにはどうしたらよいか。まずは、最低限のお金は必要だと思います。お金がないと基本的には旅に出ることができませんし、外に出る精神的な余裕も醸成されないと思います。そして、好奇心。好奇心が旺盛な人は、いろんな世界に興味を持ち、勝手に自分で学んで、社会の不合理なことを変えようと考え、実践します。町の将来についても、若者を育てることが第一で、その方法論として、この豊かな大自然を生かさない手はないと思います。」

(佐伯)流行りを追った瞬間にビリだと思いますが、地方の人は流行には敏感だよね。「あそこの店料理まずいよね!」そこの店言って食べてみたのって聞いたら「みんなそう言っていた」こんなことがいっぱいのなのです。

(小田)「流行に乗る、というのは、視野が狭いと言い換えられるかもしれません。流行は、いつかなくなるものですから、本当に価値のあるものに目が行きにくいことにつながります。視野が狭いということは、『世界』に閉じこもって、本当の世界を知らないにつながります。一般に、流行に乗っていくと、短期的には価値(利益)がありますが、長期的に見て、本当に価値があるものかは、なかなか判断がつきにくいことが多いように思います。長期的に価値があるものかどうかは、やはり、歴史を見る、必要があります。」

(小田)「全然話が変わってしまいますが、私は好きで、よく世界の歴史の書籍を読みますが、ローマ帝国などの例外を除き、どんなに隆盛を誇った王朝でも、やはり100~300年で、打倒され、新たな王朝が誕生していることが多いのです。日本ががらっと変わったのは、1945年で、現在、70年を経ていますが、また何十年後かに、がらっと変わる節目があるように思います。」

(小田)「今、資本主義や民主主義も、大きな節目の時期に立っていると思います。象徴的なのは、元米国大統領ドナルド・トランプのSNSの発信ですね。不用意なSNSの発信が、支持者により議会の暴力的な占拠を助長しました。民主主義は多数決の暴力に発展することがあり、資本主義も、労働者よりも、資本家が、断然、優位であることは、トマ・ピケティが『21世紀の資本』の中で明快に指摘しています。」

(小田)「現代の流行(トレンド)というのも、資本主義経済の中で生まれては消えるものですが、長い目で見て、価値が続くかどうか、慎重になる必要があると思います。いままで通りの資本主義や今まで通りの民主主義が危うくなってきた時代で、流行に乗ることは非常にリスキーかもしれません。がらっと変わった世界で、資本主義経済的に『正しい』『利益になる』と考えられてきた事が、いつのまにか『正しくない』『金にならない』ものに転換する可能性があるからです。」

(小田)「そんなことを考えていると、『本当に価値のあることを見つける目』を養うことが必要ではないかと思います。いつも同じ話で恐縮ですが、やはり、『教育』が大切です。そして、変化に対応できるチカラをつけること、『ダイバーシティ=多様性』を身に着けていくことが必要です。変化に対応できるチカラを身に着けた人って都会でも地方でも、多くないように思います。おそらくこの街に限定したことではないように思いますが、流行に敏感で、移ろいやすい人が若者の見本となっているか否かは、もっと真剣に考える必要があるかもしれません。」

(小田)「多様性を確保するためには、いろんな世界に触れ、いろんな人に会い、話を聴いたり、本を読んだりして、行動して、失敗を繰り返す中で、『自分の世界だけじゃない』、ということを身をもって知り謙虚になること。謙虚であることは、もって生まれた能力ではなく、後天的に獲得できるものです。ただ、急いで付け加えたいのですが、謙虚であることは『大人のいう事を常にきいて、おとなしくしていること』ではありません。一見、矛盾するようですが、Adoの『うっせえわ』という曲があります。メンタリティー、言い換えると、気概のようなものとしては、この気持ちはとっても重要だと感じています。他人が『良かれと思って』した助言が、本人の足を引っ張ることは往々にしてあります。謙虚でありつつ、自分こそが正しい、自分の夢を潰そうとする外野の声には『うっせえわ』というくらいの気概をもって自分が自分を鼓舞する。子どもから大人に成長するというのは、失敗を繰り返す過程で、『謙虚さ』を獲得しながら、同時に『うっせえわ』という気概を持ち、その両者を上手にミックスしていくプロセスであるのではないかと思います。」

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編集者兼著者小田康夫のあとがき(地元の高校生に向けたメッセージ)

中標津町には大学が存在せず、大学教育は身近なものとはいえません。大学において身に着ける能力は一般にリベラルアーツと呼ばれ、生きるために必要なチカラとされます。AI時代やコロナ禍の不安定な社会情勢の中では、より必要な能力と言えるでしょう。
じゃあ、どうしたらそんなチカラが身につくのでしょうか。大学に行かなければダメなのか。「正解のない」ことってたくさんありますが、それに一定の結論を出し、自分の頭で考えるにはどうしたらよいか。

 大事なのは、本を読み、人に会い、旅に出ることだと、分かり易い歴史書を多数出版している、出口治明さん(2018年~立命館アジア太平洋大学学長)は語っています。「本を読み、旅に出て、人に会うこと」がイノベーションを起こす。

「本・旅・人」の時代。

じゃあどんな本を読んだらよいか。
私は歴史の本がいいと思っています。みなさんが学ぶ教科の中でも、歴史という科目は、定期テストや受験勉強で必要だから勉強するものではなく(それはそれで続けてください。それも大事です。)、自分で物事を考えるために行うもの、自ら一生涯をかけて学ぶべきものです。
歴史を学ぶことで、「物事を相対化する」ことができます。「今ココで問題になっている事を、全体の中でどこに属するか」を位置づけることができます。いま問題になっていることが、どんなベクトルで出てきたか探り、この後、どっちのベクトル方向に進むかを見極めること。「物事を相対化する」は、よく皆さんも聞くフレーズ、「考える」という作業にほかなりません。

話は変わりますが、皆さんは、これから18歳で選挙権を行使することになります。「自分の一票なんて小さすぎて影響がない」「多数決で決める民主主義は面倒」、「カリスマ的な人気者に任せたほうがいい」と考える人もいるかもしれません。実際、大人でもそのように考えている人は多いのかもしれません。しかし、我々の身近にあるトラブルの根本には、インターネットの利用ルールが甘かったり、差別が是認されていたり、つまり「社会の仕組み」そのものが変化せず稚拙なために起こっていることも多く存在します。選挙権は、社会の仕組みをより良い方向に変える権利ですから、ぜひ身の回りのことに関心を持って、権利を行使していって下さい。

ただ、権利行使をするには、社会の仕組みを知っておく必要があります。私もこの中標津高校卒業して、北海道大学に進学し、イロイロなことを学びました。大学ではなくとも、みなさんもできることなら、外の世界に飛び出してください。そして、この街の問題を外にでて考えてみてください。更に、この日本社会を考えるために、海外に行ってみてください。この社会の仕組みがいかに特殊か、微妙なバランスで成り立っているか。外に出ることで、この街や北海道、そして日本社会の仕組みを「相対化する」ことができるでしょう。そして、いつか日本、北海道、この地元に戻ってきて、国や北海道、そしてこの街を元気にする知恵を出してもらえないかなと思っています。

「外の世界に飛び出すこと=旅に出ること」は、物事を相対化する手助けとなるでしょう。

そして、人に会う事。
確かに、人に直接会わずとも、インターネットを検索すれば、情報が山のように出てくるでしょう。
でも、インターネットの情報だけでは、どうしてもどんな人なのか、わかりにくいですし、特に現代のSNSは共感する人達(ファン)と反発する人達(アンチ)の二極化が進み、人の考えのカタチが非常にわかりにくくなっています。インターネットが発達した分、人の情報は容易にアクセスできるがゆえに、インフレとなり、価値を失い、案外、人との接点が失われているように思います。
どこでどんな人に会うかは、その人の生まれや、生き方そのものに左右されます。この街にも、面白いことをやっている人がいます。ぜひこの街で面白いことをやっている人に会って、その人の生きざま、考え方に直に触れてみてもらいたい。

この本が「人」と「人」をつなぎ、何か新しいこと・面白いことを始めるきっかけになれば、編集者としてうれしく思います。

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佐伯雅視のあとがき(地元の高校生に向けたメッセージ)

今の高校生や若者に本を読め、社会のことを理解せよ、選挙に行って自分の意思表示をせよと言ってもかなり無理があるような気がします。

今年71歳になる僕がその時代にどうだったかと考えたら、今の若者は、とてつもなくしっかりしているし自分を持っている人が多いしテレビに出てもまたインタビューに答えてもしっかりとした考え方、受け答えができるのがいまの若者の印象です。

翻ってみて僕の20代のころはどうだったか。
農業の大学といっても季節性の3年行く短大です。夏は自宅の農作業を手伝い、11月から3月までの5か月間だけ行く学校でした。
学生時代といえば、毎日パチンコと夜は麻雀に明け暮れる日々、農業高校を出た僕は農業専門科目が高校と同じレベルなので勉強をしなくても及第点はとれました。普通高校から来た学生は農業専門科目を習っていないので一生懸命勉強していたようです。だから毎日パチンコや麻雀に明け暮れていてもよかったのかもしれません。

札幌オリンピックのころに学生だったので、オリンピック需要でアルバイトはいくらでもありました。中でも真駒内競技場の観客席の椅子の番号を貼るバイトは、当時アロンアルファーという強力な接着剤が出たころで、係員から素手でこの接着剤を触ると病院に行ってメスで指を切り離さないととれないと驚かせられた記憶があります。当時を思い出すと、道庁赤レンガ前のひょうたん池の汚泥の取り除き真冬の行う作業で粘土質の多い土が重くてつらい。雪まつりの雪像つくりのバイトは北海タイムスという新聞社がスポンサーを見つけてきてスポンサーに希望する商品を雪で作る。スキーメーカーのビンデイングを雪で作るのはバランスが左右対称で相当難しい。

のちに、中標津に戻り冬祭りで雪像作りをした際は(昔の体育館の前で行われたイベントでした。)、巨大なスーパーマンを作って皆さんから喝さいを浴びました。今、佐伯農場で創作活動をしています。宮島義清氏と創作するうえで、この雪像作りが役に経っているのかもしれません。

そんな青年時代を思い出すと、20代前半に東京に行って帰ってきたときに東京のデパートで買った流行のシャツを自慢そうに来ていたのを覚えていますし、中標津空港に降りた時に「俺は東京に行ってきたんだぞ」みたいな顔をして降りてきた記憶があります。

そんな田舎者が25歳の冬に地中海青年の船という全国公募の団員に選ばれ、全国の仲間と地中海に3週間の船の旅をしたことがとてもいい経験になったのかもしれません。
ある時、船長主催のダンスパーテイに女性が男性をエスコートできる唯一の日でした。ダンスの踊れない僕は「NONO!」と断りました。
女性が男性を誘って断るのは大変失礼なことだと後で知りました。ブラジルサンパウロから来た女性はその後の船の旅で口もきいてくれませんでした。
田舎から世界に出て文化の違いを思い切り知り、恥をかいてしまったときから僕の好奇心は芽生えたような気がします。

今と違い、青年団活動が盛んな時期で農村青年は4Hクラブという農業改良普及所が取り持つ団体と教育委員会が取り持つ中標津青年団体協議会(中青協)という青年団活動がありました。
僕は中青協という団体に所属していました。
先に述べましたが、当時の公民館長は吉沢虎三さんという名物館長で豪快で自宅に何度もかけマージャンに誘ってくれました。活発な青年団活動の中の公民館の職員とも一緒にお酒を飲んだり養老牛温泉にあった青年の家でのイベントも楽しかった、よい思い出です。
青年の家はユースホステル的な宿で旅行者もいつも泊まっていました。その中の岩手県の遠野市出身の三平広幸君は小清水町止別で民宿「テルテル坊主」、東藻琴に移ってからは「ひこばえ」という民宿を営んでいました。その彼とはいまだに付き合いがあります。彼は中標津にそば打ちを習いに来た目的が東北大震災の仮設住宅の人々にそばを打って食べさせてやりたい一心でそば打ちを習っていました。だから彼の打つそばにはまごころがこもっていると感じます。

そんな関係で東北の震災ボランテイアに大槌、山田町、釜石市などに3年ほど連れて行ってもらいました。彼は震災直後からがれきの処理から参加し、遠野まごころネットのメンバーとして東北を支援してきました。

その後東北の震災復興の証として青森県八戸市から陸中海岸線を福島県の相馬市結ぶ1000km以上の「みちのく潮風トレイル」のフォーラムや応報活動のお手伝いを震災後東北には10回ほど通い続けました。これも三平君という青年時代に知り合った仲から生まれた経験です。

今振り返ってみて、青年活動やいろいろな取り組みの中から僕の人脈が生れ、この年になっても佐伯農場にいながらにして、人が集まり、楽しいことができます。これも経験と実績の積み重ねに尽きると思います。

自分の人生で偉大な大人との接点があったからこそ今の自分があると思います。恩師である松本五郎さんとの師弟関係は言うまでもありません。先の青年時代の公民館長、僕を海外に送り込んでくれた横内建夫のちの教育長などなど。

ひそかにいつも遊びに行っていた武市爺さんは僕の理想とする爺さんでした。趣味は考古学、発掘マニアでもあります。爺さん趣味の部屋にはオホーツク文明時代の土器が数えきれないほどの数の収集をしていました。本棚には考古学の本がずらりと並びます。武市爺さんが寝る部屋には、頭蓋骨まで置いてありました。武市爺さんは古い家を壊す際、電燈やガラスなどなどたくさんのもの(僕のお気に入りの)を我が家に届けてくれました。植物の造詣も深く、我が家の庭の山ブドウや木いちご、ブルーベリーの作り方を教えてもらいました。すべて昭和一桁世代の教えがあり、僕自身が体験して学びました。

先般、孫の同級生が佐伯農場に5,6人自転車で遊びに来ました。我が家の庭や美術館、キャンプ場等を見てものすごく感動して帰りました。わが家の孫が勇一というのですが、「勇一君のお爺さん」ではなく僕の名前で「雅視さん気に入りました。僕と一緒にデートしましょう」とまで言われました。
やはりいろいろなことを取り組んでいると高校生にも何か感じるところがあったかもしれません。かつて、僕が武市爺さんにあこがれたように。

僕は彫刻家宮島義清氏が佐伯農場で抽象作品制作の傍らでいつもお手伝いさせてもらって、僕も創作活動をするようになり、日本芸術アートメダル協会の展覧会に毎年出品して入選を果たしています。2018年に造幣局理事長賞をいただき、東京都美術館に展示されました。そんな関係で僕自身の作品「てもちぶさた」という商品を東京の下北沢のお店で売っています。

その「てもちぶさた」のワークショップ。昔の道立青少年の家(現在はネイパル厚岸、ネイパル北見)の子ども達に依頼され、朝の9時から12時まで3時間休みなしでぶっ通しやるのですが、子ども達は無心でサンダーを使い、木を削り、サンドペーパーで磨く。あっという間の3時間。子供たちが自分で作った「てもちぶさた」を自慢そうに手に喜ぶ姿がとても嬉しく思いました。
昨今、大人の自己満足で子ども達に何かをやらそうとする傾向にある時、子ども達を十分飽きさせないような時間の経過が必要であると思います。それには、とりもなおさず、楽しい生き方、一緒に遊べる大人、このような大人になりたいと思うようなことを実践して見せることでしょう。
僕は若い人に好かれ、なおかつ模範となるような爺さんになれるようにこれからも努力して頑張りたいと思う。昭和一桁世代に物の作り方を習い、僕を世界に導いてくれたり、武市爺さんにあこがれたように。

(この本はおしまい/面白い未来はこれからみんなで創っていく)

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