見出し画像

生駒山

前回、大峯奥駈道について書いたが、その続きとして、その地を修験道の修行場として開いた役行者(役小角)と、彼と関係の深い生駒山について語りたい。
ちなみに、生駒山は大阪人にとっては最も身近な山であり、大阪の東にあり、朝日は必ず生駒山から上る。幼かった頃はよく山上にある1929年(昭和4年)開園の生駒山上遊園地に遊びに行ったし、奈良県側の山腹の現世信仰で知られる宝山寺は初詣のお寺としてよくお参りした。宝山寺については後に詳しく語ることにする。ちなみに、大阪人は宝山寺とは呼ばず、「生駒の聖天さん」と呼ぶ。
生駒山が記録に現れるのは日本書紀における神武東征の一節であり、神日本磐余彦尊(神武天皇)と長髄彦が山麓において激戦を繰り広げたとされる。私は判官贔屓というか、長髄彦に非常に興味がある。長髄彦は、「古事記」では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)、登美毘古(トミビコ)とも表記され、神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物である。登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で河内国の河上の哮ヶ峯に降臨し、その後大和国の鳥見の白庭山に移った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衙坂(くさかのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。
さて、まずは役行者(役小角)であるが、飛鳥時代(舒明天皇6年(634年)伝 ~大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)の呪術者で、役優婆塞といった呼び名でも広く知られている。姓は君。 日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。前鬼と後鬼を弟子にしたといわれる。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。
そんな役行者(役小角)の生涯を見てみよう。
舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原郷(茅原村)(のち掖上村茅原、現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女(刀良女とも呼ばれた)。 生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。
白雉元年(650年)に京の志明院を創建したと云われている。
17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだと伝わる。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く。20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(韓國 廣足)がいる。
文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。
この時の史料として「続日本紀」巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述がある。

丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。

(大意)文武天皇3年5月24日、役君小角を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足が師と仰いでいたほどであった。ところがその後、ある人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。
2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。
そんな役行者(役小角)と生駒山との関わりであるが、古くは役行者による鬼退治の伝説で知られ、伝承によれば斉明天皇元年(655年)に役行者が開いたとされる修験道場で、空海(弘法大師)も修行したと伝わる。山腹には現世信仰で知られる宝山寺を中心として、滝の修行場や祠など大小さまざまな宗教団体の施設が設けられ、宗教法人として届けられていないものも多くその総数は把握されていない。神社に関しては、奈良県側の山麓に生駒山の神を祀る往馬坐伊古麻都比古神社(往馬大社)が、大阪府側の山麓に「いしきりさん」で親しまれる石切劔箭神社や元春日とよばれる枚岡神社等がある。いわゆる霊山としてとらえる人もいる。
さて、宝山寺であるが、ここもなかなか特異な寺院である。
役行者が開いたとされる修験道場だった当時は都史陀山 大聖無動寺という名であったが、江戸時代の延宝6年(1678年)に湛海律師が再興し、この時が事実上の開山だと思われる。延宝8年(1680年)正月には村人や郡山藩家老らの援助により仮本堂が建立され、後には大聖歓喜天を鎮守として祀った。貞享5年(1688年)には新本堂が完成して伽藍の整備が終わり、寺名を宝山寺と改めた。
歓喜天は、ヒンドゥー教のガネーシャ(Gaṇeśa、群集の長)に起源を持つ。ガネーシャはヴィナーヤカ(Vināyaka、無上)、ヴィグネーシュヴァラ(Vighneśvara、障害除去)、ガナパティ(Gaṇapati、群集の主)、またはナンディケーシュヴァラ(Nandikeśvara)とも呼ばれる。ヒンズー教最高神の一柱シヴァ神を父にパールヴァティー(Pārvatī)(烏摩 うま)を母に持ち、シヴァの軍勢の総帥を務めたとされている。古代インドでは、もともとは障害を司る神だったが、やがて障害を除いて財福をもたらす神として広く信仰された。ヒンドゥー教から仏教に取り入れられるに伴って、仏教に帰依して護法善神となったと解釈され、ヒマラヤ山脈のカイラス山(鶏羅山)で9千8百の諸眷属を率いて三千世界と仏法僧の三宝を守護するとされる。悪神が十一面観音菩薩によって善神に改宗し、仏教を守護し財運と福運をもたらす天部の神とされる。一般的な抱擁している象頭人身の双身像の場合、頭部に冠を付けている方が十一面観音で、その十一面観音に抱擁されながらも足を踏まれている方が毘那夜迦王とされる。
そんな生駒山であるが、あまり知られていない存在が、「韓国・朝鮮寺」の多く存在することである。生駒山はこのように多くの人々を集める、信仰の対象となりえたのは、柳田国男をはじめとする民俗学者の指摘する通り、日本人にとっては山は祖霊の住む神聖な場であるということがあり、都市に近い山は、神のすむ他界と人間の住む都市との境界の役割を果たし、格好の修業の場を提供し、昔から、人々は山中の滝にうたれたり、寺や庵に観もったり、祭祀を行ったりした。
生駒山の韓国・朝鮮寺については、飯田剛史「生駒の神々」は詳しく、生駒周辺に韓国・朝鮮寺、63寺を確認している。しかし寺といっても、ここで行われるのは、たいがい巫者(シャーマン)が神がかりして神を降ろす賽神(クッ)の儀礼が中心で、韓国系の曹渓宗あるいは日本系の天台・真言の山岳修験系諸派を名のっていても、宗教法人の形式をとっているものは少なく、ほとんどが民家と同じようなたたずまいで、一般の家と区別するのがむずかしい。造りとしては、①仏をまつる簡単な本堂と、②七星堂や七星神・山神・海神をまつる三神閣と、③賽神場、④行場としての滝、⑤依代としての神竿、⑥地蔵堂などがあるのが普通である。年中行事の大きなものは、寺によって異なるが、一般には4月8日の釈迦の誕生祝い、7月7日の七星祭り、冬至の三つ。韓国の寺でよく見られるように、多くの信徒が集い、食事をし、踊る、信者たちのコミュニケーションの場である。こうした、祭りの形式は日本の仏教にはあまり見られない。賽神もまた、韓国式のもので、賽神は、病気や事業の不振などで悩んでいる信者の依頼に応じて、寺の住職である巫者が、仲間の巫者とグループで行うもので、期間は依頼の内容や依頼者の経済的事情によって、一日ないし数時間のものから一週間以上にもおよぶ大がかりなものまでさまざまである。また、賽神の過程は、まず病い災いの原因とみられる祖霊を招き寄せ、歌舞、供物、供銭などでもてなして、これ以上人に災いをかけないように頼み、その願いを聞き入れてもらった上で、再び霊界に送り届けることによって終了する。そこには韓国で現在行われている本格的なものとは、かなり違う点もあり、その違いは、まず、巫者のグループ構成に僧侶が入ることである。僧侶は「スンニム(僧任)」と呼ばれ賽神のなかで、仏に経をあげ、あるいは霊を読経で供養する役目をもつ。わたしの調査した賽神では、鉦や太鼓(チャング)をたたいて、進行役を努めている。次に、女巫が「ポサル(菩薩)」と呼ばれることも違いの一つである。韓国にもポサルの呼称はあるが、日本の場合、巫女はすべて「ポサルニム」と呼ばれている。ポサルとは、要するに、仏教に通じた巫女といえば大過はない。
生駒の韓国・朝鮮寺の特色は、祭場がすべて川に沿い、修業の場として滝をもつことで、韓国の場合も、江陵の端午祭にみられるように、川は巫女たちの祭りの場となるが、生駒の場合は川と滝が韓国・朝鮮寺のほぼ必須の条件となっている。
なぜ生駒の地は、これほど多くの韓国・朝鮮寺を受け入れることができたのかは諸説あるが、まず古代からの伝統がある。古代の日本は朝鮮半島の国々から多くの文化を学び、この地には7世紀後半の白鳳時代に百済王の一族が建立された百済寺をはじめ多くの韓国・朝鮮系の寺があった。つぎに、山を神聖な場所、神の宿る場所であると考える信仰が、韓国・朝鮮と日本に共通している。江陵の端午祭では、大関嶺の本を伐って、それを依代として山の神を降ろすが、これは日本の祭りの原型を示している。生駒山やその周辺には、滝や清流のほかに大きな本や岩や神水があり、韓国の村や町に現在もみられるタンサン木やソナンダンや薬水のような信仰の基礎がそろっている。また、韓国・朝鮮寺の中枢である七星閣に祀られる北斗七星に対する信仰も、星田妙見宮をはじめとする「妙見信仰」として、生駒には古くから見られる。現在、韓国・朝鮮寺で巫者たちが行っている占いや民間医療も、たとえば石切神社周辺に見られるように、多くの易や占いの店や断食道場で行われてきた。賽神の中心となるシャーマンによる託宣も、修業をつんだ山岳仏教の僧によって行われている。なかでも真言宗の観音寺の場合は、住職が女性のシャーマンで、多くの信者を集めているが、その3割は在日韓国・朝鮮入である。また、金峯山修験本宗の不動寺の場合は、信者の実に9割までが在日韓国・朝鮮人の女性だ。
こうした伝統に加えて、もっとも重要であると思われるのは、生駒山の立地条件である。現在、日本には67万人ほどの韓国・朝鮮人が住んでいるが、そのうちの19万人ほどが大阪に在住しており、近隣の兵庫・京都を加えれば、生駒周辺には在日の人たちの4割以上が集中している。生駒山は、交通の便がよく、大阪の中心部からでも近鉄線を利用すれば30分ほどで着くことができる。信仰の原型を共有する山が、これほど近くにあれば、在日の人たち、ことに多くの心身の悩みや病を抱えていた女性たちが集まったのは当然のことともいえる。
大阪と韓国・朝鮮との関わりを歴史的に見れば、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたと記紀等に記述される伝承上の人物である王仁をはじめとして非常に深く、また機会をみて論述したいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?