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読んだ本と中島らも

北京在住のチベット人女性作家、ツェリン・オーセルの「殺 劫(シャ-チェ) チベットの文化大革命」とアメリカの文化人類学者M.C.ゴールドシュタインを主とするメンバーによる『チベットの文化大革命』――神懸かり尼僧の「造反有理」を読み終えたので、チベット関係の書籍はといりあえずキリのいいところで(まだ少し残っているが)区切りがついたので、本棚2段分の中島らも&わかぎゑふの本のコレクションを読み進めることにした。
「殺 劫(シャ-チェ) チベットの文化大革命」は、父親のツェリン・ドルジェ(澤仁多吉)氏の撮影した写真を基に、解説を書き加え、関係者へのインタビューもまじえて構成されていて、1966年から10年間、チベット高原を吹き荒れた文化大革命の嵐は、仏教王国チベットの伝統文化と信仰生活を完膚なきまでに叩き壊し、現在も続くチベット民族の抵抗は、この史上まれな暴挙が刻印した悲痛な記憶と底流でつながっている長らく秘められていた「赤いチベット」の真実が40余年ぶりに甦っている。
原著の題名「殺劫(シャーチエ)」の「劫」については、「奪う」、「脅す」、「長い時間」などの意味があり、梵語では「(劫簸)=kalpa」の略とされ、仏教語では「(永遠に回復できない)」や「(厄運、避けられない運命)」という熟語がある。また、中国語には「劫灰(チエホイ)」という言葉があり、大きな災難の名残を指している。例えば、唐詩の中に「劫灰飛尽古今平(飛び尽くして平らかなり)」(李賀「秦王飲酒」)という詩句があるが、全世界を焼き尽くした劫火の後に灰が飛び散り、何事もないかのように平和な日々が続いているといった意味である。 文革研究の空白を埋める――。 文革は共産党の一つの不都合な出来事であり、チベットはもう一つの不都合な問題である。したがって、チベット文革は二重のタブーとなり、なおさら触れてはならないものになっている。
オーセルの父親が撮影したチベット文革の写真は極めて特別な意義を持っていると言える。オーセルがこれらの写真をめぐって取り組んだ長期間の調査と執筆がようやく完了した。これにより、文革研究におけるチベットの部分も、もはや空白ではなくなった。周知のように、中国における言論統制は相変わらず厳しい。しかし、困難な環境にもめげず、ペンの力を信じて中国社会の様々な矛盾や不正と戦っている多くの知識人がいる。
『チベットの文化大革命』――神懸かり尼僧の「造反有理」は、1969年の前半、ラサ市のニェモ県で叛乱の首謀者が農牧民大衆を集め、国家財産の接収管理を企てて「反動文書」を貼り、6月13日にはバゴ区の解放軍を奇襲攻撃して指揮官と地方幹部を25人殺し、のちに1000人余の大衆に槍矛や銃、手榴弾などをもたせて県政府などを包囲し、軍・政府幹部と一般大衆64人を殺したというニェモ県事件の実態を記したものである。
ニェモ県事件は、「造総」派(ギェンロ派)が県の実権を奪取しようとしたところから生まれた。農牧民は政府の重税と信仰禁止に対して不満であり、間近に迫った人民公社化にも抵抗があったから、「造総」派はこれを利用し、農牧民を扇動した。さらに若い尼僧ティンレイ・チュードゥンがしばしば神憑り(チベットの英雄叙事詩に描かれる護仏王ケサルの伯母に当たるアニ・ゴンメイ・ギェモが憑依したとされる)するのを操作して「神の軍隊」を編成し、「黄色と青の服」すなわち解放軍と幹部を攻撃した。最終的にニェモ県「造総」派は県政府を制圧しようとして、解放軍部隊と衝突して敗れる。ティンレイ・チュードゥンは1970年に他の叛乱参加者とともに銃殺された。農牧民による蜂起のうらにシャーマンがいた事件は、チャムドのペンパルやナグチュのビルにもあったらしい。
さて、中島らもであるが、氏との出会いは本よりも先にテレビやラジオの番組であった。
まずは「どんぶり5656」。1983年から1984年3月30日までよみうりテレビで金曜深夜に放送されていたバラエティ番組で、ナンセンスなギャグとシュールなコントを主体とし、その後のよみうりテレビの深夜コントの基盤を作った番組である。中学生の時、たぶん高校受験の頃だったと思うが、深夜に何気なくテレビを見ようとしたらこの番組をやっており、はまってしまった。定点カメラで遥か彼方から西川のりおが「夜はまっすぐ」を連呼しながら真っ直ぐカメラに向かって走り、やがて去るだけのコーナーや「3万円か丸刈りか」のキャッチフレーズでタージンが街頭で道行く若い男性を呼び止め勝負を仕掛け、道路にチョークで3本線のあみだくじを書き、「当」(1本)を引けば賞金3万円が貰えるが、「刈」(2本)を引けば1万円が貰えるものの、その場でタージンにより電動バリカンで丸刈りにさせられてしまうコーナーが記憶に残っている。この番組で竹中直人や大竹まことを知る。制作ディレクターはよみうりテレビ退社後、1987年に日本初のミュージックビデオ(MV、PV)制作会社、タイレルコーポレーションを設立し、1990年に全米4位の大ヒットを記録したディー・ライト(Deee-Lite)のデビュー曲「Groove Is In the Heart」を手がけ、この作品で、アメリカMTVアワードで日本人初のノミネート(6部門)され、他に今井美樹やGLAY、Mr.Children、小泉今日子、小野リサ、サザンオールスターズ、観月ありさ、布袋寅泰、サラ・ヴォーンら、日本、海外アーティスト約200本のPVを手がける中野裕之が担当していた。
次に「なげやり倶楽部」。1985年10月19日から1986年1月25日まで読売テレビで放送されていたバラエティ番組で、土曜夕方の放送にもかかわらず、コントコーナーの劇中にはピーピーピーピーと放送禁止用語だらけの過激なネタや不条理な展開が多く見られ、中島らもと栗原景子が司会を担当した神戸ポートアイランド内の「レストランエキゾチックタウン」にゲストを招いて行っていたトークコーナー「天敵を探せ!」では、ゲストが苦手とする人物について聞き出し、その人物に対してどうしてやりたいのかを聞き出していて、第1回目のゲストは細野晴臣で、同じYMOのメンバーである坂本龍一と高橋幸宏が苦手だと言い、「電磁石で新曲のテープをメチャメチャにしてやりたい」と答えていた。
なかでも一番影響を受けたのは、エフエム大阪で1984年から1988年まで放送されていた80年代を代表するサブカルラジオ番組である「中島らもの月光通信」だろう。当時私は函館の高校の寮で暮らしており、この番組を聞けたのは夏休みや冬休み、春休みに奈良の実家に帰っていた時だけであるが、いつもカセットテープに録音して、函館に持ち帰って、サブカル仲間のあいだで聞いていた。猿飛サスケを基調としたラジオコントや、彼の初期の著書で語られている言わば「らも目線」を直に感じることができるトークのあいだに紹介されていた音楽が、当時はまっていたニューウェイヴ路線で、「バウハウス特集」などもあり、当時の感覚に非常にマッチしていた。
そんな中島らもの本であるが、チベット関係の本と比べて読むスピードがめちゃめちゃ早くなったので、どんどん紹介していこう。
「微笑家族」。あとがきの中で、「広告屋としての自分は、正直に言ってあまりモノにならなかった」「雑文や脚本、小説、落語などを書いて口を糊しているが(略)広告屋の看板が降ろせない。が、これは考えてみればどちらのフィールドの人にとっても気分の悪いことだろう」として、「コピーライターの看板を降ろす」と表明した。同文章では、「僕は広告を信じない。信じない人間に広告が作れるわけはない」ともしている。
「固いおとうふ」。「教養」とはつまるところ自分ひとりでも時間が潰せるということでこれからの時間「遊ぶ技術」をもっているかということでもあるということを教えられた1冊。この言葉は私の座右の銘になっている。山田風太郎「甲賀忍法帖」のこと、酒、クスリ、バンド・劇団のこと、自分のこと、人のことなど、日常のささやかなことから舞台の裏話まで、話を聞いている感覚で読み進められた。
「中島らものたまらん人々」。「遠目にみているぶんにはおもしろいんだけど、毎日身近にいられるとちょっとこれは『たまらん』」「うんこたれ」「酔っぱらい」「しぶけち」「いばりんぼ」などなど、周りにも必ずいる、おかしくてちょっと困った「たまらん人々」の生態を、中島らもがイラストと文で解説する。中島らもが営業マン兼コピーライター時代に出会ったたまらん人、妙な人、変な人、中島らも、気色悪い人、むかつく人、中島らもなどがネタにされていて、当初は某クリエイター向け雑誌に掲載されていたそうなのだが、その悪意ある連載はクリエイター業界に恐慌をもたらし、当時は関係者より「中島はクラウス・ノミ直伝のエイズ保菌者らしい」「西中島南方のマンションに女を囲っている」などの中傷が乱れ飛んだのだという。その後、「ぷがじゃ」という雑誌が受け継ぎ掲載誌を変えて連載が続くことになる。この本の中の台詞に、「どっちにしてもボチボチ働かなあかんなワシ…」なんてものがあるが、どうも連載していた時期は「ヘルハウス時代」(中島らも無職時代。宝塚にある中島家にジャンキーが集まってみんなでいいことしていたという。ヘルハウス時代の日々については「バンド・オブ・ザ・ナイト」にて小説化)と重なるようだ。
「じんかくのふいっち」。有限会社中島らも事務所社長・中島らもと社長秘書・わかぎゑふが、恋愛・読書・演劇……「文科系の中年」と「体育会系の女」のどこまでいっても「ふいっち」なポリシーは爆笑を誘いつつも永遠にすれ違う。真夏の出来事・答案用紙がうまらなかったら・金縛りにあう・ボランティア活動・キスしたことありますか?・筋を通すなど、与えられたお題目に、性格ふいっちなふたりのぼけとつっこみが乱れとぶ。わかぎゑふといえば、中島らもが火宅の人となった原因といわれていて、今や関西小劇場界の重鎮になっているが、両親にはユニークな逸話が多く、外国航路の船長であった明治生まれの60を過ぎてなお浮気を繰り返す粋な好色家で世間慣れした父親に幼い頃から「キスはあいさつだ」と騙されてキスされていたこと、母親が老いてなお居合抜きを修行して達人となってしまったことなどの珍談奇談が多数明かされている。相愛高等学校卒業後、演劇に関心を持ちつつアルバイトやOLなど職業を転々とするが、その過程で後に座長で作家となる、コピーライターの中島らもと知り合い、「中島らも事務所」の秘書になり、1986年に中島らもと劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」を旗揚げする。
「リリパット・アーミー」。リリパット・アーミーは元々笑殺軍団リリパット・アーミーと称していて、初代メンバーには、中島らも、若木え芙、キッチュ(松尾貴史)、ひさうちみちお、鮫肌文殊、ガンジー石原、木本雄一郎がいる。ある日、芝居を見た中島らもがあまりのつまらなさに怒り「こんなつまらないものを見せられるのならいっそ自分で芝居を始めよう」と自ら劇団の設立を計画。時を同じくして劇団の設立を計画しながらウェイトレスをしていた若木え芙(現・わかぎゑふ)を中島らもがスカウトし「上下関係を廃した劇団、今までに無い芝居をする」と宣言し、1986年6月に旗揚げ。中島号令の下、CFプランナー、見習いDJ、漫画家、パンクス、マハトマ・ガンディーに似ているだけの男と、およそ芝居とは程遠い人間達が興味本位で集まる。劇団名は、中島らもが小柄ですぐに手が出る若木のふるまいからガリバー旅行記に登場する小人の兵隊の名前を引用して名付けた。この本の中では、そんなリリパット・アーミーの「人体模型の夜」、「ベイビーさん あるいは笑う曲馬団について」、「X線の午後」の脚本が収録されている。
「永遠(とわ)も半ばを過ぎて」。中島らもの小説で、後に 「櫻の園」「12人の優しい日本人」の中原俊監督が「Lie Lie Lie」というタイトルで映画化する。キャストは鈴木保奈美、豊川悦司、佐藤浩市、中村梅雀[2代目]、麿赤兒など。中島らも原作の映画は、「お父さんのバックドロップ」、「寝ずの番」のDVDを持っていて、この作品も買おうと思ったのだが、調べるとVHSでしか販売されていなかった。このビデオは、大阪の日本橋にある「道楽」(今では1階でアナログレコード、2階でマニアックなDVDを売っている)中古ビデオ屋で、当時同棲していた宝塚の女の子(通称あーちゃん)が見つけたものだが、私が自分で買うと強く主張した。
ストーリーは、不眠症の電算写植オペレーター・波多野のところに高校時代の同級生・相川が突然現れる。そのまま勝手に居ついた彼は実はサギ師だった。相川は波多野が睡眠薬でラリった時に打った写植を、幽霊が書いた本として出版社に持ち込むが、編集者・宇井美咲は相川のウソを見破り、反対にこの話に自分も加えろと言い出し、幽霊が彼に乗りうつって書いた本だとして売り出す、というもの。角打ち(酒を購入し、その場ですぐ飲むことのできる酒販店である。個人経営の小規模な店で、酒販店の一角にカウンターテーブルを備え、そこで飲むことができる形態が多い。サービスはなく、酒代は酒屋の販売価格のみとなる)に一人で入っていって、にんにくのしそ漬けをあてに冷の日本酒を駆けつけ3杯飲み干す宇井美咲は、その後の私の理想の女性像となる。

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