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Heroes

起きたのは昨日の23時だった。昨日は来るはずの荷物がなかなか到着しなくて、モヤモヤしていたら夕方頃やっと届いた。届いたのはアレックス・コックスの「シド・アンド・ナンシー」とデヴィッド・ボウイの「Heroes」、ハービーハンコックの「V.S.O.P.- The Quintet」である。断酒9日目
さっそく「シド・アンド・ナンシー」を観ることにする。が、感想は思ったよりもつまらなかった。パンクの暴力性も感じられなかったし、同じドラッグを扱うならウルリッヒ・エーデル監督の1981年製作の西ドイツの実録手記に基づいた伝記映画「クリスチーネ・F ~麻薬と売春の日々~」の方が数倍観ごたえがある。原作は、「かなしみのクリスチアーネ」(原題: "Wir Kinder vom Bahnhof Zoo", 「われらツォー駅の子供たち」)。この実録手記は、1977年から1978年にかけて、クリスチーネ・F本人の口述をもとに、独シュテルン紙の編集者カイ・ヘルマンとホルスト・リークが構成した。私はこの映画でデヴィッド・ボウイの「Heroes」という曲にはまってしまった。素人を俳優としてキャスティングし、ベルリンの実在のロケーションで撮影された本作は、ドラッグと売春をとりまく社会環境についての考察でもある。クリスチーネ・Fが訪れるベルリンのコンサートシーンでデヴィッド・ボウイの協力を得ている。このシーンは、ボウイのベルリンでのライブ後に会場で撮影されたもので、ボウイ提供の写真を交えて構成された。また、ボウイの曲 「Heroes」 はこの映画のために作られたわけではないのだが、テーマ、内容においてこの映画と重なっている。

そのデヴィッド・ボウイの「Heroes」であるが、私は特にデヴィッド・ボウイのファンというわけでもなく、この曲が聴きたくてCDを買ったようなものである。現行のCDでは「Heroes」という邦題であるが、1977年10月14日にRCAよりリリースされたLP時代は「英雄夢語り」という邦題であった。表題曲の「Heroes」は、ボウイの代表曲の一つで、多くのアーティストにカバーされている。ロバート・フリップは、キング・クリムゾンの2000年のツアーで、この曲を取り上げたことがある。ボウイは、ベルリンの壁の傍で落ち合う恋人達の姿を見て、この曲の着想を得たと語っている。歌詞では、閉塞的な状況に置かれた男が、「Heroes」という言葉を儚い夢として用いており、その内容は英雄崇拝・英雄志向的なものではない。また、音楽的には当時のボウイが傾倒していたジャーマン・ロックの影響が見られ、実際表題曲はドイツのロック・バンド「ノイ!」の楽曲「Hero」からタイトルを拝借し、また、「V-2 Schneider」は同じくドイツのテクノポップグループであるクラフトワークのメンバー、フローリアン・シュナイダーにちなんで名付けられている。英音楽誌NMEは、本作から「Heroes」を「NMEが選ぶデヴィッド・ボウイの究極の名曲1〜40位」の1位に選んでいる。デヴィッド・ボウイの曲で好きなのは他には「Ziggy Stardust」くらいだろうか。ただ、この曲もバウハウスのカバーの方が好きだ。

最後のハービーハンコックの「V.S.O.P.- The Quintet」は文句なく良かった。まだ私の中にジャズファンの血が残っている証拠だろうか?昔はハービーハンコックのフュージョンの部分が好きだったが、今はモダンジャズのハービーハンコックの方が好きだ。V.S.O.P.はVery Special Onetime Performance の略である。1976年にハンコックが当時一緒に演奏していたメンバー(元マイルス・グループの黄金のクインテットと称されたときのウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムス、フレディ・ハバード、ロン・カーター)を集めてニューポート・ジャズ・フェスティバルにおける一度だけのライブ活動を目的としたグループ活動を行ったが、その演奏を録音したものがアルバムとして発売された。黄金のクインテットの演奏における即興演奏=フリー・インプロヴィゼーションも冴え渡っていた。

さて、読書の方の「中国 歴史偽造帝国」は、中国政府が、チベットは歴史的に中国の一部であったと主張する資料である「西藏歴史檔案薈粋」に対するチベット亡命政府の反論「A 60-POINT COMMENTARY on the Chinese Government Publication – A Collection of Historical Archives of Tibet」の和訳である。
「西藏歴史檔案薈粋」はもうこじつけとしか言い様がなく、歴史偽造と呼ばれても仕方のない資料なのに対して、「A 60-POINT COMMENTARY on the Chinese Government Publication – A Collection of Historical Archives of Tibet」はそれに理路整然と反論している。称号授与をもって支配したというのは無理がある。贈り物もそのとおり。中国の王朝(漢民族の王朝とは限らない)とチベットの関係が深かったのは元朝と清朝である。しかし、元はモンゴル族、清は満州族による征服王朝だ。しかも、それら王朝とチベットとの関係は、チュー・ユンと言って僧侶と施主の関係である。つまり、王朝の皇帝とその当時のチベットの宗教的指導者、元の時はサキャ派の管長、清の場合ならダライ・ラマである。ただ、この本で気になるところはチベット語のカタカナ表記である。ガデンとはガンデンか?ドレポンとはデプンか?ともに僧院の名前である。その他にも人名の表記がチベット語のローマ字表記というかローマ字転写をチベット語の発音の決まりを無視してそのまま訳しているところがある。例えば人名でジャンパルと書かれているが、これはジャンペルと表記すべきである。こういうちぐはぐさがこの本を覆っている。このあたりがこの本の読みにくさである。最後に、この本のチベット亡命政府の反論に100%同意するが、訳者まえがきに書かれてあった「日本人は(中略)他国や他者から突きつけられる「歴史認識」なる文言にただただ振り回されてはいないだろうか?」は別問題である。


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