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14.亡命、民主主義

1959年4月29日、インド北部の丘陵地ムスーリーで、以前ルンツェ・ゾンにおいて樹立された臨時政府に代わる新たなチベットの行政機構が再組織され、チベット亡命政府(中央チベット行政府 Central Tibetan Administration(CTA)が発足した。チベット内外のチベット人は、CTAを彼らの唯一の合法的政府としている。また世界各国の議会も次々と、CTAを正規の政府として認めるようになってきている。
インド独立後、ネルー首相は、1960年、ダラムサラをチベット亡命政府の拠点として用意した。カングラ谷の背後に迫る、雪を冠した垂直の峰々が連なるダウラダール山脈の尾根にとまった形のダラムサラは、1860年代の初頭、英国人によってジュルンドゥル地区の夏の都として建設された。この辺りでは最も高いムン・ピークの肩に兵営が設けられ、さらには平原を見下ろす狭い尾根にマクロード・ガンジという小さな町が建設された。
1960年4月29日、ダライ・ラマ法王は1年余り過ごしたムスーリーを離れた。1905年の大地震と1947年のインド独立で英国人が去った後、ただ一人残ったN・N・ノウロジーの指示のもと、チベット人の宿泊施設として4つのバンガローが修繕されていた。ダライ・ラマ法王邸として選ばれたのは、以前は地方長官の公邸で「スワルグ・アシュラム(天国の棲家)」と改名されたハイクロフト・ハウスである。この邸宅はマクロード・ガンジより登ること400m山腹の西端の狭い平地を占めていた。通風口のような天窓が唯一の明かりとりの、洞窟まがいの寝室。正面の屋根付きベランダには2つの巨大な窓が突出し、庭の狭い通路を見渡すことができる。その彼方では石壁が6m落ち込み以前はテニスコートとして用いられていたが、間もなく謁見場として用いられるようになった。
1960年5月、亡命政府はダラムサラのカンチェン・キションと呼ばれる地区に拠点を移した。インドへの亡命のすぐ後、1960年、将来のチベットのための広範なビジョンを持っていたダライ·ラマ法王は、亡命政府の民主的な形を導入するための彼の願望を表明した。
1961年、ダライ・ラマ14世は、独立後のチベット国家の体制の概要を示すとともに、亡命チベット人社会を統治するためにチベット憲法草案(自由チベット憲法)を公布した。これは、1961年から1963年まで、チベット亡命政府の規範としての役割を果たした。
「ウー・ツァン」、「カム」、「アムド」の3つの地方の人々は興奮と全身全霊を込めてこれを迎えた。ただ、ダライ・ラマ法王自身が提案した、チベット人が望むならばダライ・ラマ法王の権力を剥奪することができる、という条文だけは、亡命チベット人社会の受け入れるところとはならなかった。それはまた、ダライ·ラマ法王の指導の下で初めて一緒に団結し、働く機会を、3つの地方の人々のために提供した。
法王の指導のもと、3つの地方の人々は、チベット人たちの組織の1960年から1963年の最初の議会でテホルのサンドゥ・ドンダップ・ニャンダク、ンガバのタオポン・リンチェン・ツェリン、そしてド・トゥー(カム)の代表としてリタンのジャンザ・チョザクを選出した。法王の願いに沿って、各地方出身の女性代表のために、チャムドのヤプサン・ デチェン・ドルマが、第2回議会において最初のカンパの女性の代表として選出された。ジャンザ・ チョザクは、文部省のポートフォリオを持って、1963年に第2次内閣における最初のカンパのカロン(大臣)となった。

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