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タシルンポ僧院とパンチェン・ラマ

ニセラ山の麓に広がる巨大僧院の門前は多くのチベット人巡礼者達で賑わっていた。
タシルンポ僧院はシガツェの中心的存在であり、チベット仏教改革派であるゲルク派の6大寺の一つとして知られている(他はラサ郊外のガンデン、デプン、セラのラサ3大寺と青海省青寧郊外のクンブム(タール寺)、甘粛省夏河県のラブラン・タシキルである)。創建は1447年、ゲルク派を起こしたツォンカパの弟子で、後にダライ・ラマ1世として諡号されるゲンドゥン・トゥプによる。ダライ・ラマ5世(ンガワン・ロサン・ギャツォ)の時代、法王の教師を務めたタシルンポ僧院の院長ケートゥプ・ジェないしロサン・チョーキ・ゲルツェンは阿弥陀如来(無量光仏)の化身とされてパンチェン・ラマと贈り名され、ダライ・ラマに次ぐチベット第2の転生ラマ(トゥルク)として受け継がれていく。以来、ラサを中心とする「ウー」地方に対する「ツァン」地方の中心として隆盛を誇り、パンチェン・ラマ1世の転生者が代々従寺する僧院になった。
1959年3月のチベット民族蜂起の際、ダライ・ラマ14世がインドへ亡命する中、パンチェン・ラマ10世(チューキ・ギャルツェン)はチベット本土に踏み留まり、北京で開催された第2回全国人民代表大会に出席して常務委員会副委員長に祭り上げられた。亡命したダライ・ラマに代わり、チベットのトップとして中華人民共和国の要職(全く形骸的な地位であり、実際にチベットで実権を持っていたのはギャミ(中国人)の中国共産党チベット自治区第一書記である)に就いたパンチェン・ラマが院長を務める僧院だけあって、1959年の民族蜂起鎮圧に続いた民主改革や文化大革命の際にも、チベットのほとんどの僧院が破壊されるなか、タシルンポ僧院だけは保護され、手を触れられることはなかった。破壊を免れた唯一といってもよい僧院である。
しかし、パンチェン・ラマ10世は中国の傀儡だったわけではない。文革がはじまる以前、彼は1962年に中国政府(周恩来首相)に提出した「7万語の請願書(チベットおよびその他のチベット族地区の大衆の苦しみならびに今後の工作に関する建議)」の中で、悪化する一方のチベットの状況を訴えた。その内容は「1.反乱の平定について2.民主改革について 3.農牧業の生産および大衆の生活について 4.統一戦線について 5.民主集中制について 6.プロレタリア階級独裁について 7.宗教問題について 8.民主工作の問題について」である。概括すると、平和解放以来、チベットで生じた巨大な変化を述べ、反乱(民族蜂起)平定後、民主改革のなかで発生した欠点と誤りを指摘し、青海・甘粛・四川・雲南の各チベット区での反乱平定・改革の状況および存在する問題を取上げ、宗教自由の政策を貫徹・実施し、宗教工作を改善するための若干の提案を行ない、今後の工作に対する希望と要求を訴えている。パンチェン・ラマ10世はこの「請願書」のゆえに、「反党、反人民、反社会主義」のレッテルをはられ、1966年には紅衛兵によって連行され、度重なるタムジン(批判集会)において批判に晒され、罵倒されて数々の辱めを受けた。そして解放軍によって9年8ヶ月もの間監禁され、その大半を独房で過ごさねばならなかった。獄中生活から解放されたのは1977年である。1979年には政治協商会議副主席になり、1980年には全国人民代表大会常務委員会副委員長に復帰した。1987年3月28日、パンチェン・ラマは北京で開かれた全国人民代表大会「チベット自治区」常務委員会における報告のなかで再度チベットの現状を訴えている。
さらに、1989年1月、チベットを訪れたとき、パンチェン・ラマは中国のチベット政策を痛烈に非難した。そして、その僅か数日後、彼は不可解な死に方をする。その悲劇的最後の真相と彼の化身探しを巡る論議は今も謎に包まれたままである。同年3月にはパンチェン・ラマの発言をきっかけにラサで独立要求の大規模な騒乱が発生し、戒厳令が敷かれた。当時の中国共産党チベット自治区第一書記は現在の中国国家主席胡錦涛である。その後、1995年、ダライ・ラマ14世はパンチェン・ラマの転生化身として当時6歳だったゲンドゥン・チューキ・ニマを認定した。それに対して中国政府は別のギャンツ・ノルブという6歳の少年をパンチェン・ラマ11世として擁立し、その論争は今もなお続いている。これがパンチェン・ラマ問題である。
ゲンドゥン・チューキ・ニマは家族と共に失踪し、おそらく中国のどこかに監禁されていると思われる。中国当局は少年と両親の拘束を1996年5月28日、国連こどもの権利委員会が行った綿密な長期調査への返答という形で認めた。彼は世界最年少の政治犯として世界のチベット支援団体や人権擁護団体から釈放を求められている。

正門から一歩入ると、そこには野良犬が多数たむろしていた。その光景にはかなり動揺させられた。「狂犬病」という言葉が頭の中を駆け巡る。現在でも、日本の外務省が出している海外安全情報HPの中国スポット情報で狂犬病が取上げられている。
中国衛生部が発表した「2004年の中国における法定伝染病の発症者、死亡者数」によると、死亡者の第1位は狂犬病、第2位は肺結核、第3位は肝炎となっており、このうち狂犬病による死亡者は2,651人で、法定伝染病死亡者の37%を占めている。チベットの衛生状態はおそらく中国最悪であろう。野良犬はすべて狂犬病に感染されているに違いない。噛まれでもしたら一発だ。発病したら致死率は100%である。
タシルンポ僧院の野良犬は恐れていたほど獰猛ではなく、日向でのんびり寝転がっているだけだった。放牧地帯で羊の管理をしている犬は侵入者を見ると見境なく襲いかかってくる。道路を通り過ぎる車にさえ飛びかかってくるくらいである。ところがここの犬達は意外にもおとなしかった。おそらく仏教の慈悲の教えに従って保護されているのだろう。その横を恐る恐る通り抜け、まずはトイレを探した。膀胱は「緊急事態」を告げている。
ガイドに案内されて入ったトイレは、そこがトイレかと思うような壮絶なところであった。入り口にはトイレの表示はない。男女の区別もなく、中は4畳半くらいの大きさの藁が敷かれている部屋で、もちろん便器など存在しない。それどころか的にする穴すらないのである。各自適当なところで思い思いに用をたしている様子である。薄暗い部屋の中を覗って、他人のお土産がないところを選んで用をたす。「小」だったからまだましだが、「大」だったらどうしたものか?未だにあそこが果してトイレだったのかどうか疑問が残る。
広大な境内には多数の僧堂が林立していた。往時は4000人の僧侶が存在したが、いまは600人だという。トイレを後にした我々がまず入ったのは、タシルンポで一番目立つチャムカン・チェンモ(弥勒仏殿)である。ここには奈良の大仏を凌駕する世界最大の弥勒仏坐像(高さ26.8m)がある。1914年に造られたもので、黄金209kg、銅125tのほか、ダイヤモンド、真珠、琥珀、珊瑚、トルコ石など1400種の宝石が用いられている。その姿は壮観そのものだった。チベット人巡礼者がひっきりなしに訪れてバターランプを燈し、カタを奉げている。
続いてクンドゥン・ラカンに入る。パンチェン・ラマ4世の荘厳な霊塔があり、そしてその左側には歴代パンチェン・ラマの遺骸が収められた霊塔がならび、中国が10億円以上を注ぎ込んだと宣伝しているパンチェン・ラマ10世の霊塔もある。霊塔のまわりをチベット人に続いて時計回りにまわって最後に大集会堂に入った。ここでは多数(往時に比べると比較にならないが・・・)の僧侶が勤行をしていた。他の大僧院がもはや観光名所に成り下がってひっそりと管理されている中、ここだけは生のチベット仏教がまだ生きている。チベットに来て初めてまともに仏教修行がなされている場所であった。これもパンチェン・ラマの存在がものを言うのか?しかし、座主の玉座は空席である。
一通りタシルンポ僧院を見学して車に戻ってみると、多数のストリートチルドレンに付きまとわれた。小銭をあげてもよかったが、一人にやると他の子供にもやらなければならない。彼らはしつこく私の袖を引っ張り、車の中にまで入ってこようとした。ガイドは無理やり彼らを引き剥がし、車を強引に出発させた。いまでは沿海部は急速に経済発展している中国でも、内陸部、とくに少数民族自治区においてはまだまだ貧困が支配している証拠である。政府は西部大開発計画で国内の経済格差を亡くす政策を進めているが、果たしてそれが功をなすのか?疑問である。チベット文化も抹殺されようとしている。
シガツェを後にすると、我々は昨日通ってきた山岳地帯の過酷な道を通ってラサへと帰った。ラサ到着は午後の5時。しかしまだ日は高い。

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