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アフロビート

90年代半ば、私は友人のKとジョー・クラウゼルのプレイで踊り明かすために西麻布のYELLOWに行っていた。ちょうど3時過ぎのピークの時間に、それまでのディープハウスやガラージを毛色の違うピッチ(BBM)が速い曲がプレイされた。私は初耳だったが、Kは知っていて、黒人開放の曲だという。それが私とフェラ・クティ及びアフィロビートの出会いである。曲中に、何度も「Zombie」と歌われていたのを思えていた私は、後日、渋谷の「ダンス・ミュージック・レコード」に行って、ガラージ・クラシックス・コーナーに「Zombie」というレコードを発見して小躍りした。

それ以降、私はフェラ・クティのCDを集め始めた。
ちなみに、「Zombie」は、軍隊の襲撃を受けた体験から生まれたアルバムで、軍隊をコケにしていて、アフリカ諸国でメガヒットした。
フェラ・クティはナイジェリア出身のミュージシャン、黒人解放運動家である。サックス、ピアノ、ヴォーカルと多彩な技術を誇るマルチミュージシャンで、アフロビートの創始者、「Black President(黒い大統領)」と呼ばれる。1958年、ロンドンのトリニティ音楽大学に入学し、単身留学し、在学中にトランペットを習得し、友人たちと「フェラ・アンド・クーラ・ロビトス」(Fela Ransome-Kuti & the Koola Lobitos) を結成する。なおこの時期に黒人差別を体感したことが、彼に生涯にわたる深い影響を及ぼすことになる。当時は流行のハイライフ・ジャズを演奏しており、バンドは人気を獲得するが金銭面での不調は続く。1968年、アメリカツアーに向けた記者会見上で、自身の音楽を「アフロビート」と定義づけた。1969年、アメリカにツアーに旅立つ。しかし同国においてフェラのようなアフリカ音楽は、聴衆の関心を集めるものではなかった。マネジメントにも恵まれず、さらに彼らは労働許可証を保持していなかったためアメリカ移民局に睨まれ、メンバーの一部が離脱するなど辛酸を舐めることになる。さらにここでも黒人差別に直面し、マルコムXやブラックパンサー党などについて学び始める。これにより彼の音楽性は輸入音楽の物真似からアフリカ土着音楽への転換すると同時に、政治的メッセージの重視へと変貌を遂げる。
1970年、ナイジェリアへ帰国すると、アフロ・スポットと名付けた会場を拠点に活動し、バンド名を「'フェラ・アンド・ナイジェリア70」'、次いで「フェラ・アンド・アフリカ70」(Fela Ransome-Kuti and the Africa '70)に改名、この頃に上記の音楽性は確立される。これが「アフロビート」の完成である。聴衆の獲得に成功し、アフロ・スポットを「アフリカ・シュライン」に改名し、以後同会場はフェラの活動本拠地となり、聖地として現在も名高い。なおシュラインは「聖堂」を意味する。政治的メッセージはより強化され、黒人の解放に加えて「キリスト教、イスラム教の破棄」、パン・アフリカニズムの実現をも訴えるようになる。またそれによる富裕層による圧迫も、時とともに激しさを増すようになる。70年代のフェラ・クティの曲で好きなものは、他には「Upside Down」と「Water No Get Enemy」がある。

1981年、音楽活動の傍ら講演会やシンポジウムに精力的に参加するようになり、大学生などから熱烈な支持を受ける。またこの年以降、バンド名を「フェラ・アンド・エジプト80」(Fela Anikulapo Kuti and the Egypt '80) に改名する。なおこの年日本版アルバムが初めて発売された。1984年、為替管理違反でついに懲役10年の実刑判決を受ける。しかし刑を宣告した裁判官本人が、圧力による不当な判決である旨を公表し、国際的に支援運動が展開され1986年には釈放される。1980年代には音楽にエレクトリックサウンドが導入されるようになるが、フェラの体調不良やモチベーションの低下もあり活動は停滞し、1997年8月2日、エイズによる合併症で死去。フェラが創始者であったアフロビートは、実子のフェミ・クティやフェミとは腹違いのシェウン・クティ、さらにトニー・アレンらにより受け継がれている。
息子のフェミ・クティであるが、初めから知っていたわけではない。友人と大阪・梅田のマルビルにあるタワーレコードに行ったとき、「Africa Shrine」というCDを見つけて、
「今年最大のアフロビート・アルバムが到着!フェミ・クティ待望の最新作は、なんと初となるオフィシャル・ライヴ・アルバム!ナイジェリア最深部あるフェラ・クティゆかりのライヴハウス、シュラインで開催された怒涛のライヴを余すところ無く収めた1枚!熱狂のルツボと化した会場が、ステージが、途方もない熱量を放つモンスター級のライヴ・アルバム。延々と続くビートの中、いったいこれほど音だけで黒さを感じさせる作品が他にあるだろうか?!全ブラック・ミュージック・ファンに捧げる最高傑作!」
という解説に惹かれて聴いたところ、久しぶりに鳥肌が立った。そこでフェミ・クティがフェラ・クティの息子だと知ったのである。

「Africa Shrine」を聴いて以来、フェミ・クティのCDを買い集めたのだが、「Beng Beng Beng」という曲のほか、いくつかの曲をディープ系ハウスDJがプレイしているのを知って一気にファンになってしまった。


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