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27.英語原書講読

大学3年生の時に受講した英語原書講読は、フランス語原書講読の授業と違って、決まったテキストはなく、その日によって使う教材がまちまちで、当てられた学生が読んで訳すという形で授業が進められていった。だからテストというものもなく、成績はレポートの提出で決められた。レポートは自分が選んだ英語の原書の10ページくらいを翻訳すればよく、私が選んだのはタイトルは忘れてしまったがドイツの近代建築について書かれた洋書のうち、とくに30年代、ナチスが政権を握り、バウハウスが閉校を余儀なくされた後のナチス建築・ファシズム建築が現れた時代の文章である。
なぜ、私がそれに興味を持ったかというと、学生時代に読んだ八束はじめの「近代建築のアポリア―転向建築論序説」の補章で「モダニズムとファシズム―建築の30年代」という文章が有り、その中で、ジュゼッペ・テラーニの「カサ・デル・ファッショ」や「ヴィッラ・ビアンカ」など、ムッソリーニ政権の基でのイタリアの新しいファシズム体制のための建築とともにヒトラーのお気に入りの建築家であるアルベルト・シュペーアが紹介されていて、何故かわからないが興味を持ってしまったのである。同じ文章の中で、日本の帝冠様式も紹介されていて、それが私が2年生の時の近代建築史のレポートで取り上げるきっかけになったのだが、それはどちらかと言うとイデオロギーのデザインというよりも時代のデザインの流行でしかなかったのに対して、アルベルト・シュペーアをはじめとするナチスの建築は、明らかにナチズムというイデオロギーを反映したものである。
マンフレード・タフーリの「建築のテオリアーあるいは史的空間の回復」を読めば、マルクス主義的な視点からの建築批評は可能であっても、マルクス主義の思想を表現した建築というようなものは存在しないということであるが、ナチス時代の建築は、ヒトラーの個人的趣味という側面はあったものの、ナチズムという思想を表現した建築であったと思う。私は近代建築、或いはモダニズムのメインストリームであるバウハウスも好きであるが、どうもオルタナティヴ(傍流)とも言える帝冠様式やナチス建築にも興味を持ってしまうきらいがあるようである。
では、アルベルト・シュペーアを中心にナチス建築を見ていくことにしよう。
ナチス建築は、1933年から1945年の秋にかけて第3帝国によって推進された建築であり、以下の3つの形態によって特徴づけられる。
1.(アルベルト・シュペーアの設計に代表される)解体された新古典主義建築。
2.伝統的な田舎の建築、特にアルプス地方からインスピレーションを得た現地のスタイル。
3.大規模なインフラプロジェクトや工業団地や軍事施設に及ぶような実用的なスタイル。
とくに、1に関しては、この建築運動の最高の業績で、第二次世界大戦でのナチスの勝利の後、ドイツの首都ベルリンに計画された世界首都ゲルマニアであった。このプロジェクトを指揮したシュペーアが、新都市計画の大半を作成した。1937年から1943年の間に「世界首都」のわずか一部のみが建設された。計画の主要な特徴は、ベルリンの戦勝記念塔を中心とした東西の軸を基礎とした、偉大な新古典派都市の創設であった。国会議事堂やGroße Halle(未着工)などの主要なナチス建物が、この広い通りに隣接していた。計画されていた建設区域では、多数の歴史的建造物が破壊された。しかし、第三帝国の敗北により、着工されなかった。オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督の2004年公開のドイツ、オーストリア、イタリア共同制作による戦争映画「ヒトラー 〜最期の12日間〜」の中で、ヒトラーが防空壕の中でも世界首都ゲルマニアの模型にとりつかれていたシーンが描かれている。では、アルベルト・シュペーアとは何者か?
アルベルト・シュペーアは、カールスルーエ工科大学に進学した後にミュンヘン工科大学、ベルリン工科大学に転学し、ベルリンでは有名な建築家で機能主義者であったハインリヒ・テセノウの指導の下で学んだ。テセノウは決してナチズムに賛同しなかったが、シュペーアは1930年12月のビアホールでのナチスの党集会に参加したおり、ヒトラーの説く、共産主義の脅威やヴェルサイユ条約の破棄といった問題への解決方法に影響されたこともさることながら、何よりヒトラーという人物に強い影響を受けたと述べている。それを機に1931年国家社会主義ドイツ労働者党に入党、党内で数少ない自家用車の所有者として国家社会主義自動車軍団(NSKK)に入団した。
ヒトラーの首相就任後、新古典主義建築家のパウル・トローストが行なっていた総統官邸の改修を手伝うよう命じられ、1934年にトローストが死去すると、党主任建築家の地位を引き継ぎ、主任建築家となってから、レニ・リーフェンシュタールの映画「意志の勝利」の舞台となった有名なニュルンベルクの党大会会場の設計を行った。
1937年、シュペーアは帝国首都建設総監に任ぜられ、大ドイツの首都にふさわしくベルリンを改造するメガロマニアックな首都改造計画「ゲルマニア計画」の統括責任者となった。ベルリン市街は、ブランデンブルク門や国会議事堂の西寄りに建設される、長さ 5km の巨大な南北軸の大通りに沿って再編成され、巨大な新古典様式の政府機関ビルや大企業本社ビルが通りの両側に並べられ、北端には「国民ホール」と呼ばれる大会堂が建つことになっていた。これはローマのサン・ピエトロ大聖堂の大ドームに基づく巨大ドーム建築であったが、高さ 200m 以上、直径 300m と、サン・ピエトロ大聖堂の17倍大きなドームが予定されていた。南北軸の南端には凱旋門が計画されたが、これもパリのエトワール凱旋門を基にしながらもさらに巨大なもので、高さは 120m となるはずだった。南北軸の大通りには、南側と北側に巨大な鉄道駅、「南駅」、「北駅」を設ける計画だった。また大通りはたくさんの車線を設けるために幅広く確保して、凱旋門より南へも 40km に渡り伸びる予定だった。これらの大建築の設計の一部には、ヒトラーが若いころに構想してデッサンに残した建築デザインが使用された。シュペーアの記述(シュパンダウ刑務所で書かれた回顧録)によれば、計画がすべて完成すれば8万軒の建物が立ち退きのために壊されると見られていた。南北軸は実現しなかったものの、ブランデンブルク門を基点とする東西軸(Ost-West-Achse)は着工しており、ティーアガルテンに街灯などが残存している。現在ティーアガルテンに建っている戦勝記念塔も、この計画のために国会議事堂前から移設されたものである。
1942年に軍需大臣のフリッツ・トートが飛行機事故死すると、シュペーアは後任の軍需相(正確には、1942 - 1943年兵器・弾薬大臣、1943 - 1945年軍需・軍事生産大臣)に就任する。はじめは門外漢であると固辞していたが、ヒトラーの熱心な要請に押される形で就任に至った。ヒトラーが若い彼を大抜擢したのは彼が過去の建築プロジェクトでみせた緻密な計画と組織経営力を兼ね備えた優秀なテクノクラートであったからと思われるが、シュペーア本人はヒトラーは指導的地位を素人で固める事を好み、ヒャルマル・シャハトのような専門家閣僚は好まなかったのが原因だろうと分析している。
軍需生産を強制収容所で行えるようにするヒムラーの要請に基づき、軍需完成品の生産を、親衛隊に委託すると、シュペーアは一部の工場における労働者を強制収容所の囚人とユダヤ人のみとさせる提案を行っている。これは軍需生産を握ろうとする親衛隊に対し、囚人の配置権を軍需省が掌握しようとする意図によるものと見られている。また、5万人のユダヤ人労働者を配置する意図を示したシュペーアに対し、親衛隊経済管理本部オズヴァルト・ポールはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の囚人で確保すると述べた。これによりシュペーアは13万人以上の収容を可能とする収容所拡大計画を承認した。
ソ連軍によるベルリン陥落後は、ベルリンを脱出し、カール・デーニッツ海軍元帥の元に向かい、ヒトラー自殺後に後継指名されたデーニッツの政府で閣僚となった。ドイツ降伏後、シュペーアはハンブルクのラジオ局から演説を行い、「今は敗戦を悲しむよりも、復興のために働くべきだ」と訴えた。連合軍は政府の存在を認めず、5月23日にシュペーアは他の閣僚たちとともに逮捕され、ゲーリングが収容されていたルクセンブルクのモンドルフのパレス・ホテルに送られ、8月中旬までそこで過ごした。その後、他の被告らとともにニュルンベルク裁判にかけるためにニュルンベルク刑務所へと移された。
ニュルンベルク裁判では、第一訴因「侵略戦争の共同謀議」、第二訴因「平和に対する罪」、第三訴因「戦争犯罪」、第四訴因「人道に対する罪」において起訴されたが、死刑を回避するには、ドイツの侵略・残虐行為や自分の責任を認めて懺悔し、それによってソ連を除く西側連合国の共感を得る必要があると考えていた。刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート博士は、シュペーアの懺悔の態度に好感を持ち、「シュペーアは裁判が始まる前からナチ党政権を支持した罪を認めており、彼の『私はこの裁判で自分の命を救おうとは思っていない』という言葉は本心から出たもののようである」と書いている。この立場は検察側に頑強に抵抗したヘルマン・ゲーリングと対極的であったため、彼は注目を集める被告となった。判決では、個別に言い渡される量刑判決でシュペーアは懲役20年を言い渡された。死刑は免れたが、刑務所から出る頃にはすっかり老人になっている20年禁固刑というのは勝利と言えるのかシュペーアは疑問に感じざるを得なかったという。無罪になったパーペンやシャハトのように嘘と隠ぺいで自分の罪を否認する態度を取っていたほうがよい結果になっていたのではと感じたという。
1966年に釈放されると、国内外のマスメディアの前に姿を現し、1970年には誕生からニュルンベルク裁判までの半生を記録した回顧録「第三帝国の内幕」を出版し、ベストセラーとなった。この本は多くのスタッフが関与し、2年間の編集期間を経て作成されたものであり、ナチ研究者であったヨアヒム・フェストも報酬を受け取った一人である。この本の内容は非常に鮮明に、自分とヒトラーとの出会いからニュルンベルク裁判までがこと細かに書かれている。ヒトラーに熱狂する人々や党内部の抗争、終戦間近になってからのゲーリングの異様な行動、ボルマンの心情、ヒムラーの言動、ライの異様なまでの野心、正気を失っていくヒトラーとそれを共に滅びていくゲッベルスなど、生々しくも忠実に描写されている。また、ニュルンベルク裁判でのデーニッツやヘス等被告人の様子も非常に詳しく描かれている。同書は数少ない、ヒトラーの側近が見たナチスの内幕を描いた貴重な証言として知られていた。しかし、ホロコーストを始めとするナチス犯罪については殆ど触れられておらず、軍需大臣時代の『装甲の奇跡』についても、技術革新や合理化について述べるばかりで、それを支えた多くの強制労働者については触れられていないものだった。没後の研究ではニュルンベルク裁判の証言を含め、彼の言動の信憑性に疑問が持たれている。

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