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13.歴史学と日本文化史

教養科目や美術理論科目の学科の講義では、建築科の先生方の建築学概論や基礎デザイン理論、建築計画第1、また、図面を描く基本となる図学などはあまり楽しい講義ではなく成績も、建築計画第1と建築工法以外はパッとしなかったが、楽しくて、知的刺激を満足させてくれる講義もあった。そのひとつが歴史学(1年の時)と日本文化史(2年の時)である。私が卒業してから毛綱毅曠というスター建築家が建築科の教授になったり、客員教授で伊東豊雄や藤江和子が就任したり、学生時代に夢中で読んだ「光のドラマトゥルギー 20世紀の建築」や「建築のアポカリプス もう一つの20世紀精神史」の著者である飯島洋一や、「シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術」の著者の椹木野衣が美術学部の教授陣に加わっていたり、また、情報デザイン学科メディア芸術コースの教授(2015年1月2日に癌のため死去)で、飴屋法水が主宰する劇団「東京グランギニョル」の最終公演「ワルプルギス」で舞台装置を担当し、飯倉アトランティックビルで「BAD ART FOR BAD PEOPLE」、東京の作家スタジオで「Brain Technology」など、神経や脳を思わせるケーブルやコンピュータの電子基板を使ったオブジェやインスタレーションを発表。その後、ロバート・ロンゴによるキュレーション展への参加を経て、戦争や情報といった生体を超えるネットワークへの関心を募らせ、それまでのモチーフであったジャンクと合体させたりしていた三上晴子がいて、今の時代はまた違うのかもしれない。
歴史学と日本文化史は、2つとも、「中世寺院法の基礎的研究 -寺院の多数決制と寺院法式」で早大文学博士、後に多摩美術大学教授、美術学部長、2007年学長になられた清田義英先生が担当されていて、講義そのものよりも、課外授業が楽しかった。
たぶん、1年の時だったか、鎌倉に住んでおられたので、鎌倉を案内してもらった。当時、先生は早稲田でも教えられていたので、参加者は早稲田の学生がほとんどで、多摩美術大学の学生で参加したのは私一人だった。材木座海岸や鶴丘八幡宮を始め、地元の人じゃないと知らないスポットなどを案内してもらったが、盛り上がったのは最後の鎌倉駅前の中華屋で飲んだことだろうか。この時、早稲田の理工の建築学科の女子学生と知り合って、後に恵比寿のギャラリーのオープニングパーティーで、多摩美術大学の油絵科の卒業制作展があった時に先生に誘われて参加したとき、彼女も来ていて、再会を祝した。その時、油絵科の4年生が、私にちゃんと進級できたかを聞いたときに、彼女は驚いていたのを思い出す。と言うのも、多摩美術大学の建築科は、実技課題の設計製図を落とすと進級できないのだ。まだ、1年から2年に上がるのは簡単だが、2年から3年になる時に、学生の半分が留年する厳しい学科なのである。ちなみに、1年生で60人が入学するが、4年のストレートで卒業できるのは15~20人である。おかげで、普通の大学生のようにサークルやバイトで明け暮れることなく、2年生以降は、自宅で徹夜で課題製作しなければならず、バイトどころではなかった。まあ、それでも、ある程度はバイトもできたが・・・
さて、恵比寿のギャラリーのオープニングパーティーであるが、一番の思い出は堀川えい子さんという日本画家に会ったことだろうか。彼女は学部は武蔵野美術短期大学油絵学科だったが、多摩美術大学大学院日本画科で加山又造という日本画の大家に師事していて、その時に清田義英先生と出会ったらしい。そのつながりで恵比寿のギャラリーのオープニングパーティーに招待されていた。1954年生まれなので私より14歳年上だ。当時、私は20~21歳だったので、堀川さんは34~35歳の色気ムンムンのお姉さんだった。そのお姉さんがパーティーで飲んでいる私を見て手招きするのである。隣には多摩美の大学院時代の女友達も座っていた。私がフラフラと堀川さんの隣に座ると質問攻撃が始まった。何を聞かれたのか忘れてしまったが、私はすっかり堀川さんの大人の色気にやられてしまっていた。
2次会は大勢で恵比寿の駅前の居酒屋に行って、その時は、私と堀川さんは離れたところに座っていたのだが、お開きの時に誘われて、私と堀川さんと、その女友達と、一緒に清田義英先生の講義を受けていた別の科の男子学生の4人で、タクシーを飛ばして四ッ谷かどこかの、堀川さんの女友達の旦那の元力士がやっているちゃんこ屋へ行くことになった。そこでもいい具合に飲んで、帰りは堀川さんの自宅が町田の方だったので、私と堀川さんともうひとりの男子学生の3人でタクシーで帰ることになった。なにせ、貧乏学生だったので、ちゃんこ屋も帰りのタクシー代もおごってもらう形になった。堀川さんは町田で先に降りて、タクシー代の領収書を取っておいて欲しいとのことだったので、その領収書を後日、渡すのをきっかけに、私は何度か堀川さんにご馳走になったり、一緒に飲みに行くような付き合いが始まった。
大抵は新宿で、たまに町田でご飯を食べたりお酒を飲んだりした。最初は新宿の伊勢丹あたりで待ち合わせして、けっこう豪華な中華を食べたあと、腕を組みながらカラオケパブのような店で飲み直して、その時にも体を寄せ合ったりして、なんとなく、彼氏&彼女というか、お金持ちのお姉さんとその「若い燕」みたいな関係になって、男女の中に発展することはなかったが、一度、私が通ってた六本木の英会話スクールの友人がバイトしていた新宿のバーに飲みに行ったとき、そのバーの上階がホテルだったので、その友人に部屋をとっておこうか?と誘われた時には、もしその誘いに乗っていたら、もしかして一線を超えていたかもわからない。女っ気の全くなかった私の学生時代の貴重な色っぽい思い出である。私の女性の好み、シスコンとまでは言わないけれど、年上の色っぽいお姉さんが好きになるのはこの頃からかもしれない。さすがに、この年になると年上はないが、若いギャルよりも30代、40代のお姉さんが好きだ。
この記事を書くにあたって、堀川さんの近況を調べたら、2000年に入ってからは、
2001年 日本橋三越本店、新潟三越、大丸心斎橋、個展
2004年 大丸個展
2006年 日本橋三越個展
と、百貨店で個展を開いたり、いろんな画廊で日本画の人気作家として作品が売られていたり(「白い花」という作品は209,815円 日経アートより)、画集を出されたりしていて、ご活躍のようである。個展の他には、郵政省発行「さくらめーる」「かもめーる」の原画、新橋演舞場、国立小劇場舞踏公演プログラム表紙装画など、多彩な制作活動を展開されていて、2021年美術市場に号12万円で掲載されているそうである。インスタグラムを検索すると、4枚の作品を載せていたので、一応フォローしておいた。もう、私のことなど忘れてしまっているだろうな。30年以上前の話なので。

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