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『すずめの戸締り』の不器用な神

『すずめの戸締り』は2023年9月25日から9月30日の朝を舞台に描かれた。
先月末は、私も御茶ノ水へでかけ、東京の後ろ戸のトンネルを撮影し、レンタル配信で初めてテレビサイズで本作を観て過ごした。

この作品は、もうすぐ公開から約1年が経とうとしているが、お帰り上映と称して全国で再上映が行われるなど、大ヒット作品として親しまれ続けている。設定や登場人物の背景の作り込みが細かく、見どころが盛りだくさんではあるのだが、私が最も注目したいキャラクターは要石のダイジンである。

悪役的に描かれ、不気味な存在として重要な役割を果たしているが、実際は素直に主人公である鈴芽が大好きなだけの、心優しい神だ。今回はそんな不器用な神である彼について言及したい。


『すずめの戸締り』あらすじ


宮崎県に住む高校2年生の岩戸鈴芽は、謎の美青年、宗像草太と出会う。廃墟を探していると話していた草太のことが気になり、彼を追いかけた鈴芽は、開いた先に不思議な空間が広がる扉をみつける。扉の向こうの世界にはなぜだか踏み込むことができなかったが、そばに石像があることに気づいた鈴芽は、それを持ち上げてしまう。そのことをきっかけに鈴芽は、草太が閉じ師という職業で、廃墟に出現する『後ろ戸』というこの世と常世を結ぶ扉に鍵をかけることで、地中に巣食う巨大な力『ミミズ』を抑え、地震を防ぐ役割を担う者だと知る。鈴芽をかばってけがを負った草太の治療をしていると、やせ細った一匹の白猫(ダイジン)がやってきたため、鈴芽は水と食料を分け与える。可愛らしい猫に思わず「うちの子になる?」と問いかけると、ダイジンがふわりと美しい見た目に変わり、「すずめ やさしい すき」「おまえは じゃま」と答える。猫が喋ったことに驚く間もなく、草太は鈴芽の母親の形見である椅子の姿に変えられてしまう。わけもわからないままダイジンを追う鈴芽と、草太のロードムービー+震災で母を亡くした鈴芽が過去を克服するまでの葛藤を描いた成長物語だ。

1.       神であるダイジン


ダイジンはミミズを抑える西の要石であったが、鈴芽に引き抜かれたことで自由になり、草太を椅子に変える呪いをかけて逃走した。草太は物語中で、ダイジンは神であると語っている。その神であるダイジンがなぜ鈴芽に執着を見せたのかというのは、物語においてとても重要な点になる。ダイジンはわざわざ鈴芽の目の前で草太に呪いをかけ、後ろ戸が開く場所まで案内して回ったのだから。

・人間からの信仰


西の要石がダイジンと呼ばれる理由は、立派な髭が昔の大臣のように見えるからというものであったが、ダイジン=大神にかけたということはパンフレットの中でも言及されている。ダイジンが猫の姿をしていることについては、猫は昔から神の使いとされている生き物であることや(もちろん単に監督が大の猫好きだからということもあるだろうが)、ミミズのモデルである鯰の天敵が猫であることも関係しているだろう。(日本では、古くから地中で鯰が動くことにより、地震が引き起こされると信じられていた。その鯰の動きを止めるために打ち込まれる石を要石といい、要石をまつる神社は各地に存在する)

また、ダイジンは日本を横断する旅の途中、あえて人目につくように動き、道行く人に可愛がられていた。そんなダイジンはSNSでも話題となり、ニュースにまで取り上げられ、しっかりポーズを決めた姿で写真に収められている。

みんなに可愛がってもらい喜ぶ、お調子者の人懐っこい猫にも見えるのだが、これは人間の信仰を集める行為だったのではないかと私は受け取った。神は人間に信仰されることで、その力を増すのだと言われている。人々からの信仰が厚い神は、当然強い力を持った神となるし、忘れ去られればその神自体も消えてしまう。要石は恐らく、人から忘れ去られ、少しずつ力をなくしたために鈴芽の力でも簡単に抜けてしまったのだ。草太は物語の最後に

「人の心の重さが、その土地を鎮めているんだ。それが消えて後ろ戸が開いてしまった場所が、きっとまだある」

と語る。つまり、例にもれず要石に宿る神も人の信仰を無くしては、力が保てないということではないだろうか。

その証拠に、ダイジンは最初、ひどく痩せた姿で鈴芽の前に現れ、貢物ともとれる食事を与えられたことで見た目が小ぎれいになる。人の心を受け取り、力が戻ったからだ。ダイジンは、草太を椅子に変えた際に、要石としての役割を草太に移していた。つまり、ダイジンは要石としての力をもう必要としていなかったにも関わらず、人間に愛される神としての本質が、信仰を集めるための行動として現れていたのだろう。

そう思うと、人間を好きでいてくれる動物神らしい微笑ましいシーンに見えると同時に、なんだか少し切なくもある。この時、ダイジンは力が弱まるほどに人々から忘れ去られてしまっていたわけだ。だから、人間から忘れられることなく、心にとめられることが、彼にとってはなにより嬉しかったのではないだろうか。

・陰と陽の気を持つサダイジンとダイジン


皆さんは気付いただろうか。鈴芽たちが訪れた場所はどこも突然、商売が繁盛していたことに。2日目の愛知で出会った少女、千果の実家である民宿も、「今日はなんか急にお客さんが増えてしもて」と話していた。また、3日の神戸のスナックはぁばぁでもルミさんが「こないに混むなんて滅多にないんやけどなぁ」とつぶやいていた。

これは、ダイジンが猫神であったことと、陽の気を司る神様だったことが関係しているのではないか。猫神は幸運をもたらす存在とされている。昔、船乗りのあいだでは猫は瑞獣としてあがめられていた。招き猫なども猫神信仰からくるものだ。だから、ダイジンが立ち寄った場所には人が集まり、商売が繁盛した。

また猫は妖獣として恐れられ、どう猛さや陰険さといった正反対の性質も持ち合わせている。作中、鈴芽の叔母である環が、ダイジンとは反対の陰の気を司っていた東の要石であるサダイジンの影響を受ける場面がある。鈴芽が要石となって常世に行ってしまった草太を助けるため、後ろ戸を探しに東北を目指そうとしていたところに、宮崎から鈴芽を追ってきた環が合流する。道中、ふたりは言い合いになり、環が鈴芽に対して、あんたなんか引き取らなければよかった。家から出て行ってよ。と、これまでの日々の苦労から、つい取り返しのつかないひと言を口走ってしまう。サダイジンが取り付いていたからだということは、その時すぐにわかるのだが、このシーンはダイジンとサダイジンが対照的であることを印象付けるのにとても重要なシーンだった。猫神らしい、ふたつの性質を合わせ持っている様子がよくわかる設定だ。

また、ふたりのデザインは白と黒であり、大きな姿に変わるとその色が逆転する。そのことも、陰と陽は共生しており、両方の性質を併せ持っているという陰陽道の教えに通じるものがある。このようにふたつの要素をもって描かれた神様こそダイジンとサダイジンだったのではないだろうか。

2、ダイジンはなぜ鈴芽を導いたのか


ダイジンは日本を北上しながら、鈴芽を後ろ戸が開いた場所に案内し続けた。要石となった草太をミミズに打ち込んで封印してもらいたかったという目的はもちろんあると思うが、一番の理由は鈴芽との約束があったのではないだろうか。鈴芽は初めてダイジンンと出会ったとき彼に

「うちの子になる?」

と問いかける。それに対して、うん。と了承の意を示したダイジン。つまり、ダイジンは、鈴芽がうちの子になる?と誘ってくれたから、鈴芽と一緒に居るために閉じ師である草太に要石の役を引継ぎ、暴れているミミズに石を打ち込み封印する道を選んだのだ。

当然、ダイジンは鈴芽もそれを望んでくれたのだと思っていたが、実際はそうではない。鈴芽にとっては、何の説明もなく草太を突然椅子に変えてしまい、後ろ戸を故意に開けているかもしれない恨むべき存在だったのだ。鈴芽が東京で草太を要石としてミミズに打ち込んだ際も、鈴芽の怒りに気づくことができないダイジンは、「やっとふたりきりだね」と嬉しそうに鈴芽に話しかける。そんなダイジンを見て鈴芽は、草太を失った悲しみとダイジンへの怒りが爆発しそうになり、ダイジンを掴み上げる。しかし、鈴芽の様子がおかしいことに気づかないダイジンは、抱き上げられたのだと思い嬉しそうにするのだ。その後、やっと鈴芽の様子が期待していたものと違うことに気づいたダイジンは、「すきじゃないのぉ?だいじんのこと」と問う。鈴芽が大嫌いだと答えたことで、初めてダイジンは鈴芽から好意を向けられていないことに気づき、ひどく落胆するのだ。あまりのショックに目のひかりは消え、みすぼらしい姿に戻り鈴芽のもとから立ち去るのだった。

このシーンでのダイジンの無邪気さには、何度見ても涙が止まらなくなる。ダイジンはただ、鈴芽に必要とされたから、それに応えるためよかれと思って行ったことだったのに、結果、鈴芽に拒絶されてしまうのだ。

神は人間を慕うあまり、思いがけない方向にことを進めてしまうことが度々あるといわれている。縁結びなどの例が有名だが、縁切りをお願いしたが故に、自分が事故に合ってコミュニティに参加することができなくなり、結果として相手と離れることになったり、恋愛成就をお願いしたことにより、運命の相手以外の人とはことごとく破局してしまうなど、必ずしも良い方向に転がるわけではないのだという。まさに、ダイジンの行動は神の起こす人間からすると突飛な行動のひとつだったのだ。

「うちの子になる?」

この言葉は、物語内で重要な問いかけとなる。鈴芽が幼い時、唯一の家族だった母親を震災で失った際に、環にかけられた言葉でもあったのだ。サダイジンに憑かれたことによって環が口にした「家から出ていってよ」という言葉を受けて、鈴芽は、うちの子になろうといったのは環さんなのに。と言い返すのだが、これこそまさに、ダイジンの鈴芽に対する思いであり、この物語におけるダイジンの行動理由だったのだ。

ダイジンは鈴芽から強い拒絶を受けたにも関わらず、東北へ向かう鈴芽たちの旅路に同行する。途中でサダイジンと合流し、鈴芽の手で要石として再び封印されることを望み、鈴芽が唯一常世へ入ることができる後ろ戸へ彼女を導く。鈴芽と一緒に居たかったけど、鈴芽が本当に望んでいるのは草太であることを悟ったダイジンは、大好きな鈴芽のために再び自らが要石として封印されることを望んだのだ。

どこまでもひたむきに願いをかなえようと鈴芽を愛するダイジンの姿は、神と動物の不器用で一途な人間への愛そのものといえる。物語の最後には、鈴芽もダイジンが開いてしまった後ろ戸に案内してくれていたことに気づき、きちんとお礼を伝えることができた。その鈴芽の言葉を受け、ボロボロだったダイジンの姿が再び美しく戻り、瞳が輝くのもなんともいえない気持ちになる。


この物語において、神と人間の関係は裏の設定として大きな意味を持っている。宮崎県は神の逸話が色濃く残る土地であり、主人公の名前の岩戸と草太の苗字である宗像にも深い関わりがある。新海誠監督はこれまでも日本の神話や伝承をモチーフにした作品を度々制作してきたため、監督の特徴のひとつといえる。今作はその特徴が色濃く出たことで、物語に深みが生まれ、日本人が親しみやすい内容となっていた。

また、鈴芽という少女の成長物語を日本が抱える大きく深い意味をもつ歴史である、東日本大震災と重ね合わせることで、忘れてはいけない記憶を後世に残していきたいと考えたのかもしれない。結果、海外の人や震災を知らない人々が、間接的に10年以上たった今もなお、終わることのなく続く震災の傷と、被災地について考えるきっかけとなった。

本作からは、監督が込めたたくさんの思いを個性豊かな登場人物を通して受け取ることができる。私は初めてこの作品を見た際、ダイジンという神が、人間に対して抱く想いの尊さや、恐ろしさ、切なさが、一層浮き上がって見えた。そして、回数を重ねるごとに、鈴芽、草太、草太の友人である芹澤など、いろんな景色が見えてきた。私はこれからもこの作品を何度も見直し、その時々の自分が感じるメッセージを受け取り続けたい。

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