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母からの最期の手紙、そして手製のクッション。

幼稚園時の手提げ袋を使って作られたクッション

本日は、少し個人的な話を。
写真のクッション、実は母のお手製なんです。
といっても、既製品の無地のクッションを買ってきて、そこに刺繍をしたのだと思います。よく見たら、下の方に私の名前である「NAOHISA」の文字が・・。そして、どこかで見たことのある絵柄だな、と思ったら、なんと私の幼稚園時代(おそらく・・)に使っていた「手提げ袋」を大事に取っておいて、その生地を利用して作ったようです。

母がつくったクッション

このクッション。同様のものが私の弟と妹にも準備されていました。弟と妹のクッションに貼ってある生地も何となく見覚えのある絵柄。小さな頃に、弟と妹がその手提げ袋を持って幼稚園に通っていた記憶がおぼろげながら甦ってきました。
50年近く経ってようやく思い出した懐かしい思い出です。
そして、これら合計3つのクッションには、私と弟、妹それぞれに宛てた手紙も添えられていたのです。

先月のことになりますが、母が他界しました。

13年前からパーキンソン病を患い、6年前からは癌にもなり、これまでずっと闘ってきました。そして、それを父が支え、父に至らないまでも、兄弟3人、そして孫達、周囲が支えてきました。
写真のクッションは、おそらく自身で覚悟を決めた時に、我々子供達に、と考えて、しまっておいた小さい頃の手提げ袋を使って、コツコツと作り上げたのだと思います。
父曰く、母が亡くなり、クローゼットの扉を開けた時に奥の方に紙袋が3つ置いてあったそうです。開けてみたら中身がこれだった、と。

母は気づかいの人でした。
優しく、おとなしい性格でしたが、芯はかなりしっかりしていた人です。私と弟と妹に宛てたこれらのクッション(+手紙)の他にも、孫たちにもそれぞれ一人ずつ一人ずつに手紙は用意されていました。おそらくパーキンソン病で体が自由に動かなかっただろうに、根気よく時間をかけて書いていったようです。しかも、それだけでなく、亡くなってからのことを考えてでしょう、戸棚の中や様々な場所に、「ここはこうして・・」などといった解説文を家の中の随所に配置しているのです。これはきっと父に宛てたものなのだと思います。

これは一人になる父に向けて家のことを書いたメモ

母のことを知っていたつもりでしたが、このような細かな気遣い、言ってしまえば仕掛けのようなものをするとは、ここにきて初めて母の新しい一面を発見した気がしています。

今回、幸いなことに、最後の3日間は連休でした。
私はその週、金沢に出張中だったのですが、父からの「帰ってきておいた方がいい」との連絡を受け、ちょうど終わった打合せの後に新幹線に飛び乗り、東京へと帰っていきました。同様に海外に出張中だった妹も急遽帰国。金曜の夜から月曜まで、父と私と弟、妹(+甥っ子2名)は交代に休みながら思うように話せなくなった母の手を握りながら、付き添うことができました。仕事によってこのような時間を過ごせない方も多くいらっしゃる中で、仕事にほとんど支障をきたすことはなく、父と兄弟3人、揃って家にいれたことはとても幸せなことだったのではないかと思います。
小さな頃、両親と私達兄弟3人は、よく両親の部屋に集まり、色々なことを話しました。家族の仲はかなり良かったので、なんとなく両親の部屋に集まり、なんとなくみんなで話していました。若い頃の、家族のよい思い出です。
今回、期せずして、母が横たわるベッドの横で父と兄弟3人で集まりました。母は思うように話すことができませんでしたが、そこで、昔の思い出話などをして、昔に戻ったようで懐かしい家族の時間だったな、と思います。
そんな最後の時間を過ごせたことも、今回良かったな、と感じています。

添えられた手紙

さて。そんなこのクッションに添えられていた手紙。
私宛に書かれたその中に、こんなことが書かれていました。

「一番上の子をしっかりと育てれば、下の子も見習うと考えて厳しくしてしまいました。このことはずっとお母さんの心をいためました。でも、尚ちゃんの思いはお母さんの気持ち以上だったことでしょう。淋しくてつらかったことでしょう。このことをきちんと尚ちゃんにあやまらねば、お母さんの人生は終わらないのです。ごめんね、本当にごめんね、」と。

なんと、母はこのようなことを考えていたのか・・・。
と読んでみて驚きました。

いや、お母さん。そんなこと、全く考えてもみなかったよ。確かに小さな頃は大人しくて誰ともしゃべらない消極的な子供だったけど、それを両親のせいだ、などとは全く考えたこともなかったし。10代・20代の頃、確かに口数が少なく、友達も多くはいない性格だったけど、それはおそらく母親譲りのおとなしい性格だったからなのであり、当時自身で感じていた未熟で至らない部分は、自分自身の問題だと常に思っていて、自身でそれを克服し、その努力があるからこそ今がある、と考えていて。お母さんが心配するようなこと、全く考えていなかったんだけれども・・・。

なんだか、母らしい手紙だなぁ、と思いながら読みました。
そして、その手紙の文章の後には、こう続きます。

「でも、今の尚ちゃんからは「そんなこと思わないで・・」と笑顔と共にやさしい言葉がかえってくると思います。勝手に考えてごめん!」
と。

そうそう。というより、本当に考えてなかったから!

と、母に言いたい気分です・・。

私の性格はどちらかと言えば、母の性格を大きく受け継いでいると思います。(もちろん、父の性格も多分に継いでいるのですが・・)
小さな頃は、消極的で友達も少ないおとなしい性格で、大勢の前で話すことなんて、自分には一生無理だろう、と高校時代には考えていました。
今でも思ったことや心にある本音はあまり率直に話すこともなく、真正面に本心を相手に伝える、ということはなかなかできないでいます。

今回の最後の3日間。私が手を握っていると、ある時母が私の方をじっと見つめている時がありました。思い返せば、この時、この手紙に書いてあったことを伝えたかったのかもしれません。
私も、母にはどこかのタイミングで「お母さんの子供として生まれてよかったよ。今までありがとう」と伝えようと考えていたのですが、この時、言ってしまうとすぐに母がいなくなってしまうのではないかと考えてしまって口に出すことができませんでした。
そして、結局私の言葉は伝えることができませんでした。もし、この手紙の内容を生前に知っていたら、「そんなことないのに!」と笑って話していたかもしれません。

あれから1か月近く経つのですが、未だどことなく、母がいない実感を持てず、私の方は今も仕事に忙しくしています。

静かな決意

私の仕事。
2005年に自身の会社を立ち上げ、インテリアデザイン事務所として活動を始めました。2008年から2010年までがものすごく厳しい時期で、この2年間、薄利多売の毎日で、事務所の家賃など固定費さえ何とかすることもままならず、自身の給与は完全にゼロ。闇金融以外の思いつく限りの借金をし、両親や周囲にかなりの迷惑をかけていました。

その後、展示会に特化して事業が持ち直すことになるのですが、2014年頃でしょうか。この頃になって、小さな決意をしました。

いつか必ず自分は「情熱大陸」に出演して、両親、特に母に、その姿を見せよう、そのために本気で、全力で、動いていこう、と。
だから、手始めに、当時付き合いのあった仲間の前で、「自分は本気で情熱大陸に出たいと考えている」と宣言することから始めました。

しかし、残念ながら、間に合いませんでした。

でも、業界の中では、それなりの立ち位置を築くまでにはなりました。また、いろいろな雑誌にも載ったし、本を出版した姿も見せることができたし、0点ではないかな、と思っています。

間に合わなかった、と意気消沈しているわけではありません。
これまで全力で突き進んできた姿、徐々に成功していっている姿を見せることができました。目標には現在到達できていませんが、まだ父は元気でおりますので、この目標は続行でさらに突き進んでいきたいと思います。

新しい局面へ

7月から私の事業は新たな局面に入ったと感じています。
残りの人生、自分は何ができるのか、どう周囲に影響を与えることができるのか、何を残すことができるのか。考えながら真剣にこの先の人生を生きていきたいと考えています。

これまでは、自分自身が全力で能力を磨き、ビジネスの結果を出すことに注力してきましたが、これからは、デザインを行うスタッフを、次の世代を育成していくことに注力し、これまで培ってきたものを「次」につなげていくように動こうと考えています。
そして、それは当社の内部だけに留めず、広く業界内にも目を向け、様々な企業とタイアップして、展示会という業界全体が発展するように動いていきたいと思います。

かつて、母に見せようと決心した静かな目標はもちろん健在ですが、それ以前に自分ができること、目の前のことをしっかりと行っていきます。
日本には、多くの中小企業の方々が、展示会という場を活用して、それぞれの商品・サービスを社会に販促しています。しかし、現在は展示会に出展したからといって必ず成功するとは限りません。

もし、全ての展示会出展社が、展示会への出展に比較的簡単に成功できるようになったら、様々な技術やサービスが世の中に出やすくなります。そして、そうなった場合、今の社会に与える影響はけっして小さくはない、と考えています。
そのために、自身ができることは何か。
そして、今、何をするべきなのか。
これが次のフェーズへの移行なのだと思います。

残念ながら、母にこの先の姿を見せることはできなくなりましたが、どこかで見てくれていると信じ、またいつか直に伝えられる時があることを感じながら、この先も邁進していこうと考えています。


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