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人のふり見て

たまに、怒りがこみ上げたり腹が立ったりすることがある。穏やかに生きたいのにこれではどうしようもない。怒りに自分を乗っ取られたくない。アドラー心理学によると、人は「怒りたくて怒っている」のだという。どんな物事も、そのもの自体が腹立たしいのではなく、自分がそれに対して「怒る」という反応を、選んでいるに過ぎない。旅先の電車にマフラーを忘れても、傘を持たない日に雨が降ってきても、友人から1時間遅刻する連絡が来ても、それらは「私」を「怒らせる」のではない。「私」が勝手に「怒っている」。だから全部アハハ!と笑ってもいいということだ。

「怒り」という気持ちは実は能動的なものだと分かったところで、突然沸く怒りにはどう対処したらよいだろうか。最近自分では、誰かや何かに対して沸いた怒りは、自分に対する怒りととらえることを思いついた。これが健康的な思考かどうかは少し自信がない。しかしこれは、他者を困らせることは無く、怒りが鎮まるので自分にはいいかなと思っている。

例えば、人の話を聞かずに自分の話ばかりする人にいら立ったとする。「話聞いてくんないな」と怒りが小さく生まれたとき、自分はその人しか見ていないので、目線を天井くらいに持ち上げて自分を俯瞰する。私は人の話をちゃんと聞いていないときはなかったか、今露骨にいやそうな顔をしそうになっていないか、自分に問いかけると、さっき生まれた怒りが少し刺さる。そうかこの人の様子に気に入らないのは、これまでにしちゃったかもしれない自分の過失を見ているからかもしれない、と思うことで、自分がよい生き方ポイントを少し貯めた感じがするし、気分は悪くならない。

もちろん、あてはまることばかりではないが、誰かや何かにいら立った時は、いら立つ材料が自分の中のどこかにある可能性を疑うと、案外見つかるし、自分の感情に気がつく事ができる。国会中継を見ていて、のらりくらりとかわす答弁に腹が立つとき、自分はこういう不誠実で形ばかりの行動が嫌いなんだなと気づくし、「この時間でもう少し新型コロナ関連の有意義なことがやれないのかよ」と思うときは、自分自身が新型コロナに際して大変な人に何もできないことを投影した気持ちだった、と顧みることができる。

自分をつい責めがちな自分だったが、これについては大丈夫そうで、怒りをコントロールできた優越感と、人の振り見て我が振り直せた感から自己肯定感が高まる気がする。自分が、怒りにはコントロールされたくないと強く思うのは、私は怒りで人をコントロールする人が苦手だからかもしれない。あるいは逆かもしれない。

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