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名前を付けることは、枠組みを作ること

これは本当に不思議な話だが、幼い頃から「せんだい」という都市に興味を持っていた。全国版の天気予報で、センダイは雨、ニイガタは雪…みたいに言われるのを聞いて、特別耳に残ったのだと思う。SENDAI、仙台、ちょっと外国語の響きにも聞こえなくない、音の響きが耳に残る。

やがて漢字が読めるようになっても、仙台がやはり好きだった。縦線の目立つ仙の字と、文字通り安定感のある台という字の組み合わせが、日本地図の中でひときわ光って見えた。

中学校に上がって、あんまり全国版の天気予報は見なくなってしまった。くそ生意気中学生だったから(「登校途中にかめを拾った話」参照)、廊下をよく走っていた。3月、調理実習の後の休み時間に、廊下で追いかけっこをしていた友達がめまいがすると言ってしゃがんだ。部活が同じその子が心配だったけど、少し短めに部活が終わり、いつもは帰れない早い時間に帰ることになった。教頭がグラウンドの方まで来て、「東北の方で、大きな地震があったみたいだから、気をつけて帰れよー」と生徒に声をかけていた。また地震か、と思った。

その日から、仙台は”被災地”と呼ばれた。

下校してテレビを見るとショックだった。母は、あんた大丈夫だったかね、大きな地震があって、この辺も揺れただよ、と言う。母はその時スーパーにいて、目が回るようなゆらゆらした感じが長時間続いたという。お酒の瓶が割れて一面にこぼれていたらしい。地震が起こったその時刻は、友達と追いかけっこをしたときだった。あとから、母校は強い岩盤の上に立っており、揺れが伝わりにくかったと分かった。それでもゆらゆらとする振動が、震源から500キロ離れた場所に届いていた。

あちこちで大変そうな人がテレビに映る。ひとごとみたいな報道がもどかしくてたまらなかった。募金箱に、ちょっとお金を入れることしかできなかった。それも日が経つにつれ、勉強とか部活とかで悩む方に忙しくなった。

次の年、クラスに転校生が来た。被災県からだった。いろいろなことを考えたけど、友達になりたくて話しかけた。やさしくておもしろくて、すぐ友達になった。アパートが近くだとわかって一緒に帰ったり、休み時間には本の話をしたり、恋話をしたりもした。その子が好きだった子は、まだその県にいた。

その子のことを、ほっぺが赤い、いなかっぺ、とやじるやつがいた。もともと嫌われ者だったそいつはわざわざ隣のクラスから通りすがりに言った。そいつにかつて嫌な目にあわされた私は、気にすんな、あんなこと思うのはあいつだけだと言った。その子の白くて赤みがさした頬は、寒い地域を生きる強さと美しさがあると思ったから、絶対に傷ついてほしくなかった。

その子はその年の夏に地元へ帰っていった。たくさん話をしたけれど、なぜここへきてなぜ戻るのか、はっきりしたことはわからなかった。でも今は、そんな知りたがり中学生の自分を叱りに行きたい。その子とは文通を続けた。思ったよりもその地域は被害が少なくて、再び部活をしたり、海外にホームステイするメンバーに選ばれていたりとか、楽しく過ごしているのがわかって嬉しかった。

本当は少し寂しかった。離れてしまうこともだけど、その子はいつも、自分の住んでいる話をした。今思えば当たり前だ。私はその子がしてくれる、自分が行ったことがないその子のふるさとの話を聞くのがとても好きだった。それでも、わたしが生まれ育ち、その子が今は住んでいるこの場所は仮で、積極的になじみたくないのかもしれないと感じてしまった。そして戻った今は、自分たちと過ごす必要はあったのか、と思うくらい普通に過ごせていた。自分勝手な私は、その子が去ってからも、その子のことをクラスのどこかにいる存在みたいに思い続けた。

私にとっての被災地はその子と関わったことだった。遠くのつらい出来事が、友達を襲った大変な出来事に変わった。仙台が好きな気持ちに、被災した、痛ましい街、という思いが加わってしまった。

ところが、中学、高校と過ごす中で、あることに気づいた。その子のことを、かわいそう、と思ってはいなかっただろうか。あの時、大きな地震で傷ついた子だと、思いたいのではなかろうか、と。ほんとうは純真無垢で明るくて、楽しく学校生活を送る子だ。自分と同じはずだ(くそ生意気を除いて)。いつ自分が被災するかだってわからないのだ。それを、何をちょっと優位に立った気で、助けたような気になっているんだ。

すごく自分を恥じた。私にとってその子は友達だ。その当時は被災者だったかもしれないが、今は社会で一生懸命に働く一人の社会人だ。

その後進学した大学は全国からいろんな人が集まっていたから、仙台出身の人もいた。仲良くなって、その人の故郷を旅した。その人はたくさん、当時の地震のことを話してくれた。話を聞くたびに、自分の目でちゃんと見たいと思った。見て知っても、誰かの助けになるかわからない。だけど、そこで生まれ育った人や当時を知る人の気持ちに少しでも近づきたかった。被災地とひとくくりにしてまう地域には名前があって、そこをふるさととして、大切に大切に思う人の気持ちを少しでもわかりたかった。

東北地方太平洋沖地震、いわゆる東日本大震災、この言葉をここまではあえて使わなかった。言葉にしてそれを使うと、片づけた気分になるからだ。本当に分かったわけではないのに、分かった気になってしまうからだ。私はまだ多くのことを知らない。

今も、たいへんな中を生きる方がいると思う。当時よりもたくさん前に進み、おいしいものを作ったり会社に通ったり、街の安全を守ったり商品を売ったりしている方もいる。私は、かつて被災された方を、あまり考えずに被災者と呼び続けるのは抵抗がある。自らの力で今を同じように生きている人たちだからだ。被災地と呼ばれた地域は、人々のふるさとで、名前がある。被災したことは確かかもしれないが、そこは南三陸町であり、名取市であり、新地町である。人が住み、今も生きる街だ。ひとくくりにして、知った気になるのをやめたい。当時、静岡に住み、大きな被害を受けた者ではないからこそ、できる限り知らなくてはいけないと私は考える。

別のnoteで、福島、宮城を訪れたときのことをまとめようと思います。


東北地方太平洋沖地震で被害にあわれた方のご冥福を心よりお祈りします。


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