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ハイデガーと断易


ちょっとキャッチーなヘッドラインでスタートします。

東洋では太古において占いは極めて先駆的役割を果たしていたようです。現実を判断するのに特殊な素材を用い、その解釈は自然崇拝的な擬人的手法で捉えておりましたが、具体的な構造を分析する理論があり、この理論自体は自然観察による原理から一つの世界観を提示し、こうした大きな物語の中で人間は対象に立っている、生かされているという意識で現実を取り上げ、取り扱ってきました。つまり一般庶民の間の単なる迷信的なものから一次元脱皮させ、より高い視点へと止揚して、日常世界を理論的に再構築するのに役立つ、いわば東洋的擬似科学とも言えるロジック重視の判断法がそこにありました。

大げさに聞こえるかもしれませんが、人類の歩んでいる足跡を歴史的に見ても、主流思想として基軸になっている西洋思想が生み出した近現代思想とは、太古からの意識である自然に神が宿るという自然崇拝などの宗教的世界観や擬人的世界観を批判し、理性を重んじ信仰と切り離して世界を取り扱う科学的手法により世界を構築すると同時に、人間主義的な思潮の中で、人々は身体のレベルに沿った人間存在の赤裸々な欲望を前提とした人間の自由を享受しようという考えを肯定した立場で今なお世界を見据えているようにみえます。

このような時代背景の中で、東洋占いのひとつである断易とはどのような役目を果たすことができるのでしょうか。

断易は、その智者にとっては本来、現実感情などを抜きにして懸案事項がどう展開するのかを別の次元から引き出すというぐらい、他人が意思により介入できない解釈として、全き独立した機関から答えが出てくるものであり、時には思ってもみないような未来が示された場合はそのまま運命として受け入れるしかない、容赦ない力をもっているものであると恐れる以外何物でもないようなものでした。

しかし昨今では、自然界に働きかける人間の意志の力が勢いを増し、力をつけています。

事業など具体的な現実的話に対してはドライにその成果や結果について具体的に示してくるのと同時に、恋愛などの細かい感情にフォーカスしてその人との距離間を計ることも可能なものとして、より身近な微妙な動きを示してくるようになり、その場合の短期的な心の動きを微調整することのヒントとして係る人々のポジションを具体的に示してきます。

このように社会構造の複雑化と同時に個人の求めるニーズが多様化しているのに応じて、断易も昔のように結果だけを正確に示すだけで事足りるという訳にはいかない判断が求められております。これは占って得た答えが、最初から吉凶があらかじめ動かしきれないほど決定的ではないという前提から警告のように働くからです。自らがどのような行動の変化をもたらすべきか、占う内容に対する自分自身の現実的ポジションと占的であるその目標までの対処の仕方や考え方、目標達成までの目安として踏まえなければならない課題とその苦労の中身、取り巻く環境や全体の構造について示されている内容を吟味精査することで、今の自分の感情をどのような状態にもっていくことが目的に対して最善なのか、感情の目指す方向を読み取る必要が出てきました。

しかし多くの場合、自分自身の感情作用については盲目的にならざるを得ないという人間の性があるので、事態を簡単にスッキリ変えることはできず、ぐずぐずしたり、グジャグジャしたりして大概の流れはおおよそ予定通りなのですが、個別具体的には時々の態度の違いやその認識や解釈・一貫性のない判断の揺れ動きの分だけズレが生じるということになります。


占いは幸福を求めていく人の「行動指針」として利用するということが最優先事項であり、未来が当たるのはその上で的確に出てくるものです。この「幸福」という言葉の中に、「(自分本来のあるべき)幸福」という、あたかもハイデガーが「存在と時間」の中で論じているような「本来的な存在可能性」という言葉と被る部分があります。自己存在の意味を問い続けて、「死すべき人間」としての運命的存在が、現実の世界に深く関わろうとするハイデガーの思想を想定した上で、今の自分がどれほど虚妄に囚われて生きているのか、そうした視点から占うあなたが目的としているその願望が果たして本当にあなたにとっての幸福となりうるのか、占った後に、「このこと」がいつも余韻として残る、そんな毎日を過ごしています。




#ハイデガー #断易 #占い #哲学 #人生  

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