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サイドノック式シャープペンを語った私はピアニッシモを復刻していない【#忘れられない一本 番外編】

こんにちは、ぺんてるの山田です。7月に「サイドノック式シャープペンが好きで入社したら廃番になった話」を書いた者です。その節は、たくさんの「スキ」をいただき、ありがとうございました。予想外の反響に怖気づいて、しばらく他の仕事をしていました。
今回は、皆さんにお伝えしたいことがあり、番外編ということで、スペースをいただきました。
あれからどうなったのか?
いま思うことは?
ピアニッシモ復刻おめでとう!

そんな方々に、読んでいただければ幸いです。

7月に、サイドノック式シャープペンの思い出話を書いた。企業noteの皮をかぶった、極めて個人的な内容のその記事は、9000超の「スキ」をいただくこととなった。
それが、どれほどのことであるのか、note初心者の私にはよくわからない。
が、どうやら、結構なことだった、らしい。

そこに至るまでの流れを振り返ってみると、こういうことになる。まず、7/17に記事を公開。それまでの記事と同じように、公式Twitterから告知された。

「渾身の」というか、無計画に書いていたら妙に長くなってしまっただけのことなのだが、ともかく、そのときの反響は、おおよそ、いつも通りのものだった。シャープペン好き、文房具好きのフォロワーの皆さんに、面白がってもらえているようだった。
それを確認すると、私はすっかり自分の役割を終えた気分で、特にシャープペンとは関係のない通常業務に戻っていった。

事態が急変したのは、それから10日も経ってからだろうか。

ネットで話題になっているらしい、と聞いて、まず浮かんだのは、「炎上」の二文字であった。
きっと、熱烈なシャープペンマニア勢の皆さんに見つかって、「サイドFXに言及していない」とか「自動芯出し機構のほうが効率的だ」とか「俺はシャープペンの話にしか興味がないんだよ」とかのご意見が寄せられているに違いない。
まったくもって、そのとおりだ。文具メーカー社員の全員が全員、シャープペンに詳しいとは限らない。会社は、商品を開発する部署だけで成り立っているわけではないのだ。実際、これほどシャープペンについて語っておきながら、私は現在、シャープペンとは直接に関係のない仕事をしている。シャープペンマニアでも何でもなく、ただの「シャープペンを使ったことがある人」であるにすぎない。そんな人間に記事を書かせたのが、そもそも間違いだったのだ。
ぺんてるシャー研note、連載第3回目にして打ち切りのお知らせ。これだから、ネットに私見を公開するというのは恐ろしい。ぺんてる先生の次回作にご期待ください。

などと、一瞬のうちに悪い想像が頭を駆け巡ったが、薄目でSNSを見てみると、どうやら、そういうことではなかった。
そこに並んでいたのは、理解と共感の言葉だった。

サイドノック式を懐かしむ声。
鎖骨ノック派、顎ノック派、額ノック派などの存在。
親指ノックか、人差し指ノックかの議論。
自分にとっての、忘れられない一本の話。

そして、シャープペンというジャンルを超えて、話題は広がっていた。むしろ、そちらのほうが、ボリュームとしては大きかったといえる。

なにかに一心に打ち込む、青春の狂気について。
手書きとデジタルの違いについて。
モノへの偏愛について。

自らの身に覚えのあることとして、多くの方々が、語っていた。

感想付きで、SNSにシェアされるというかたちで、記事は、みるみるうちに広まっていった。Twitterでの言及が増えるのに伴って、noteの「スキ」も、目まぐるしいほどの速さで伸びていく。
500を超えたところで、これは快挙だと皆で喜んでいたら、その後も勢いは止まることなく、結局、9000にまで至った。こうなるともう、どう反応したらいいのかわからない。まったくもって、想定外の数字である。

これだけの反響をもらったことに対して、なにか応えなくては、という直感的な思いはあった。一方で、戸惑いもあった。
なにしろ、社員のエッセイがこれほど多くの方々に読まれるという事態は、誰も想定していなかった。話題になるということについての、心構えもなかった。
まずは小さく始めて、シャープペン好きな人たちが少しずつ集まって、読んでくれたらいいよね、という気持ちで部活動的にnoteを開設して、まだ1か月の私たちは、これを受けて、何をどうしたら良いのか、まるでわからなかったのだ。世間で話題になることに慣れていない会社の、悲しいところである。

もしかしたら、反響を受けて速やかに、山田が第二弾を書くという選択肢もあったかもしれない。
たくさんの「スキ」ありがとうございます! と、公式声明を出すという手も、あったかもしれない。
サイドノック式の歴史や、今後の復活の展望について、社長自らが語る緊急企画があっても良かったかもしれない。
今にして思えば、である。

だが、そのときの私たちは、ただただ戸惑っていた。
せっかく書いても、誰にも読んでもらえなかったらどうしよう、という方面の心配こそすれ、逆に、注目された場合の対応は、最初から想定していないのである。これをバズらせ、次にこの広告を打って、次に…などといった戦略どころか、次の手も何も、まったく考えていなかった。
そもそも、バズらせたのは私たちではない。そんなつもりはなかった。というか、「バズらせる」という、何か仕組んで人を踊らせるような表現自体、驕った感じがして、私は個人的に、あまり好きではない。

これは、別に、我々が何かを仕組んで、それが当たった、というような成功談ではないのだ。
「敏腕マーケターの語るSNS戦略〜社員の顔が見える記事でバズを生む〜」なんて記事ができたなら、たぶん、いろいろな人の役に立つのかもしれないが、残念ながら私は、敏腕でもなければマーケターでもない。
今回の事の経緯について、何か語るとしても、特に何もしていない、ただ原稿を書いただけ。で終わってしまう。
まるで参考にならない。

それに、ちょっと話題になったからといって、ここぞとばかりに追撃する、みたいなのもなあ。どうだろう、自分が読み手の立場だったら、なんだか微妙な気分にさせられる。いや、商売としてはたぶん、それが正しい宣伝方法なのだろうけれど。
仮に宣伝するといって、何を言えるでもない。サイドノック式は、すでに廃番なのだから。

というわけで、とりあえず、何事もなかったかのように大人しくしていた次第である。次の社員エッセイをアップし、製品の開発秘話をアップし、という、予定通りの進行をするだけだった。
たくさん読まれて、ツイッターも盛り上がって、よかったね、めでたしめでたし、である。私は、愛用の一本の存在を知ってもらうことができて、すっかり満足していた。

その後、夏休みがあったり、デスクの席替えがあったり、昇格試験に備えて今年度のグループ経営方針を丸暗記すべく、ひたすらエナージェル(青インキが記憶に良いと聞いた)で紙に書きながら唱えてみたり、そのヤマが完全に外れて落ち込んだりしているうちに、だいぶ間が空いてしまった。季節はすでに秋である。
たぶん、世の中はもう「サイドノック式? なんだっけそれ?」となっているだろうことは、疑う余地がない。完全に旬を逃した。今更感がすごい。

だから、この後日談はどんな需要があるのだろうかと思いつつ、しかし、それでも記事を書くのは、どうしてもお伝えしたいことがあるからだ。そういうわけで、こうして再登場の機会をもらうこととなった。
会社としては、別に、書いても書かなくてもいいくらいのことだと思う。ただ、私が個人的に振り返ってみて、今日まで考えたり感じたりしたことを、形にしておきたかっただけだ。そのための手段は、人によっていろいろあると思うが、私にとっては、やはり文章を書くことになる。

長々と前置きをしてしまった。今回は、ますますシャープペンの話とは関係なくなっていくことを、ご了承願いたい。極めて個人的な内容にもかかわらず、この場を貸し出してくれたシャー研諸氏には、感謝するばかりである。

例のnoteと「ピアニッシモ」限定復刻の関係

今更、再登場してでも伝えたかったこと。
それは、ピアニッシモ復刻の件だ。

90年代に流行したサイドノック式シャープペン「ピアニッシモ」復刻のニュースは、皆さんご存知だろうか。12年前に国内では廃番になっていたこの製品が、このほど、1996年発売当時の復刻デザイン、および2020年の新デザインで、数量限定復刻発売した。2020年8月のことである。

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私がサイドノック式の廃番を嘆いた記事が、2020年7月。
タイミング的に、あのnoteが影響しているのでは?とお考えの方もいるかもしれない。
サイドノック式の廃番を憂う声が、SNSで話題になり、上に届いて、会社を動かしての奇跡の復刻。
もしそうだとしたら、感動のストーリーだ。ちょっといい話として、ニュースの小ネタに取り上げられるかもしれないし、再現ミニドラマも作れるかもしれない。

せっかくの感動を台無しにしてしまうとしたら、たいへん申し訳ないが、ピアニッシモを復刻させたのは、私ではない。
一番に伝えたかったのは、このことだ。

復刻といえども、新たに製品を発売するには、それなりの準備期間が要される。ピアニッシモの復刻は、まだぺんてるのnoteアカウントが存在しない頃、何か月も前から動いていたプロジェクトだ。もともとの発売予定から前倒しになり、デザインが決定したのが3月中旬、ギリギリのスケジュールだったという。
この企画を手掛けた中心人物は、飯塚さんと梅谷さんだ。たいへん優秀な若手社員である。その開発秘話は、こちらで記事になっているとおりだ。さまざまな苦労話が聞けて面白いので、ぜひ読んでみてほしい。

ご覧のように、私は商品企画チームには入っていない。横からの口出しもしていない。マーケターでもプロダクトデザイナーでも商品企画者でも研究開発者でもない私が、このプロジェクトに関与する余地はない。

もちろん、同じ会社の中でやっていることなので、どうやらそういう話があるらしい、ということは耳に入っていた。ピアニッシモ懐かしいなあ、楽しみだなあとふんわりした感想を抱きながら、日々の業務にあたっていた。

反応が薄すぎると思われるかもしれない。いちサイドノッカーとして、念願のサイドノック式の復活を、もっと喜ぶべきではないかと。
確かに、喜ばしいことであるには違いない。だが、私にとって、ピアニッシモとドットイー・ティントは、まったくの別物だ。同じサイドノック式だからといって、替わりが利くというものではない。
どちらかというと、ピアニッシモは、ボールペンである「ハイブリッド ミルキー」に近い存在だとすら思っている。ともに、伝説的な売り上げ記録を打ち立てた商品である。90年代半ばという発売時期的にも、メインユーザー層的にも近いものがあり、あの時代のぺんてるの双璧といっていいだろう。

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ミルキーも、実は昨年、復刻発売して話題となった。その流れを受けての、ピアニッシモ復刻。復刻といえども、今後も継続的に販売していくのではなく、数量限定の企画ものという扱いである。売り切れればそれで終わり、店頭から姿を消してしまう。製品カタログに掲載されることも、ホームページの商品紹介一覧に載ることもない。いわゆる定番品との間には、越えられない壁がある。
店頭の回転は速い。3か月もすれば、限定品は姿を消すと考えて良いだろう。「サイドノック式を、誰もが手に取れるようにする」という私の野望には、まだまだ遠い。

ということで、ピアニッシモが復刻することは知っていたが、あくまでもそれはそれ、これはこれであり、ドットイー・ティントについての原稿を書くことになった。別方向からのアプローチであるが、サイドノック式の話題が続くことになるのは、その存在を知ってもらったり、今一度思い出してもらうには、良いチャンスだと思った。サイドノック強化月間である。

ピアニッシモ復刻は、必ず話題になる。それだけの力がある製品だ。
過去に、ミルキーを復刻した際の反響を見ればわかる。SNSでの拡散力、リリースの転載数は、明らかに他の製品とは異なるレベルにあった。そもそもの知名度、地力が、群を抜いている。
ピアニッシモ復刻でサイドノック式の市場性が明らかになれば、定番化にもつながるのではないか。これに便乗させてもらわない手はない。同じサイドノック式ということで、おこぼれにあずかれるかもしれない。そんな下心もあった。
ピアニッシモが復刻する⇒反響⇒(記事とドットイー・ティントも注目される)⇒サイドノック式定番化
という目論見である。
違う違うと言っておきながら、都合の良いときだけ仲間だという。我ながら、だいぶ汚れた大人の振舞いである。

だが、先に述べたように、まず自分の書いた記事が、思いのほか拡散することとなった。その上で、発売スケジュール通りに、ピアニッシモの復刻を発表。ここで、ふと、一抹の不安がよぎった。

このタイミングで、
サイドノック式の廃番を憂う記事を出す⇒反響ピアニッシモが復刻する
という展開は、あまりにもご都合主義、マッチポンプ、ヤラセ、ステマというものではないか。

製品は違えど、同じサイドノック式である。大半の人にとっては、似たようなものだ。まるで、記事への反響を受けて、復刻するかのように受け取られはしないだろうか。それでは、事実と異なることになってしまう。
紛らわしいことをして、故意に混乱を招いたと、非難を浴びるのではないか。間違えて買ってしまったと、返品騒動になるのではないか。そして、なにより、記事を読んでくださった方々の気持ちを、いいように利用した、ということになるのではないか。
別々に進行していて、関係ないと思っていたものが、急に懸念材料として浮上してきた。根が小心者なので、考え始めると、悪い方へ悪い方へと、想像が膨らんでいく。

いっそ、書かないほうが、よかったのだろうか。
そんな思いさえ、抱かなかったといえば嘘になる。

ドットイー・ティントではなく、何か他の一本についての思い出を書くことも、できなくはなかった。かつてマーケティング部門に所属していたときに、少しばかり、シャープペンにまつわる仕事をしたこともある。

たとえば、振って芯を出すシャープペン「シェイク」のキャッチコピー「振るだけシェイク・スルー!」を考えて、ドヤ顔でプレゼンしたときの話(すぐ廃番になった)

シェイク・スルー

あるいは、専用の替芯カセット(芯の補充はできない)ごと装着するシャープペン「クイックドック」を、店頭で朝から晩まで実演販売して、1本も売れなかったときの話(すぐ廃番になった)

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書けないことはない。しかし、どれも、違うと思った。
いま、何か他にネタはないかと頭を絞って出てきただけで、それらは私にとって、「忘れられない一本」とまでいえるものではなかった。どちらかといえば、忘れたいほうの記憶である。

忘れられない一本──心からそう呼べるものは、学生時代のドットイー・ティント、あの一本だけだ。
ここで他のシャープペンについて語れば、自分を偽ることになる。そんな記事を出すのは、それこそ、誠実ではない。
これがプロであれば、どんなテーマであろうと、同じクオリティの原稿を書き上げるのだろうが、私は文具メーカーのいち社員で、ただの素人だ。どう転んでも、ドットイー・ティントについて、消えてしまったサイドノック式シャープペンについて、ああいう風にしか、書けなかった。

誰も、私とドットイー・ティントの思い出を引き離すことはできない。
そして、なによりも。
私が愛したのは、ドットイー・ティントであって、ピアニッシモではない。
同じサイドノック式ということで括られがちだが、ここだけは今一度、強調させてもらいたい。
確かに、私のサイドノック式デビューはピアニッシモであったし、好きな製品のひとつだ。しかし、1万字を語れるほどの思い入れがあるのは、ドットイー・ティント、ただ一本しかない。
後端ノック式シャープペンが、後端ノック式というだけで「どれも同じ」と言われることがないように、サイドノック式シャープペンも、「どれも同じ」ではない。決して。

そんな、開き直りにも似た強い気持ちを支えにすることで、あの記事を書いたことは間違いではなかったのだと、自分に言い聞かせていた。

ただ、ひとつだけ、ずっと気にかかっていたことがある。私の記事とピアニッシモ復刻が結び付けられることによって、もともとピアニッシモのために動いていた人々の働きに、目が向けられなくなってしまうのではないかということだ。
本来、注目されるべきは、私ではなく、彼らのほうだったはずだ。復刻にあたって、何ら貢献していない身としては、これをそのままにしておくことは、できないと思った。誰に何を言われたわけでもないが、このままでは自分自身が納得できないので、こうして記事を書いている。

できるなら、ここまで読んでくださった皆さんにお願いがある。
ピアニッシモの復刻は、飯塚さんと梅谷さんが企画し、開発・製造を手掛ける吉川工場の人々の働きによって、作り上げられてきたものだ。おめでとう、とか、ありがとう、という言葉は、どうか、彼女たちに向けてもらいたい。
発売の前倒しによるカツカツのスケジュール、そして、対面での打ち合わせも叶わない未曽有の社会情勢の中、力を合わせて、素晴らしいものを世に出してくれた。偉大な功績だと思う。
このことだけ、どうしてもお伝えしておきたかった。今回の記事を書いた、一番の目的だ。他の部分は忘れても構わないので、ここだけは覚えておいてもらいたい。

しつこく繰り返すが、ピアニッシモの復刻は、1mmたりとも私の功績ではない。売れ行きが好調であったならば、それは、皆がここまで作り上げた製品そのものの力であり、また、良い売り場づくりをされたお店の力である。

だが、もしも、あのnoteによって、少しでも、サイドノック式シャープペンへの興味を抱いてもらえていたのであれば。
「そういえば、最近なにかでサイドノック式について読んだな」と意識の片隅に残っていて、目を留めてくれた人が、一人でもいたのであれば。
私の仕事が、ピアニッシモの応援の一助になっていたと、考えて良いだろうか。

発売後、こっそり偵察に行った店頭で、目立つ位置に置かれて誇らしげにライトを浴びている、残り本数も僅かとなったピアニッシモのディスプレーを眺めながら、そんなことを思った。


記事を書いてから起こったことと思ったこと

このnote、「ぺんてる シャープペン研究部」は、ぺんてるのノック式シャープペン60周年を記念して開設された。シャープペンについて語り合い、盛り上げていくことが目的だ。そのために、シャープペンの歴史をまとめたり、分解してみたり、社員が思い出を語ったりしている。
私は、ただただ、上司から仕事として依頼され、会社の業績の向上を心から願うひとりの社員として、自社のシャープペンについて書いた。まったくもって、公平でも客観的でもない。ステルスする部分の一つもないマーケティングだ。

そんな中で、思いがけず、文章を書くということについて、久しぶりに考えさせられた。

私が文章を書く人間であることは、社内では知られてはいない。
例の記事が拡散したとき、「あれ、誰が書いたの?」と、社員の間で話題に上ったという話を、人づてに聞いた。このnoteは、社内でもそれなりに読まれているようだ。いわゆる外部向けの広報活動というのは、社内では意外と知られていなかったりすることもあるので、これは良い傾向である。
一方で、「入社12年目の山田」と冒頭に明記しているにもかかわらず、「誰が書いたの?」と言われてしまう、己の社内における存在の薄さを実感せざるを得ない。
伝え聞くところによると、「非実在社員ではないか」という疑いもかかっているらしい。そう言われると不安になるが、一応、実在はしている。なんなら、ここに内線番号を載せてもいい。

その他にも、
・上のほうの人間から、「あの記事、良かったよ」と言われた
・別のオフィスで、朝礼の際に良い事例として言及されていた
・社外の方から、「山田さんて、あの山田さんですか?」と話題を振られた
などのできごとがあった。画面の中で賑わっていたことが、巡り巡って身近な反応として返ってくるのは、不思議な感覚だ。
また、こいつは文章を書くのが苦にならないらしいと思われたのか、新製品の紹介文を考える役目を任されたりもした。もしかしたら、今後、皆さんの目に触れる機会も、あるかもしれない。

かつて文章を書いていたことが、思いがけず、仕事の役に立った。あるいは、私は、仕事上の立場を利用して、自分の文章を発表するという、公私混同をしたのかもしれない。
これは「ぺんてる社員が書いた」から面白いのであって、ただ「山田が書いた」というのとは、まず前提が異なる。それなりに名の知れた会社の威光を借りていることは、間違いない。個人名義で書いたものであったら、このような反響はなかったと思う。端的に言えば、「ズル」である。
そして、「一発芸」だ。ぺんてるにこんな社員がいる、企業の公式noteなのにこんな好き勝手をしている、というところに意外性があって物珍しいのであって、その存在が知れた今、二匹目のドジョウは得られないだろう。
この記事の反響が、例の記事には遠く及ばないであろうことが、その証である。

だいたい、シャープペンについてそれほど詳しくないのに、サイドノック式の人、みたいになってしまったのが申し訳ない。私は単に、ドットイー・ティントを愛用していただけで、サイドノック式への深い知見やコレクションを有するわけでもない。私よりも、もっとサイドノック式について、適切に語れる人材がいたであろうことは間違いない。
そのことは、他の社員による「 #忘れられない一本 」記事を読んでいただければ、お分かりいただけるだろう。皆、頭がおかしい(良い意味で)。こういう、シャープペンへの偏愛を秘めた人たちが、普段は特に変わった様子を見せずに、ちゃんと真面目に粛々と働いているのだから、つくづく、会社というのは面白いものだなと思う次第である。社外の皆さんには、ぺんてるにはこんな人間がいるのだなあと、珍しいものを見るような気持ちで読んでいただければと思う。
そして、ご自身の忘れられない一本に思いを馳せたならば、ぜひ、その思いを綴ってほしい。「 #忘れられない一本 」をつけてご投稿いただければ、シャー研部員で読ませていただきます。

などと、さりげなく記事の投稿を推奨する文言を入れたところで、話を戻す。
自分の記事がたくさん読んでもらえて、実際のところ、どんな気分だったのか。ピアニッシモ復刻との関係で、あれこれ思い悩んだことは、先に述べた通りである。心配もしたし、不安にもなった。それも含めて、どうだったのか。
正直に、本音を言う。

めちゃくちゃ嬉しかった。

まず、自分の書いた文章が読んでもらえるということの喜びは、小説を投稿サイトにアップしてから、閲覧数やお気に入り数が増えてはいないかと、数分おきになんどもチェックしにいった経験のある人ならば、わかってもらえるだろう。あの感じを、久しぶりに思い出した。

そして、仕事を全力でやり遂げたという達成感。私は多くの人に、シャープペンについて興味を持ってほしい、もう一度思い出してほしいと思った。それが、いち文具メーカー社員としての務めだと思った。記事の内容は忘れてもいいから、シャープペンについて、手書きをするということについて、少しでも思いを馳せてもらいたかった。その目的は果たせたと思う。

本来の業務ではなく、いわば部活動での成果なので、私の人事評価が上がるかというと、難しいだろうが、それでもいいと思えるほどに。いや、評価が上がるというのなら、もちろんそれに越したことはないのだが。私にも、生活というものがかかっている。

自分自身についても、意外な発見があった。私は案外、シャープペンが好きらしい、ということだ。

よく、創作物の中で、登場人物が「あの人のことを思うと、胸が熱く、苦しくなる…なんだろう、この気持ち…」となっていて、周囲の人間が「それが、『好き』という気持ちだよ」と指摘するくだりがある。
いや、他人に言われなくても、自分でわかるだろう。
なぜ、指摘されるまで気づかないのか。
そんな物語上の演出を、いつも、もどかしく感じていた。

しかし、自分でも気づいていなかった。シャープペンへの愛、情熱が、私にもあったのだ。

記事に対して、「熱い」というコメントを、いくつも目にした。最初は、戸惑いしかなかった。自分はそんなに、文房具に対して情熱を持っているほうではないと思っていたからだ。地球上のありとあらゆるペンを書き比べて最高の1本を探したこともないし、大量のコレクションを有してもいないし、内部機構について語る言葉も持ち合わせていない。
私より、もっとシャープペンを愛する人々は、たくさんいる。そういう人こそ、「熱い」はずだ。今や、日常生活でシャープペンをほとんど使っていない、私よりも、ずっと。

だが、自覚の有無がどうであれ、読んだ方にとって「熱い」と感じられたのであれば、あの文章にはなんらかの「熱」が宿っていたのだろう。シャープペンに対して、あるいは、文を書くことに対して、今なお燻る、何かが。それは、認めざるを得ない。

どうやら、自分のこととなると、思っている以上に、よく見えないものらしい。自分でも正体のわかっていないものを、文章は明らかにしてしまう。容赦のないまでに。そんなことに、気づかされた。

SNSで拝見した、皆さんのご感想は、まさに、私が1万字を費やして書きたかったことを的確に言い表していた。許されるならば、片っ端から、ありったけの「いいね」や「スキ」を贈りたい衝動にかられた。
思いもしない言葉でもって、評されること。
他の人にも薦めたいと、思ってもらえること。
そうやって、自分の書いたものが、人から人へと渡っていくのを目の当たりにして、どうしようもなく、胸が熱くなった。

自分のいないところで、自分の書いたものについて語られているのを見るのは、どうしてこんなに心を動かされるのだろう。
面と向かって伝えられるのとは、また違う。削ぎ落とされたり、包み隠されたり、飾り立てられたりする過程で失われてしまう、熱をもった生の感情、活き活きと躍動するものが、そこには宿っている。

まるで、ふらりと立ち寄った文具店で、知らない人たちが「このペン、いいよね」と、自社の製品について話しているのを、耳にしたときのように。
街中で、よく見知った一本を使って書きものをしている人の姿を、目にしたときのように。

それは、自分が確かに、この世界とつながっているという証を感じられるからなのかもしれない。

「泣いた」というご感想を、いくつかお見かけした。あのような個人的な思い出話に対して、もったいないお言葉だ。

もしも、あの記事を読んで泣いたという人がいるのなら、それはもともと、ご自身の中に、泣けるものを持っている人なのだと思う。それがたまたま、かみ合って、呼び起こされるきっかけになった、ということであって、私の記事が何か、新しいものをもたらしたというわけではない。

ただ、そういう人に、届いたということが、嬉しかった。個別に言葉を交わしたわけではなくとも、何かを分かち合えたような、そんな気がした。

文房具や、創作にまつわる思い出も拝見した。誰しも、何らかの「忘れられない一本」を持っている。それは、人によって異なる、自分だけの一本で、極めて個人的な記憶が宿っているはずなのに、それを持つ人同士は、不思議と理解しあうことができる。根底に流れる、共通するものの存在を感じた。

そして、「手書きをしてみたくなった」という声。究極的には、それが私たちの仕事の目指すところなのかもしれない。

私たちは文房具を作り、売って、生きている。かつて、筆記具が必需品であった時代はとうに過ぎて、大半がデジタルへ代替可能となった今、その存在意義を問われる時が来ていることを、日々、感じながら。
それでも──だからこそ。
手書きにしか、できないことがあるのだと、信じている。そのことを、伝えるすべを、模索している。

その一環として、このnote「ぺんてる シャープペン研究部」も存在している。デジタル時代の象徴ともいうべき、このようなかたちでもって、あえて、手書きについて語る。一見、相反しそうでありながら、こうして受け入れてもらえたことは、私たちを大いに勇気づけた。

手に取って、何かを表現する。
その道具を作る者として、自分たちにできることを、今後も探し続けていく。


<宣伝>

ところで、世の中には、「バズったら宣伝しても良い」という風潮が存在していると聞く。このような機会は、おそらくは人生で二度とないと思うので、私もそれに乗じてみたい。
そもそもが宣伝目的でやっている企業noteであるのに、この上に何を宣伝するのかと言われるかもしれないが、ご容赦を。

何の変哲もない会社員が書いた、1万字の冗長で個人的な記事など、そう読まれはしないと思っていたのに、「一気に読んだ」というご感想を、いくつかお見かけした。中には、もっと読んでみたい、という、ありがたいお声もあった。
あの記事の文体を受け入れられる、そんな方々に、おすすめしたい小説がある。

『ビビビ・ビクーニャ!』

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文具メーカーの新米社員が、世界一のなめらかさを目指す油性ボールペンの開発現場に放り込まれて、個性的な先輩社員に翻弄されながら、ひとりのマーケターとして成長していく、全100話の物語。ライトノベルのような、お仕事小説のようなものだ。演出上、出だしのテンションが異様だが、その後は比較的まともになるので我慢してほしい。

2010年、「ぺんてるビクーニャブログ」に連載されていたもので、今はpixivにアーカイブされている。
作者は、マーケティング部に配属されたての新米社員「サンダー」。
10年前の、私だ。

この当時、企業ブログというものが流行っていて、弊社も新製品「ビクーニャ」のプロモーションの一環として、専用ブログを開設した。その運用は私に一任されたので、小説を連載することにした。この時点で何かおかしい気がするが、ともかく、企画は通ってしまった。原稿は特に上司の事前チェックを受けていないし、最後まで仕上がっていたわけでもなかった。信頼というか放任というか、今にして思えば、おそろしいことである。

そんなわけで、ブログの運用が始まった。「主人公である新米社員が、自らの経験を通して、ビクーニャ開発ストーリーを語っている」という設定で、平日は毎日、1話ずつアップしていた。勤務時間中に、こそこそ小説を書いていたわけで、まさかこんな仕事をすることになろうとは、学生時代には想像もしていなかった。人生、何が起こるかわからないものである。

幸いにも、途中で「作者急病のお知らせ」が挟まれるようなこともなく、連載は無事に終了。やはり当時の流行に乗って電子書籍の形にしてみたり、その際にイラストレーターさんに依頼して表紙や挿絵をつけてもらったり、後にpixivにも公式アカウントを作って掲載してみたりした。

あれから、10年の歳月が経った。
ブログはとうの昔に消滅しており、タイトルにもある初代「ビクーニャ」は、すでに生産販売終了。その超低粘度油性インキは、「ビクーニャ フィール」に受け継がれている。また、登場する製品の中には、今はもう手に入らないものも多い。改めて読み返すと、端々から、時代の変化を感じずにはいられない。

メインがボールペンの話なので、「俺はシャープペンにしか興味がないんだよ」という人には、きっと物足りないだろう。それでもよければ、試しに読んでみてほしい。あのnoteを読んでくださった方には、どこか通じるものを、感じていただけるのではないかと思う。私が愛用していたドットイー・ティントも、少しだけ登場する。

それで、同じ人間が書いた『ビビビ・ビクーニャ!』は、当時、どれだけ反響があったのか。
正直いって、反響は、ほぼなかった。ブログで話題づくり、という施策的には、大失敗だったと思う。これがきっかけで、ビクーニャが1本でも売れたとは思えない。
それでも、途中で打ち切りにはならず、最後まで書かせてもらい、今もこうして残っている。作品も、私も。寛容な会社である。

そして、施策としては失敗でも、私にとって『ビビビ・ビクーニャ!』は、10年間、忘れがたい、大切な物語だった。
二度と光が当たることはないと思っていたが、最初で最後の機会として、ここで宣伝させてほしい。暇つぶしにでも、読んでもらえたら嬉しい。

10年前、先輩の後について必死で仕事を覚えながら、その傍らで、登場人物設定&プロットをシャープペンでノートに綴り、大いに想像を膨らませ、20万字を書き上げた新米社員も、報われる。


シャープペンのこれから

ノック式シャープペンを発売して60周年の節目に、シャープペン研究部を発足し、ピアニッシモを限定復刻オレンズネロ0.5を発売したぺんてる。
次は、どんなシャープペンを世に送り出すのか。
サイドノック式の記事が話題となったことで、はたして、何かが起こるのか。
サイドノック式の記事が話題となったことで、はたして、何かが起こるのか。

このストーリーの結末は、ドットイー・ティントの復刻、とは限らないと私は思っている。

ドットイー・ティントを復刻することが、はたして会社として正しい選択なのか、私は判断する立場にない。
かつて、売れなかったから廃番になったものを、今もう一度復刻しても、同じことを繰り返すだけではないか。
ピアニッシモと違って、そもそも、もう金型が残っていないかもしれない。
好きだから、復刻してほしい、そんな気持ちだけで動くものではないことは承知している。

サイドノック式は、なぜ廃れたのか。
何が必要とされ、何が受けいれられなかったのか。
そこを明確にしない限り、未来はない。

ただ、ひとつだけいえる。
サイドノック式は、後端ノック式と並ぶ選択肢として、存在しなくてはならないものだ。
ノック式シャープペンとともに60年の歴史を歩んできた、ぺんてるとしての、それは、責任ではないか。
数量限定ではなく、いつでも、誰でも、手の届くものであるべきだと、私は思うのだ。

だから、今はまだ、祝杯をあげるには早い。

──もしも今後、ぺんてるからサイドノック式シャープペンが、定番品として発売することになったとしたら。
そのときこそ、心から、皆さんと喜びを分かち合いたいと思っている。

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番外編と銘打っておきながら、また長々と書いてしまった。前回ですべて書ききったと思っていたのに、書き始めると、いろいろと出てくるものである。

今回のことで、ドットイー・ティントは私の中で、ますます、かけがえのない「忘れられない一本」となった。今は手元にない一本、記憶だけを頼りに書いた、それでも、こんなことが起こるのだ。あるいは、使わなくなったからこそ、それでも忘れがたい本質だけが、結晶として自分の中に残ったのかもしれない。

皆さんの中にも、そんな一本はないだろうか。
現役で愛用しているものでも、思い出の中にだけあるものでも良い。メーカーも商品名も、覚えていなくても構わない。
自分だけの、 #忘れられない一本 として、語ってみるのも、悪くはない。

そのことを最後にお伝えして、筆を──もとい、シャープペンを擱きたい。