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親類が余命宣告を受けるのは、これで二人目だ。
一人目は母方の祖父。長くて三か月、と言われたひと月後に亡くなった。
あの時も夏だった。夏に始まって、夏にすべてが終わった。

今度は父方の祖母。
ガンがあちこちに転移して、気丈な祖母は「延命はせえへん。痛み取りだけで」と答えたらしい。少々見栄っ張りで、少々人嫌いの祖母。きつい口調の関西弁でまくしたてられたことを思い出す。
そんな祖母に育てられた叔父は、ドライでしっかりものである。対して同じく育てられた父は、事なかれ主義のポンコツである。長男ということで大事に育てられたからなのか、厳しくされすぎて事なかれ主義になってしまったのかはわからない。私にわかっているのは、父は大黒柱というよりもマスコットキャラクターに近い存在であるということだけだ。

そんな還暦を過ぎたマスコットキャラクターたる父は、祖母の体の状態を受け入れられないようだ。

「痛み取りなんて。もう、死ぬのを待っているようなもんだ」

いらだちを隠さず、自嘲気味に吐き捨てた。めんどくさい人だ。

自分の命について、自分で決断できる祖母をすごいと思う。祖母の決断を聞いて、さすがおばあちゃんだぜ、と答えた私を父は「なんて冷たい奴なのか」と嫌悪しているようだった。

この場合、泣いて取り乱す、が正解らしい。

とはいえ私から言わせてもらえば、他人の決断(しかも命にかかわるような)を「死ぬのを待っている」なんて言うことのほうがどうかしている。

私は結婚してから、祖母に会っていない。
結婚式も「遠方だから」という理由で祖母は来なかったし、その後に会いに行こうと思った時も「来なくていい」と断られている。祖母にとっての初ひ孫である息子が生まれてからも「来なくていい」と断られた。
それを聞いて母方の祖母や母は「普通会いたいって思わないかね?」と訝しがったし、夫は「ほんとにいいのかな?」と気をもんだが、私は「ああそうですか」としか思わなかった。
祖母は、私ごときに建前を話さないだろう。本音だと思うから、私はそのまま受け取らせてもらう。

そして今回、祖母の余命宣告を受けたことで再び「会いに行かなくていいのか」という話が小さくわいてきた。私は一瞬考えて、「行かない」と答える。だって祖母は長男である私の父にたいしても「別に、来んでええ」と言っているのだ。
こう聞くと「そうはいっても、行ったら嬉しいんじゃないか?」と思うかもしれない。いや、あの祖母に限って言えばそうでもないのだ。以前、父が祖母のところに行くといった時「来んでええ」と言われたが強行し、「なんで来るねん」と面倒がられたのだ。これはツンデレではない。そういう性格の人なのだと私は思っている。
二十年程前に祖父は亡くなり、それ以来一人暮らしの祖母である。「自分の好きに暮らしているから、今さら来客とかめんどうなんでしょ」というのが母の見解だ。建前で生きる母にとっては、祖母はいろいろと相容れない存在なのだ。

私は毎日、いつも通りに過ごした。
数日が過ぎたところで夫が「会いに行かなくて大丈夫?」と聞いてきた。

「うん。あっちも会いたいとは思っていないだろうし。大変なところにわざわざ行って、気を遣わせるのもちょっとね」
「うん、それは前に聞いたし、そうだなーって思うけど。君のことだよ」

私はスマホをいじるのをやめ、夫の顔を見た。

「会っておかなくて、君は後悔しない? それが一番心配」

たしかに。
死んでしまったら、もう会えないんだもんな。

私は考える。
たしかに。私は、自分の後悔というやつに関してはあまり考えていなかった気がする。

後悔、するだろうか?
最後に会っておけばよかったと思うのだろうか?
これは、取り返しのつかないことだ。ちゃんと考えるべきことである。


後悔、後悔……
後悔って、何だ?

私は「死ぬ前に祖母と会っておくべきだ」とか「会いたい」とは、なぜだかどうしても思えなかった。まったく思わないわけじゃない。だけど。


私がそこにいて、何かが変わるわけじゃない。


意識がなくなって半月近くそばにいた母方の祖父は、そのまま目を覚ますことなく亡くなってしまったし。
「もうすぐ死ぬかもしれない」という状態で会いに行くのは、死ぬ準備以外の何物でもないし。
それは大事なことなんだろうけど、それは会いに来られる側としたらどうなんだろう。会いに行って「これで悔いがないね」って心の中で思うのも。どうなんだろう。

何がいいとか悪いとかって話ではなく。単に、私がそれを「やろう」とは思えない。私の心と、行動と結びつかないのだ。



ふと、考える。
何がどうだったら、会いたいと私は思うだろうか。と。

関係が淡泊だから会いたいと思わないんだろうか?
であれば、たとえば以前勤めていた会社の社長だったらどう思うか。
速攻で答えが出る。「私は、会いに行く」。

それは世話になったとかどうだとかっていうこともあるけど、今の私を見てほしいから。
その社長は、大学卒業してニートな私を拾ってくれた稀有な人だ。ダメ元で飛び込んだ制作の会社だった。仕事は楽しかったが、私が体調を崩して三年足らずで退職した。

社長。退職してから、会社で覚えた腕でフリーライターになったんだよ。結婚もして、素晴らしい子供もいるんだよ。

社長。私、成長したよ。

だから、会いたい。


私の中の祖母は、十年くらい前に会った時のまま。祖母の中の私も、たぶん同じ。

結婚してから写真や年賀状は毎年送っているけど、記憶の中では最後に会った時のままじゃないかなぁと思っている。
今の私と、その時の私。今の私には、伝えることが特にない。結婚もして子供もいるし、家も買った。だけど、それは写真だけでも十分な気がする。

今朝、このひと月で何度目かの「心の準備を」という連絡が入った。
何度も「来なくていい」と断られたせいか、少々意地になっている気がしなくもない。

だけど、たぶん、もう会えない。

少なくとも、元気なうちには。
死ぬ間際であれば、祖母も「来なくていい。でも、いてもいい」くらいには思うんじゃないかと思う。

後悔はしない。
だって私には、「十年前の私よりも会わせたほうがいい今の私」があるわけじゃない。

私は私のままです。おばあちゃん。

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