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コミュ力に対する疑問

先日、数年ぶりに大学で講義を行う機会があった。
自分からお願いしたわけではないのだが、ありがたいことに声をかけてくださる先生がいたのである。

担当した講義は、コミュニケーションに関する内容であった。
自分は大学教員として、学生にコミュニケーションとは何かを教える立場であったが、そこで「コミュニケーション能力」に対して改めて疑問を持った。

今回の記事では、自分が疑問に思い続けていることについて書き連ねてみる。

ちなみに、コミュニケーションに関する内容は、過去にもいくつか記事を書いているので、読んでほしい。

ここから先に書くことは、個人的な疑問であり、何の根拠もない意見なのだが、世界は広いので共感してくれる人もいそうな気がする。

とりあえず記事にしてみたので、よかったら読んでほしい。


コミュニケーション能力は就職活動で重視される

いつから、「コミュニケーション能力」という言葉が世間で言われ始めたのだろうか。

自分がコミュニケーション能力という言葉を知ったのは、大学生の時だったと思う。
就職活動でよく耳にするようになったのが始まりだった気がする。

2018 年度新卒採用に関するアンケート調査報告」(日本経済団体連合会,2018)によると、新卒採用を実施している企業が、 新卒学生を採用する際に重視することとして、 2004年から16 年連続で「コミュニケーション能力」が第 1 位に挙げられている。

「2018 年度新卒採用に関するアンケート調査報告」(日本経済団体連合会,2018)

企業は、2004年ごろから、大学生にコミュニケーション能力を求めるようになったと考えられる。
本当に、コミュニケーション能力が必要なのだろうか。
企業が学生に求めているのは、コミュニケーション能力なのだろうか。

コミュニケーションの辞書的な意味

goo辞書によると、「社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと」と書かれている。

自分は、この定義にある程度納得している。なぜかというと、「伝達し合うこと」と書かれているだからだ。つまり、自分と相手がいて初めて、コミュニケーションが生まれるということだ。

それでは、その能力とはどういうことを意味するのだろうか?

コミュニケーション能力の学術的な定義

コミュニケーション能力とは、効果的で適切な伝達方法に関する知識と、その知識をさまざまな文脈で活用する能力と言われている

https://open.lib.umn.edu/communication/chapter/1-4-communication-competence/

コミュニケーションは「人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと」だが、コミュニケーション能力は「自分が相手に意思や感情、思考を伝達できること」なのだ。

ここに、何かしらの欠陥があるように感じる。

コミュニケーションを「能力」として捉えることで生じる弊害

世間では、コミュニケーションが下手な人や苦手な人のことを、「コミュ障」と揶揄することがある。

コミュニケーションが苦手だと思っている人は、自らコミュ障だと自己紹介する時も見かける。

このような社会現象は、コミュニケーションを「能力」として捉えるようになったことの障害の一つだと思っている。

「能力」と考えることは、次のような意味を含んでいるように思う。

  1. 生得的な部分があること

  2. 格差が生じること

  3. 優れているのが社会で善いとされること

上記のような点を前提にすると、コミュニケーション至上主義の社会構造が出来上がり、コミュニケーション能力が高い人だけが生きやすい社会になるような気がしてくる。

コミュニケーション能力という考え方は、「人間関係の問題を抱えている人は、その人の能力の問題である」という個人の知能に対する自己責任論を助長する危険性があると考えている。

少なくとも自分は、こんな社会を望んでいない。

安易に「能力」という言葉を使わないようにしたい

ここまで書いていて思ったことは、自分は「能力」という言葉が好きじゃないのだと思う。特に、コミュニケーションを個人内に閉じた「能力」と考えることに疑問を持っているのだと思う。

「能力」というものは世の中にたしかに存在していると思う。
スポーツや音楽などの世界を見れば、そのように感じる。

「能力」は「才能」という言葉に置き換えられるだろう。
ただ、コミュニケーションは「能力」なのか?
自分と相手とが関わり合うことが「能力」なのか?
別の言い方や表現はできないのか?

仮に、「技術」だと言われたらまだ納得できる。
コミュニケーションは技術的な問題なのだと言われたら同意する。
実際に、自分はそのような立場で、人づきあいを研究してきた。

技術なら学べる。
(改善したいかどうかは別だが、)改善の余地がある。
なぜなら、具体的な行動として考えられるだからだ。

ただ、能力と言ってしまえば、途端に目に見えない「才能」や「知能」を連想してしまう

もちろん、コミュニケーションを技術的に考える研究分野にも、「能力」として研究されている部分がある。

でも、「技術」と「能力」を分けて考えた方がいいと思う。

「技」と「才能」は別のものなのだと。

もちろん、才能があることで、優れた技が行える可能性はある。

自分が、このように考える理由は、コミュニケーションや人間関係について研究しようとする前に、武道(武術)を経験していたからだろう。

スポーツやビジネスの場面でも言われるかもしれないが、武道では、「心技体」という考え方がある。

自分は元々、コミュニケーションや人間関係は得意でも好きでもない。
そんな自分が、武道のように、コミュニケーションにも相手と対峙する型があるのであれば良いなという願望があったのだ。
このような期待に応えてくれそうな気がしたから、人づきあいの技術(「ソーシャルスキル」と言われる)を研究してきた。

自分にとって、「ソーシャルスキル≠コミュニケーション能力」だ。

ソーシャルスキルの研究者の中には、様々な考えを持っている人がいるため、自分の意見に対して異論を唱える人がいると思う。
ソーシャルスキルを「コミュニケーションスキル」や「コミュニケーション能力」と同義に扱う人もいる

でも自分は、コミュニケーションを「能力」として考えないようにしたい。

あえて言う。人づきあいは技術であると。

コミュニケーションは相手がいて、お互いの技術が交換・共有された上で成り立っているのだと。

ここに込める想いは、

  1. 心と技は別物であること

  2. 技は手段であって、目的ではないこと

  3. 技が上手であっても下手であっても、その人(心)が優れていたり、劣っていたりするわけではないこと

こんなことを思いながら、久々に大学で講義をしていたのである。

疑問を持ちながら教えることは、学生にとって望ましくないのかもしれないが、そんな性分なので仕方がない。

コミュニケーションについて教えられるような人ではないなとつくづく思いながら、コミュニケーションについては考え続けている。

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