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ラッセルの『幸福論』を読む〜〜損得を超えていけ

ラッセルの『幸福論』を読んだ。

この本は、タイトルのとおり「幸福」について書かれていて、たとえば「罪の意識」だとか「被害妄想」だとか、幸福の妨げになりそうなことをひとつずつ紐解いていくような章立てになっている。

そのなかで、私が「自分には関係なさそう」と思って読み飛ばした項目があった。「ねたみ」の章だ。

ねたみの感情を自覚したことがなかった。たとえば年収とか、なにかの成績とか、多くの人が比べあっているものに関心がないからかもしれない。

けど、読んでみると、じつはかなり強烈に「ねたみ」の感情を持っていたことを自覚した。


ゆっくり原理主義


「人生の幸福度を示す尺度は、食べた唐揚げの数である」とは、当時7歳の私が掲げた格言である。唐揚げ、めちゃくちゃ大好きだった。いまもわりと好きだ。この記事を読んでいるあなた、こんど一緒に食べにいこう!DMくれ!

月日が経ち、物心つきはじめて、「唐揚げ」が「風景を見ながらの散歩」や「森林浴」といった、「心身ともにゆっくり過ごせる時間」に変わった。

けれど、「何かを定量化して、その量で幸福を測る」というスタイルは変わっていなかった。

自分よりもたくさん散歩してたり、森林浴している人がいると、「うらやましい」という感情がわく。

ほかにも、平日のスーパーでゆっくり買い物してるおばちゃんとか、「急がなくてよくて、いいなあ〜」と思ってしまう。


ねたみの感情について、ラッセルさんはこんなふうに書いている。

ねたみは、ある意味で平等化を進める原動力になっている。あんなのずるい!不公平だ!という感情は、「足りてない人の満足度を補う」のではなくて「足りてる人の満足度を減らす」ほうに作用しがち。だから、ねたみは良くないよね〜。
ねたむ人は、要するに不満足なんだよね。それを、自分の満足を増やすことではなく、他人の満足を減らすことによってバランスを取ろうとしている。たんに満足すりゃいいのに!

これは、なるほど!たしかに!と思った。

社会って、こういうところあるよな〜。「デスクワークの奴はいつでもコーヒー飲めてズルいから、現場もデスクもみんな仕事中のコーヒー禁止!」みたいな感じのこと、よくある気がする。「誰か一人だけ得するぐらいなら、全員が損しろ」みたいな考え。まさしく誰得である。

私はさすがに「のんびり森林浴してる奴、忙しくなってしまえ」とまでは思わないけど、自分の満足を増やすことよりも、自他の満足/不満足を比較することに労力を使ってしまっていた。損得を比べていた。自分が損をしているという感覚に陥りたくなかったのだ。


俺たちの森林浴はこれからだ!

ねたむ人って、ものごとをそれ自体としてではなく、関係性のなかで認識してるよね。
古代と比べて、現代人は「得られる快楽の総量」は多いはずなのに、他にもこんな快楽もありえたかも、という考えが大きくなりすぎたよね。ねたむことで損してるよね。

ラッセルさんのこの指摘も、なかなか刺さる。「自分の趣味」ではなくて、「他人の趣味との比較のなかで成立している自分の趣味」を見ていたし、そこから得られる実感よりも、得た実感の量を気にしていた。

ならばもはや、それは森林浴でなくてもいいはずで、幸福の量さえ得られるなら他の趣味でもいいはずだ。だってもともと、そこには「唐揚げ」が代入されていたのだから!私は、ほんとうの意味で森林に浴していなかった。幸福の量に浴していただけだったのだ!

長年染みついた定量化と損得勘定はすぐには抜けない。ならばとりあえず、「他人との比較はトータルで損」と覚えておくのが良さそうだ。

「ゆっくりしてる奴、羨ましい」と思うその一瞬、ゆっくりできる一瞬のチャンスを逃しているのだから。比べてる暇があるなら、一瞬でもゆっくりしたほうが得!損得勘定を極めると、損得勘定の放棄に行き着くのだ!

そんなわけで、これからは、もっと自分の感覚を、それ単体で尊重しようと思った。森林浴や唐揚げのほんとうの旨味は、そこにしかないのだ。

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