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レベルに埋没するとどうなるか

 音楽がレコードやカセットテープ、CDと媒体を経て現代は配信なるものがその主軸になっています。インターネットというよりもスマートフォンの功罪だと思いますが、何にでも無料が優先される思考の果てに、最も送り届けるコストが安い手段が選ばれたのだと思います。
平成以後の歌については、「何を言っているのかわからない」「ことばが多すぎる」「早口言葉のようでついていけない」「自分のことを聞いてくれという感覚が強い」など時に辛辣な批評がされることもあります。まるで多様という魔法にかかった羊の群れのように誰もが「自分のことを誰かに伝えたい」教の熱心な信者のようです。

 外の世界のことを何も知らずに自分達のいるレベルに埋没していると、いつの間にか時間の悪魔がその時代もろとも消し去ってしまうことを覚悟しなければなりません。

 配信という最終兵器は、その功罪として大きな毒を秘めたパンドラの箱を開けてしまいました。レコードやカセットテープを買ったり、ライブを観に行ったり、本や雑誌を読んだりしなければならなかった外の世界に、誰でも簡単に触れられるようになってしまいました。
「昭和」というとんでもない時代の扉を開けてしまったのだと思います。
一度でも優れた物を体験してしまうとどうなるのか、工業製品や食品や衣料品で感じたことが、音楽を聴くということにおいても再現されるという皮肉な結果になったのだと思います。
動画サイトや配信サイトでは新曲もそこそこ再生されるものの、一旦昭和の楽曲に出会ってしまったら、もう今の曲を聴くことがバカらしいほどの世界観で過去から現代に戻れない人が続出する始末です。「本当に良いものしか生き残れない」という時間の厳しいザルに漉されたものというのは、
「通っていった所が道になる」という甘っちょろい世界ではなく、
「刻まれていった足跡でなければ道にはなれない」という厳しい志があってこそ生み出されたものだと思います。

余計なお世話かもしれませんが、一般大衆が好む歌謡曲やテレビ番組、アニメやコマーシャルなどの世界に限れば、このままいくと「平成」も「令和」も後になかったことになってしまうかもしれません。
 おそらく団塊の世代が「懐メロ」という言葉と結びつく最後の世代だと思いますが、あと十年から二十年でその世代も終焉を迎えます。昭和はもう「懐メロ」を通り越して、エバーグリーンという「永遠」を手に入れるかもしれません。炎のような才能がぶつかり合って生まれた作品や番組が、「お手々つないで仲良く前進」という時代の脆い妄想を踏みつぶしていることに一体どれほどの人が気付いているのでしょうか。

面倒でまどろっこしくて、時間がやたらとかかって、質を上げることに多くの労力を費やさねばならなかった時代は、その代償として全く何もない所から多くのものを産み出しました。現在盛んに行なわれている「ジェネリックやレガシーの上澄みだけを利用する」という安易な発想とはかけ離れています。流れるプールの中にいるように、時代にそのまま体を預けて何もしようとしなければ、新しい発想など産まれるはずもありません。

毎日歌会と称して短歌を投稿できるサイトや、ツイッターなどで吐き出される無数の短歌モドキに象徴されるように、人目に触れさせることは簡単に出来てしまいますが、たくさん作ったからといって感性や言葉のセンスが磨かれるということはないと思います。
同じく毎日たくさんの短歌を読んだからと言って、格別読解力が上がるわけでもありません。機械的に作られた同じ波しか巡って来ない流れるプールの中に居続ける限り、自動的に進化したり、変わったりすることはありません。レベルに埋没していることに気付かなければ成長などあるはずもないのです。
それはまるで真っ暗な穴の中で戦々恐々として震えている獲物のようです。時間という強大な捕食者を前にした時、言葉の剣を抜くことすらままならないでしょう。
いい加減に「既視感」に見切りをつけて「未視感」へと変化しなければ、短歌に未来などないのかもしれません。

これは言い得て妙。悪い意味で変化できなければどうなるのかを、良い意味で変化せずに孤高となったヘビにたとえられた傑作です。

3/33 「手も足も出せぬ変わらぬ移ろわぬ極める不安 ヘビの顔して」

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/