母の日に。

1987年の春、私が小学5年生の時に、 母の生まれ故郷である鎌倉市のとある小高い丘上の住宅地に、両親は念願のマイホームを建てた。今でこそ見慣れてしまったけど、母が数々のカーテン生地やタイル見本ファイルやら照明カタログを山積みにしながら持ち前のコミュニケーション力を生かしてインテリアデザイナーや庭師らと一緒に着々と家を完成させていった。 小学生の姉と私がクルクルと踊れる位幅広のキッチン、珍しくダークブルーのセラミックでできたバスタブと、丁寧に一枚ずつ敷き詰められた真っ白なタイルのバスルーム、綺麗な芝と何種類もの樹木がバランスよく配置された庭、アレルギー体質の父や私の為に、家のほぼ全面に使用されたフローリング、雨の日も曇りの日も陽がさし、サルスベリが望めるダイニングの出窓、照明ひとつひとつに至るまで、当時にしてはかなりこだわりのある仕上がりになっていた。倹約家の両親は、こんな風にこだわりつつも、予算が合わなければ素材を考え直し時には妥協して別のものに置き換えたりしながら、なんとかバランスをとって、このマイホームの夢を叶えた。 こうして、こじんまりと、しかしギッシリと宝物がしまわれた宝箱のように建てられた家は、豪邸などという言葉は決して似合わない。母の優しさと来客へのおもてなしや、エンターテイメント性の高いオープンな性格が良く現れていて、例えれば郊外のコテージの様な邸宅だ。 鎌倉市に実家があるというと、大抵の友人からは、高い塀に囲まれ鬱蒼とした木々に代々受け継がれた大きな瓦屋根の民家を想像されがちだが全くその様な類の家ではない。愛情たっぷりに建てられた茶目っ気のある我が家は、どちらかと言うと当時の流行りを少し取り入れた、日本に住む外国人が郊外に建てた別荘風である。 当時はこんな風に考えた事もなかったが、 家は母そのものの姿ではないか、と思ってしまう。 姉と私は、それまで住んでいたマンションの6畳の勉強部屋兼ベッドルームを共同で使っていたが、初めて6畳の1人部屋を与えられた。 マットなチーク材のフローリングと小高い家から見下ろす風景。何もかも新しく、西洋的で、遠く外国へ越してきた様な錯覚すらあった。 従兄弟家族とのBBQ、母の友人や幼なじみを招いたホームパーティ。私や姉の同級生も呼ぶ事は多かった。 新居で暮らす様になって、私が1番好きな風景があった。それは意外にも母が居間で長電話する姿だった。オニューのプッシュホン式電話。マンションで使っていた黒電話から一転、真っ白でボタンがフラットになったものだ。 2階の電話を呼び出すことも出来たし、玄関のインターホンを受け取る事もできた。その電話の横のダイニングテーブルに座り1-2時間話しながら、時には大爆笑したり深刻そうに話し込んだり。相手は叔母だったり、前のマンションの仲間だったり、幼馴染みだったり。当時内向的だった私にとっては、何故そんなに友人が多いのか、何故そんなに話すトピックがあるのか、そんな母が不思議で仕方なかった。あの頃はメールもLINEもビデオチャットもSNSもないから電話と手紙だけが外部と繋がるツール。電話で長く話せる事がまるでスピーチでもしている様にすごい事に思えた。 2階で勉強するふりをする私は、よくその母の楽しそうに上手に談笑する声をBGMに、本を読んだり絵を描いたりしながら、誇らしく感じたものだ。 母は、マンションから一軒家に移り、きっと気兼ねなく大笑いしたり大声でお喋りする自由を得て、大らかな気分になっていたのだろう。その喜びが伝わってきて私は心底嬉しかった。 そして何より母の社交性が羨ましくもあり、憧れだった。 新居が建ってから35年たった今も、母が手塩にかけた家は何も変わらずスクっと立っている。 白いプッシュホン電話も黄ばんでいるがしっかり掃除されて問題なく動くし、キッチンも改装したバスルームも良く手入れされた庭も、花が大好きな母がいつもパンジーやベコニアなどを飾っている玄関も35年前と殆どかわらない。 物を大切にし、修理しながら長く使い続ける母。大好きなものにとことん愛情をかける母。セッカチで几帳面で頭の良い母。 今でこそ後天的に社交性を持った私の性格は生まれつきのものではない。だからとても母とDNAが繋がっているとは思えないけど、そんな母に大事に厳しく育てられた事にお返ししないとなぁ。飄々と立つ我が家みたいに、そろそろ私も風格が出てこないから心配していないかなぁ。 と、45歳にもなって未熟で浅はかで落ち着きのない自分を、いつか母は立派になったと言ってくれるだろうか、と考えてしまう。 母の日とは私にとって、そんな風に出来の悪い子供である自覚をし、母のかけてくれた愛情にひたすら感謝する日なのであった。 #みにがたり

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