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私のこと

平成二年生。
20代で海外渡航歴は10ヵ国以上になりました。
だからこそ、日本って素晴らしいなと分かりながらも
2023年現在、バンクーバー生活2度目が幕開けとなりました🎉

料理好き。最近はキムチや塩麹を作ろうと思ってる。
炊飯の為に土鍋を持ってきた、ヤバイ人です🤪
こちらはケーキが甘すぎるので、チーズケーキなんかも作ります😉



1990年 生誕

鳥取県という、山と日本海に囲まれた大自然にて生まれる。
小柄だった為にホルモン注射を打つ選択もあったようだが、”ありのままを”という両親の想いにより、私は142㎝という最高記録を現状維持することとなる。

今でこそオーガニックや有機などのフレーズに馴染みはあるものの、察するに90年代はちょっと変わった思考の人。という印象はあったのだろう。
私の両親は俗に言うそっち系ではあるのものの、スナックやチョコ菓子は普通に食べていた。むしろ田舎なので、庭にある琵琶の木から採って食べたりなど、今思えば豊かな子供時代だったと思う。

そこからも見て取れるように、両親は我が信じる道を歩むタイプの2人で、当時はかなり珍しい夫婦別姓。
私は母の姓だが家族みんな同じ家で住み、苗字を並べる機会がなければ全くそのような事に気が付かれない、そんな家族だった。
私に結婚願望なんていうものが無いのは絶対的に両親の影響を受けていて、籍を超えた愛情を目の当たりにしていた。
なので正直に言うと、結婚は手続きとしか思えない。けど素晴らしいものでもあるとも思ってるよ。
私は心で繋がれる大好きな人と、一緒にいれたらそれで良いと本気で思っている。



初めての海外

私が今、こうして海外生活に興味を持っている理由のひとつに、間違いなくこの時期の経験が影響していると思う。

初めての海外は、母と私2人でのシンガポール。
仕事関係の懇親会のようなものがあり、私はおまけでついて行った。というより、両親は何よりも経験を重視するタイプだったので、学校を休んでも行かせてもらえた。

多宗教を感じる国シンガポールは、ド田舎で育った13歳の私にはあまりにも衝撃的。
空港や駅でさえも近未来を感じるその全てに魅了され、今でも当時の記憶を鮮明に思い出せる。

ところで、遺伝子って恐ろしいなと思うことは私だけではないのだと思うのだけれど、深く考えずに行動するとか、おっちょこちょいな私の一面は、間違いなく母親譲り。
ある夜、母が私たち2人のパスポートと財布が無いと騒ぎ出した。
日本大使館への連絡やクレジットカードを停止したり、深夜であったはずの日本で待つ父にも国際電話をかけ、父と一言どうぞ!と出された電話機の向こうから「そうか…」と力ない声を聞き、事の重大さをなんとなく実感したのであった。
結局、枕の下に全て置いてあることを完璧に忘れていた母のおっちょこちょいなのだが、そんな驚異の遺伝子を受け継ぐ私であっても、貴重品の管理は怠らず未だにスリに遭わないのは反面教師なのだと思う。



初めての海外交流

国によって全く価値観などが異なるし、現地の人と交流し衣食住を共にして初めて見えてくるものがあると思う。

14歳 当時の私はスポーツをしていたのだが、鳥取県がロシア ウラジオストクと交流を深めるとのことで、ホームステイを受け入れたり、私が現地に行きホームステイを体験するといった出来事があった。
謙遜ではなく私は実績があったわけでもなく、上手かったわけでは全くない。運と人に恵まれていたお陰でそのような体験ができた。

初めて食べるボルシチやピロシキ、熊の肉。
シンガポールとも違う風味や特徴に驚き、食文化を通して国への興味が沸いた。舌がませたのはこのあたりなのかもしれない。

英語は5教科で一番得意だったのだけど、実践は全く違う。
自分もなのにこんな言い方をして申し訳ないけどアクセントが強く、全く会話が成立せず別の話題になってしまったものの、次は物などを使ったり工夫してお互いに会話を続けようとした事は今でも良い思い出。
今ではスマホを片手に、翻訳だけではなく発音すら代わってくれる便利な世の中だけど、不便さゆえに自分なりに考えて伝える姿勢は今の私の糧になっていると思う。



最初の一歩がしんどい

そんな10代を過ごしたからか、ただ単に郷土料理に興味があった食い意地なのか。
社会人になってからはイタリアやフランスへ半月ほど旅行したり、親を連れてバリ島旅行、インドへ1週間の一人旅は経験してみたものの、1か月以上の長期滞在を経験してみたいと思うようになった。
バックパッカー、ワーホリ、留学。たくさん選択肢があると決められない。
そんなのは言い訳で、準備はもう十分にできていた。
誰でもいいから背中を押して…むしろ蹴ってくれ!と思っていた頃に、そのような人が現れ私の背中を優しく押してくれた。


初めての留学 マルタ共和国

そんなドキドキの中、私が選んだ留学先はマルタ共和国。
イタリア国土の形をブーツで比喩表現されるけど、その靴先あたりに位置している小さな島国。
4月から3ヵ月間の短期留学だった。

4月のマルタは海風もあってか寒く、日没にはとてもじゃないけど外出は気分が乗らなかった。
それでも5月あたりになれば日中は暑く、宝石のような海で泳げるほどだった。

フィリピンが格安留学の鉄板イメージだとは思うがマルタもその内の一つで、決め手となったのはヨーロッパということだった。
2016年のレートではあるが3ヵ月30万円ほど。3人一部屋キッチン・ウォッシュルーム付き寮、1クラス10人前後の授業のプランで、先生も含めて十分満足できるものだった。

私はとにかくできる限り多くのヨーロッパに行きたくて、LCCであるRyanairがマルタでも普及していることを理由にそこにした。
と言っても平日は学校があるし頻繁に休む訳にもいかず、当初思い描いていた様にはいかなかったけれど、イタリアへ2回、イギリス、スペイン、フランスと周れたのはとても良かった。



カナダへワーホリに行く


28歳 マルタでの経験をエネルギーに、カナダ バンクーバーへワーホリすることを決めた。
バンクーバーの情報は全てネットにあったはずだが、右も左も行ってみない事には結局わからない。気候が日本に似ている事を理由に決め、それ以外はあまり何も考えなかった。

バンクーバーの第一印象は、人が優しい。
空港からホームステイ先まで電車やバスを乗り継いで行くのだが、当然ながらシステムを理解しておらず、四苦八苦するも運転手が優しくしてくれた。
翌日必要な手続きを全て済ませて、職探しをするのだけど割と早い段階でローカルのネイルサロンで働くことが決まった。

初めて海外で働く

ネイルサロンのオーナーは韓国系カナダ人なのだが、日本に滞在していた時期があるらしく、ほとんど英語で会話することはなかった。
日本人スタッフも数名いたので、仕事で必要なフレーズを教えてもらったり、ピンチの時には助けてもらった。
お客さんは全員ローカルだったので、毎日ドキドキ。
早口で聞き取れない話し方をする意地悪なお客さんもいたし、$30ほどのサービスに対して$50のチップを直接渡してくれる人もいた。

バンクーバーのどこに魅力を感じたかと聞かれると、未だに即答はできないけど(笑)
1年で帰るのはなんだか寂しくて、ワーホリ後にワークビザで働けることを目標に動くことにした。

目標が定まった時の集中力とエネルギーは自分自身でも驚くほどなのだが、決めた翌日にまずはネイルサロンのオーナーに交渉してみた。
結論を話すと、ネイルサロンは辞めることとなりワークビザが比較的にサポートしてもらい易いと言われている飲食店にフォーカスした。

最初の飲食系での仕事は店舗ではなく、下ごしらえだけをするセントラルキッチンと言われるものだった。
接客がない作業感がどうも苦手で、1日で辞めることにした。
バンクーバーではトライアル期間といって、企業と従業員間に設けられたお試し期間が存在している。
なので、即日で辞める事に罪悪感を抱く必要はないし、働いた時間は必ず給料も発生するのでとても良いシステムだと思う。

ルームメイトのお陰で日系の寿司屋を紹介してもらい、ワークビザをサポートしてもらえることとなった。
ちなみに私は、今現在でもバンクーバーでの職探しに困った事がないのだけど、面接やレジュメのコツを近々紹介したいと思う。
なぜならエージェントは私のようにアドバイスはしないだろうし、SNSなどを見ても多分、ない。
周りを見ても苦労している人を見かけるので、私の実体験やコツなどを参考にしてもらえたら本当に嬉しい。



2023年の今のわたし

1年半ほど帰国していたので大まかにはなるけど、バンクーバーでの生活も5年目になる。
移民している訳でもなく帰国して再びコープビザなどでバンクーバーに戻ってくる人は珍しく、よく理由を聞けれるが、格好つけると経験が得られるから。
本音を言うと、2020年から付き合っている年上増増のカナダ人がいること。日本で働くより稼げること。趣味から派生したキャンドルを販売する楽しみがここにあるからだ。



最後に

ここまで読んでいただけて、本当に嬉しいです。ありがとうございます♡
実は6歳の時に小説家になりたい、文章を書きたいと思ったことを今でも覚えていて、けど悲しいことに語彙力が無いのだけど😂ん?と思っても流してね♡
少なくとも私が経験してきたことは、誰かにとってのアドバイスにもなるだろうし最初の第一歩になるのかもしれない。
私が出会ってきた人たちのお陰で、経験ってアドバイスになるんだと。そう思えたこと、こうして記録できることに感謝しているよ🥰


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