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第8回【斉の明暗】その2【先従隗始】進撃の軍神

 東方の超大国として春秋戦国時代のメインプレイヤーの一角を担っていたのがせいです。紀元前300年ごろ全盛期を迎えた斉でしたが、一人の名将によって滅亡寸前まで追い詰められます。
 弱小国・えんの将軍・楽毅がくき。世界史上最高峰の名将はどのようにして超大国を蹂躙したのでしょうか。

世界史上でも屈指の名将・楽毅

子之ししの乱

 現在中華人民共和国の首都は北京ぺきんですが、春秋戦国時代の政治・文化の中心地は黄河流域で、現在の北京周辺は辺境の地でした。
 北京周辺を支配していた燕はしゅう王朝のに連なる家柄でしたが、辺境の中小国として記録もあまり残されていません。

 紀元前316年にこの燕で大事件が発生します。当時の燕王・かいが宰相の子之ししという人物に王位を譲ったのです。
 当然国内は大混乱に陥ります。最終的には紀元前314年斉やちょう武霊王ぶれいおうの介入を招きます。当時の斉は孟嘗君もうしょうくんの伯父・宣王せんおうの時代でした。宣王の王太子・後の斉の湣王びんおうによって燕国内に侵略した斉軍は燕王・噲も子之も殺害してしました。
 燕はこの時事実上滅亡してしまいましたが、斉は服従を条件に燕王・噲の息子に対して即位を認めました。
 
こうして紀元前312年、燕の歴史上最高の名君・昭王しょうおうが即位しました。

かいより始めよ

 即位の経緯もあり、昭王は斉に対して強い敵愾心を持っていました。即位後すぐに富国強兵と人材登用に努めました。特に人材登用には力を入れ、郭隗かくかいという賢者に意見を求めます。
「まずは私を厚遇してみましょう。私程度の凡人に対しても手厚い待遇をしてくれると評判になれば、多くの有能な人材がやってくるでしょう」
郭隗の言葉通り、燕には陰陽いんよう家の鄒衍すうえん縦横じゅうおう家の蘇代そだいなど多くの人材が集まるようになりました。

 大きな成功を得たいなら、身近なところから行動するのが良いという意味で使われる
「先ず隗より始めよ」
の出典はこのエピソードに由来します。

 燕に集結した人材の中でも特に有名なのは楽毅です。楽毅は元々武霊王によって滅ぼされた中山ちゅうざんの出身でした。中山滅亡後は趙に仕えていました。趙ではその頭脳と軍事的才能を評価されていましたが、沙宮さきゅう事件で武霊王が死んだ後は趙を離れてで士官していました。ある時魏から燕へ外交使節として派遣された際に、昭王によってスカウトされ、燕で将軍として働くことになります。

 燕が発展する中、斉では名君と言われた宣王が死にその子・湣王が即位します。湣王の時代は孟嘗君もうしょうくんの活躍もあり斉は全盛期を迎えます。古のいん王朝の末裔にして、春秋しゅんじゅう五覇ごはのひとり・そう襄公じょうこうを排出した伝統国・宋を滅ぼしたことは斉の強さを示す象徴的な出来事と言えるでしょう。大陸の西では秦の勢いが盛んになり秦王は西帝せいてい斉王は東帝とうていを名乗る二強時代が到来していました。

 しかし、この湣王は君主としての資質はあまり高くなかったようで、傲慢な性格で国内外から嫌われていたようです。孟嘗君の人気や能力を危険視して罷免するということもありました。

昭王に人材登用の大切さを説く郭隗

済西せいせいの戦い

 驕れる超大国・斉に弱小国・燕は戦争を仕掛けます。
 斉は宋を滅ぼすことによって、、趙との国境に火種を抱える事になってしまいました。勢いで戦争した結果、勝ったはいいものの逆に苦しくなるのは歴史ではよくあることです。

 楽毅は斉と利害対決が発生した諸国の力を集結して対斉連合・合従がっしょうを組織。この合従軍に参加したのは燕・趙・魏・かん・秦の5カ国でした。

 紀元前284年、斉軍と燕を筆頭とする合従軍は黄河の支流・済水せいすいの西のほとりで激突します。連年の出兵によって疲弊していた斉軍は合従軍の前に惨敗合従軍はここで解散して秦軍と韓軍は本国に帰還。趙軍と魏軍はそれぞれ斉と争っていた領地の確保に向かいます。

 後は燕と斉で条約を結び、斉の領土をいくつか割譲するのが通例でした。実際に資治通鑑しじつがんという歴史書の記述では燕の将軍・劇辛げきしんは楽毅に進言します。
「斉は大国で燕は小国です。諸侯の力を借りて勝利することができたので、国境付近の領土を得れば良いでしょう。これ以上の戦いは利益はなく、恨みを買うだけです」
劇辛の意見は当時の一般的な将帥としては極々自然なものです。

 しかし、楽毅は一般的な将帥ではありませんでした。三国志さんごくしの英雄・諸葛孔明しょかつこうめいが目標とした、名将の中の名将です。楽毅は劇辛の意見に対して反論します。
「斉の湣王は軍事的な成功に驕り、賢者を排斥して佞臣を信任し、悪政を働き民衆は苦しんでいる。斉軍が崩壊した今、反乱が発生して調略もうまくいくだろう。体制を建て直されては厄介だ」

 楽毅の指揮の元、燕軍は斉の首都・臨淄りんしを攻撃し、これを攻略します。湣王は逃亡し、救援にやってきた楚の将軍・淖歯たくしと合流します。しかし、傲慢の態度を取り続ける湣王は助けに来たはずの淖歯に殺害されてしまいました。当然、淖歯は斉の人々からの反感を買うことになり、最終的に彼もまた殺害されてしまいます。

斉攻略戦

 斉陣営が混乱を極める一方で燕軍は70以上あった斉の城市を次々と攻略していきます。資治通鑑の記述によれば6ヶ月ほどの内に70の城を占拠したとあります。当然これは驚異的なスピードです。
 これほど早くに斉国内を攻略できたのは、楽毅は略奪を禁じて斉の民衆を差別することなく、彼らの生活を保障しました。減税を実施して、残酷な刑罰を撤廃していった結果、斉の人々は燕軍を喜んで迎え入れました。
 楽毅の洞察が正確であったことがわかります。

 斉の拠点は現在の山東省日照市にっしょうしにあたるきょと山東省青島市ちんたおしにある即墨そくぼく2箇所のみとなってしまいました。莒には淖歯を殺害して王位についた湣王の息子・襄王じょうおうが立て籠もり、決死の抵抗を続けましたが、まさに風前の灯火です。

 楽毅は無理な力押しはせずに持久戦を展開しました。
 これに対して燕国内では楽毅の戦功に嫉妬する者も現れて昭王に讒言する者も現れました。
「楽毅が斉の70城を制圧しながら残り2城に手間取っているのは、燕から独立して自分が王になろうと野心を持っているからです」
昭王は答えます。
「斉に勝利し恨みを晴らすことができたのは燕の力ではなく楽毅の力に拠るものだ。もし楽毅が斉で独立するのであれば、同盟を結んで一緒に他の諸侯に対抗できるだろう。これは燕にとっても幸せであり、私にとっても本望である
昭王は讒言した者を処刑し、本当に楽毅に対して斉王即位の許可を出します。楽毅はこれを断り、昭王に対してより強い忠誠を誓いました。
 敵国であるはずの斉の人々も楽毅の人柄を褒め称え、諸侯はこの信頼関係を引き裂くことは不可能であると知りました。

圧倒的な強さで楽毅は大国・斉を攻略していった

もう一人の天才

 各国の混成部隊である合従軍を見事に統率して勝利した事。戦力を分散した上で大国・斉の各都市を同時多発的に攻略した事。そのどちらも通信機器等が存在しない古代世界においては離れ業と言っていい偉業です。
 しかし、楽毅が高く評価されている理由は単純な戦闘の才能だけではありません。同時代の人物と比べても明らかに高い視座から戦略を組み立てていることがわかります。
 その戦略眼は一介の武人の範疇を超えていると言えます。更に占領地の統治についても見事というほかありません。普通であれば占領した敵地は略奪の対象となるのですが、明らかに『その後』を見据えた行動をとっています。これは湣王が何のヴィジョンもなく宋を滅ぼした結果窮地に陥ったのとは対象的です。

 これは完全な私見、妄想ですが、劇辛や昭王の考え方はこれからも諸侯が存在する時代を前提としていたものです。しかし、楽毅の行動は新しい統一国家を目指していたとも解釈でき得るものです。
 我々は日本や中国の戦国時代を未来から知っているので、天下統一という言葉に違和感を覚えることはありません。しかし、その時代を生きた、生まれる前から戦国時代が当たり前だった人々にとって、天下統一という言葉は決して当たり前ではありません。大半にとってはたくさんの国があって当たり前、ひとつの大きな国がすべてを支配下に置く世界なんて考えもしなかったはずです。
 これより後の楚漢戦争に活躍した覇王・項羽こううや楚の軍師・范増はんぞう、漢の説客・酈食其れきいきなど、その時代の一流の人物であっても諸侯がいる世界を前提にした言動が見られます。
 しかし、もしかしたら楽毅は諸侯の時代の終わりと、大帝国の時代の到来を予感していたのかもしれません。

 このまま斉攻略が成功すれば燕は大国・斉を吸収し、西の秦を越える戦国最強国家が誕生していたはずです。しかし、そうはならなかったのは皆さんご存知のとおりです。
 不世出の天才・楽毅の斉攻略を頓挫させたのは、斉の窮地に出現したもう一人の天才・田単でんたんでした。

 皮肉な話ですが、楽毅が斉を追い詰めなければこの田単はおそらく歴史にその名を刻むことはなかったはずです。ただの市場の小役人としてその生涯を終えたはずの人物でした。しかし、楽毅の戦いによって田単の本来目覚めるはずのなかった能力が覚醒します。
 そして、両雄の激突は誰も予想しない結末を迎え、歴史の潮流を大きく変えることになります。