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第10回【始皇帝】その1【奇貨可居】史上最大のもうけ話

 しん昭襄王しょうじょうおうは在位53年と長きに渡り君臨し続けました。在位期間があまりに長かったため、後継者候補だった王子たちも何人かが昭襄王に先立ってしまうということもありました。
 紀元前265年、最終的に安国君あんこくくんと呼ばれる嬴柱えいちゅうが太子として選ばれることになります。昭襄王はこの時60歳を越えており、後継者である安国君にも既に20人以上の子供がいました。必然的に安国君の後継者、つまり次の次の秦王の座を巡り様々な駆け引きが繰り広げられることになります。
 安国君の正妻・華陽かよう夫人に子供がいないという事実が、後継者争いを激化させることになりました。

奇貨居くべし

 安国君の妻妾のひとりに夏姫かきという女性がいました。彼女は一人の男子を産みましたが、史記には
「愛し」
と、記されています。異人いじんと名付けられた夏姫の子はちょうに人質として送られて育つことになります。秦にとって異人は身分こそ王族ではあるものの、あまり重要視されていなかったことがわかります。
 具体的にいつ趙へ人質として送られたのかは不明ですが、紀元前258年年に秦に帰国しており、その前年の紀元前259年には趙で妻とした女性との間に子供をもうけています。趙兵40万人が虐殺された長平ちょうへいの戦いが紀元前260年ですから、異人の立場は非常に危ういものでした。

 不遇の王子に一人の男が接近してきました。呂不韋りょふいという男はかん、あるいはえい出身と言われる商人で、仕事のため趙の首都・邯鄲かんたんにやって来ました。
 異人に接触した呂不韋はこう発言したと言われています。
奇貨きかなり。くべし」
有名な"奇貨おくべし"という言葉は呂不韋に由来します。
 奇貨とは世にも稀なお宝です。異人は得難いお宝であり、確保しなくてはいけないといったわけです。
 呂不韋は異人の隠された本当の才能に気がついていた……わけではなかったと思います。後に秦の荘襄王と呼ばれる異人ですが、彼は早くに亡くなったため個人としての能力がわかるエピソードはあまりありません。そのため、異人が有能だったか無能だったかは定かではありません。

 呂不韋が注目したのは異人の境遇でした。
 まず、異人は次期・秦王である安国君の子供であるという血統です。しかし、安国君の息子は20人以上いる上に異人の地位はその中でも底辺に近い場所でした。

 次に異人は後継者候補から遠かったため、後ろ盾や取り巻きがいませんでした。後ろ盾等いなかったため不遇だったとも言えますが、これが呂不韋にとって好都合でした。
 他の身分の高い王子に取り入っても、既にいる取り巻きたちと出世レースをすることになります。この場合、他国の商人である呂不韋はかなり不利な立場となります。
 後継者レースの圏外にいた異人を秦王にできれば、その功績は呂不韋一人に集中することになります。

 そして、安国君に最も寵愛されている華陽夫人に子供がいないという状況です。子供がいない以上、安国君の後継者が決まるとその寵愛と権力は後継者とその母親に遷ってしまいます。
 華陽夫人にとって自分の美貌が衰える前に、自分にとって都合の良い後継者を選定する必要がありました。

疑惑の子

 呂不韋は自身の財力をフルに使って異人をプロデュースしていきます。
 生活の援助はもちろん、著名人との交流の席をもうけることで異人の名前は社交界の中で徐々に大きな存在になっていきました。
「趙にいる秦の王族・異人は見どころのある若者じゃないか」
こんな評判は秦の安国君や華陽夫人の耳にも入るようになります。

 呂不韋は華陽夫人に接触を図ります。
 異人を華陽夫人の養子にして安国君の後継者に推薦するよう、呂不韋は説得します。
 子供がいない華陽夫人が宮中での権力闘争に勝ち続けるには養子を迎え、その養子を安国君の後継者にすることでした。しかし、下手に生母やその家の力が強い子供を養子にしてしまうと逆に地位を脅かされることになります。普通に考えたら養母と生母では生母の方が立場が強いですからね。
 異人の生母が安国君からの愛が薄く、呂不韋以外の支援者もいません。そんな異人が華陽夫人の助力で後継者になればどうなるか。異人は華陽夫人に頭が上がらず彼女の地位は安泰と言えます。
 異人は見事華陽夫人の養子となり、安国君の後継者に選ばれます。華陽夫人はの出身であったため、異人は名前を子楚しそと改めました。

 呂不韋には邯鄲で出会った愛人がいました。歴史では彼女を趙姫ちょうきと呼びます。趙の女性という意味で本名等はわかりません。
 かなりの美貌だったようで、子楚は呂不韋に趙姫を譲って欲しいと言います。ここで子楚の機嫌を損ねては今までのマネジメントが水の泡です。
 趙姫は子楚の妻となり、紀元前259年に男の子を出産します。史記呂不韋列伝には趙姫はこの時妊娠しており、それを隠して子楚に嫁いだと記述されています。この時生まれた子供はせいと名付けられ、後に始皇帝しこうていと呼ばれるようになります。

 始皇帝の本当の父親は誰なのか、古来から議論されてきた話題ですが、現在まで確実な答えは出ていません。おそらく今後わかることもないでしょう。

国父・呂不韋

 長平の戦い以降、秦と趙の関係は険悪なものになっていきます。趙国内では子楚やその妻子を殺すべしとの声が高まり、子楚は秦に帰国し政も趙国内で身を隠すことになります。
 紀元前250年に長く王位にあった昭襄王が亡くなります。昭襄王の喪が明けると安国君が予定通り王位を継ぎますが、即位3日で死亡します。享年は51才、孝文王と諡されます。

 子楚がその跡を継ぎ秦王に即位します。
 後に荘襄王と呼ばれる子楚の治世は短期間でしたが、対外的には連年出兵を繰り返していました。しゅうの残存勢力を完全に駆逐したのもこの時期です。
 また、せい出身の将軍・蒙驁もうごうの活躍が目覚ましく韓、趙、の領土を次々と攻略していきました。
 しかし、紀元前247年に魏の王族である信陵君しんりょうくん率いる5カ国連合・合従がっしょう軍の前に蒙驁率いる秦は破れています。長平の戦い直後の邯鄲包囲戦でも秦は信陵君に敗れています。
 一強時代の秦相手に2度も続けて完勝した信陵君ですが、その才能と名声故に兄である魏の安釐王あんきおうに嫌われ、歴史の表舞台から退場します。

 荘襄王・子楚は即位からわずか3年目の紀元前247年に亡くなります。跡を継いだのは趙姫との間に生まれた、当時13歳の政でした。
 新たな秦王・政の脇を固めるのは将軍としては蒙驁王齮おうき麃公ひょうこう。ブレーンとしては呂不韋の食客だった李斯りし。そして臣下の最高位である相邦しょうほうであった呂不韋は
「父に次ぐ者」
という意味の仲父ちゅうほの称号を得ました。
 キングダム読者ならよくご存知のメンツですね。

一介の商人から秦の相邦まで昇りつめた呂不韋

嫪毐ろうあいの乱

 かつて趙姫と呼ばれていた秦王・政の母親である趙太后は元々呂不韋の愛人であるとされています。そして、史記呂不韋列伝には秦王・政即位後にも関係があったと記されています。
 しかし、この関係が秦王・政に露見することを恐れた呂不韋は趙太后に新しい愛人を斡旋します。
 当時呂不韋の権勢は絶大であり、かつてのせい孟嘗君もうしょうくんのように3,000人もの食客を抱えていました。先述した秦王・政のブレーンである李斯も元々呂不韋の食客でした。呂不韋は嫪毐ろうあいという食客を趙太后に宛てがいます。

 嫪毐という男を語るにあたってnoteの規約に抵触する恐れがあるので、ふわっとした言い回しになりますがご了承ください。

 嫪毐はデカイ、太い、固いの三拍子揃った逸物の持ち主でした。宦官かんがんとして趙太后に仕えることになった嫪毐ですが、趙太后は嫪毐に夢中になり子供が2人も生まれてしまいます。もちろん宦官になったというのは偽装で、嫪毐の立派な逸物は健在でした。

 紀元前239年、秦王・政の弟・成蟜せいきょうによる反乱が勃発します。この反乱鎮圧後に嫪毐は広大な領土と財産を得て、呂不韋に次ぐ権力者となります。反乱鎮圧に功績があったという説もあります。
 食客千人とあるので、財力も名声もかなりのものだったと思われます。
 しかし、その権勢の裏では皇太后との不義密通というとんでもない爆弾を抱えた状態での話です。さらなる権力を求めたのか、それとも破滅の種を除こうとしたのか嫪毐と趙太后は秦王・政への反乱を起こします。
 史記を読む限りは趙太后の方が秦王・政の殺害に積極的だったようです。

 紀元前238年、成人の儀式のため首都・咸陽かんようを不在にしたスキを突いた嫪毐と趙太后は挙兵します。しかし、咸陽を守る相邦の昌平君しょうへいくん昌文君しょうぶんくんに撃退され、捕まった嫪毐は車裂きにされ、趙太后は幽閉されます。二人の間に生まれた子どもたちを始め関係者も尽く処刑されました。

 嫪毐を趙太后に斡旋した呂不韋にもその累は及びました。役職を罷免され、蟄居生活を余儀なくされます。
 しかし、引退状態でも国内外に影響力を持った呂不韋を秦王・政は危険視します。
「あなたはどんな功績があって広大な領地が与えられたのか。
 あなたは秦王家とどのような縁があって仲父と呼ばれるのか。
 あなた達家族はしょくの地へと行ってもらおう」
この流刑の宣告を受けた呂不韋は自身の前途に絶望し、服毒自殺を図ります。紀元前235年のことでした。
 趙太后は10年の幽閉生活の後、亡くなりました。

 呂不韋と趙太后のくびきから開放された秦王・政は本格的に天下統一事業に乗り出していきます。
 この頃には蒙驁や王齮はすでに死亡しており、王翦おうせん桓齮かんき楊端和ようたんわ等の新世代の面々に代替わりしていました。
 次回は20代の青年王と新世代の将軍たちの活躍。そして最後の強敵についてお話していきたいと思います。